195 / 440
【1988/05 Erwachen des Frühlings】⑥
余計なことは考えないようにしよう。そう決めて只、口を噤んで、日記帳を捲っていく。
里帰り出産だったためアキくんは母親の実家のある長野県で生まれている。その時はお姉さんも祖父母もアキくんの面倒を見ていた。その後数年も盆や年明けには数日帰省して実家で過ごしていた様子が記録されている。
その後お姉さんがアキくんに「しばらくうちに住まないか」「うちの子にならないか」と言い出したのは小2。アキくんの不登校を知ったのがきっかけになっていた。
直接両親に「養子にしたい」と言い出したのはその後4年生くらいからだが、その頃既に発達に特性があり生活に援助や配慮を必要としていた上、思春期早発が始まっていた。しかし、そのことは明確には伝えず、持病があると言い断った。
しかし、徐々にその要求はより強いものになりご両親は実家に関わるのをやめた。やがて身内に一切転居先を告げずに事件があった物件に引っ越すことになる。
アキくんは新しい学校に転入したもののやはり学校という場には馴染めず、家で学習を進めていたが担任になった先生が熱意はあるが配慮を必要とする児童に対する理解が薄く、対処に困っていた様子が伺えた。
事件があったのはその年の遠足の日だった。そして、それが最後の記録。
一通りの流れがこれでわかった。
「なるほど、これは確かに疑うべき人間はもう決まってる、この事件の首謀者は少なくともお姉さんの可能性が高いね。お姉さんの旦那さんや祖父母については特筆すべき発言や記述が殆どない」
ノートを順番通りに並べ直して田川に返す。それを受け取りながら田川が言った。
「フジ、その女、直接的に要求していたってことはそんなに頭が回るタイプでない気がする。多分お前ぇがカマかければ一発で吐かせられる」
「それはまあ、そうだろうね」
箱に入っていたアルバムを取り出して、家族の写真を見る。写真館で撮った何らかの記念写真と思われるが、スーツ姿のやや年を召した神経質そうな男性の膝にまだ幼い頃のアキくんが座り、カメラにはまったく見向きもせず図鑑を開いて夢中で見ている。
そのとき撮ったと思われるもう1枚の写真では、アキくんがお父さんの手をとって何かを示させている。手のクレーンだ。
「やれるか」
「いいよ、アキくんの世話と一緒に引き受ける」
アルバムを捲っていくと、プランターに育った野菜を取ってうれしそうに笑っていたり、動物園のふれあいコーナーで雌鶏を抱っこしたり寝転ぶヤギの背によりかかってたり、採取した昆虫やおたまじゃくしをカメラに向けて差し出して見せている写真もあった。
写真の他にも、落ち葉や野の花を押し花にしたものだとか、虫や魚をスケッチしたものが親御さんによってきれいに保存されていた。この子は人に興味が持ちにくい反面、生き物は好きなんだなというのがよくわかった。
今でももし興味に変化がなければ、そういった好きなものに触れさせてあげたほうが気も紛れるだろう。回復するための意欲にもなるはずだ。週末のうちに用意しよう。もしそれで反応が良ければ改めて外出の許可が取れるかどうか確認して連れていければ尚良い。
「そういや、アキくん意識戻ってからこんな笑ってるのおれぁ見たごとねぇ」
ちょっと寂しそうに笑って田川が呟く。
「そのうち見れるようにするさ…そうだ。話は変わるけど、現場では今まで通り旧姓で呼んだほうがいいのか?」
「や、できれば今の苗字の方がいい」
それもそうか、結婚すると知らせがあったきり連絡は途絶えていたが、あれからもうかなり経つ。子供もいるんだよな。
「そうか、じゃあ、週明けからよろしく。小曽川先生」
手を差し出すと、厚みのある手が握り返した。しばらく為すがまま手を握りしめられていた。
ともだちにシェアしよう!