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【1989/05 komm tanz mit mir Ⅱ】⑧
「でも、おれは、アキくんとそういう関係があって、そういうのってまずいんじゃ」
「きみたちは法的には性的同意がとれる年齢にはなっている、やるべきことを放棄したり耽溺しすぎないようしてほしいとは思ってるけど、君たちがどんな関係を構築するのか、どうするかは僕たちが指図できることじゃないさ」
そこまで言うと、お父さんは一旦席を立って牛乳を耐熱ガラスのサーバーに入れてレンジで温めた。そしてそれぞれのカップに継ぎ足して、インスタントコーヒーとグラニュー糖のスティック包装を出して置いてくれた。
「最初に廊下で言った《スリップした》というのはね、依存症の患者さんが寛解、つまり症状が落ち着いて安全に暮らせるようになってからも、ストレスや同じように依存を抱えた他者からの誘いがトリガーになってまた手を出してもとに戻ってしまうことを言うんだ。つまり、今のアキくんにはアキくんなりに、何らかのストレスがあるんだと思う」
ストレス。そうだ。アキくんは自分が忘れてしまったことについて「お父さんもお母さんもやさしすぎるからなんか言えない」「きいちゃいけない気がして言えない」と言っていた。
あと、地味にお母さんや典子先生とも思うように話せないことなんかも、アキくんの意思とは反して制約が掛かっているわけで、本当はすごいストレスになっているんじゃないか。
「あとね、これは小さな子によくあることなんだけど、命の危険にさらされるような経験をした子が安全な環境を手に入れたことで、当時の状況を再現して遊ぶ現象があってね。意識を取り戻したばかりの頃アキくんにもそれが起きてしまっていた。事件での出来事とそれが元でアキくんは性依存症になった」
アキくんは、自閉症があって、事件の被害者で、記憶喪失で、性依存症の患者で、体の成長にも問題があって、肉も食べられなくて。
アキくんの中の積み重なっている問題はアキくんひとりで背負うにはあまりに多すぎる。
薄皮を剥くように取り除いてきたというけど、こんなの剥いても剥いてもきりがない。途方も無い仕事だ。
いくらこの人達がプロとして生涯をかけて取り組んでいるにしたって、普段ほかの患者さんも診ながらこんな状態の子にずっと対応しているなんて。
「アキくんはいつか治るんですか、記憶は戻るんですか」
「寛解や緩和はするかもしれない。でも記憶はどうなるかな。正直予想がつかないよ。ふとしたきっかけで戻る人もいれば、全然戻らない人もいるんだ。大人だと記憶を失くして失踪して、そのままになって見つかった街で新たな戸籍を用意してもらって暮らしているような人もいるよ」
ああ、それを思えばまだ、救出されて、この家に保護されたアキくんは幸運だったんだな。
「そしてアキくんのような自閉症児には、自閉傾向そのもの以外に困った側面があってね、通常の子が再現遊びやある程度忘れることで辛いことを乗り越えることができるのに対し、こだわりが強いこともあって記憶が明確に残り嫌な出来事をなかなか忘れることができない。ふとした瞬間に今起きていることのように鮮明に思い出して混乱をきたしてしまう」
「フラッシュバックってやつですか」
「そう、だから、残酷だけど、頼むからこのままずっと思い出さないでくれと願っているし、親御さんを思い出させるようなものは出せない。今日見せるアキくんの子供時代の写真も、さくらさんが予め見せて問題ないと判断したもの、選んでおいた、アキくん単体で写ってるようなものしか出さないと思うんだ」
寝た子を起こすわけにはいかない、ということか。
「わかりました、それでいいと思います。おれの写真も家族が一緒じゃないの選別してもらっていいですし」
「ありがとう。おそらく、思い出してしまえばそれが幸せな記憶でもつらい記憶でもアキくんは傷ついてしまう。幸せな思い出は失ったものの大きさを思い知らせるし、つらい思い出はその苦しみを蘇らせてしまう。それを避けたいんだ」
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