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【2020/05 野火】⑪
ジャケットの裾を捲り、スラックスのウエスト部分に留めてあるオーガナイザーから、片面がガーゼ地になっている小さいタオルハンカチを出して南の目元を押さえる。その上から手を添えて、南は泣いた。
「どうしてって言われてもなあ…」
おれは、自分の課したルールにだけは忠実であり続けることができる、寧ろ、そのためにはおれは自分自身だって欺く。
今ここにいる自分は自分の課したルールに則って、あとから作り上げたものであって、おれには本当の自分なんかわからない。
おれが再び、どうにか生きなければいけないことに気づいた時、元々のおれがどんな人物だったのか知っている人間はいなかった。
たくさんのノートやアルバムに残されていた周囲の人間による記録としての自分と、なくなってしまったその原本であったはずの自分について、おれは何も知らない。
残された空っぽの状態の自分を支えるものは、それ以前に吸収した知識と、自分で自分自身に課すルールだけだった。
「そんなこと、自分が一番知りたいよ」
そっと手を引き抜いて、ハンカチはそのまま預けて書庫をあとにした。
自分の部屋から鞄を取り、そのまま病院の車止めからタクシーを拾い多摩の校舎へ急いで向かってもらう。混雑していなければ30分ほどで着く。
移動の間、小林さんにそちらに向かっている旨メッセージを送る。すると、「緒方先生の代わりに同席することになったので、到着したらお迎えに上がります。ご連絡ください。」と返ってきた。困った。
そりゃ、多摩に居たときは仕事を手分けしたり、協力し合ってたのでそれなりには一緒だったので他の人と比べたら遣り取りしたり話したりは多少できなくはないけど、背が高い女性というだけでやっぱりちょっと身構えてしまう部分がある。
だからこそメッセンジャー的なものやメールを頼っていたわけで。でも、心身に焼き付いたものがそうさせてしまうだけで、小林さんがどうだというわけじゃない。それだけに心苦しくもある。直接会って話すのはいつぶりだろう、うまく話せるだろうか。
会議室を出て、飯野さんのデスクに向かったが居ない。
残っている先輩に声をかけると「会議で本店」といわれたので、取り急ぎ会議室に戻ってLINEを送ってみる。
「さっき藤川先生のお母様とお話できたんですが、おれのこと先生を発見したときのおまわりさんの息子さんでしょ?って言われたんですけど、そんなこと飯野さん言ってましたっけ…今ファイル確認したらほんとで、びっくりしてるんですけど…」
すると、すぐに返信が返ってきた。
「俺ファイル見せる前にお前の父親との関係も書いてあるって言ったぞ。聞いてるようで聞いてないなしっかりしろ(笑)」
…そうでしたっけ…?いつそんなこと仰いましたっけ…?
…だめだ、記憶にない。
おれは自分が思うより、やっぱり動揺しているんだなと思った。
飯野さんに午後からどうするのか指示を仰ぐも、連絡があるまで待機でいいと言われたので館内の自動販売機で普段飲まないエナジードリンクを買ってきて、ファイルを改めて読みながらちびちび飲んだ。
隅々まで読んでいると、生殖補助医療技術についての記載もあった。
卵管性の不妊の体外受精による治療は1977年が最初で、日本では1983年はじめて行われた。対して、男性不妊の治療として生まれた顕微授精法は1992年が最初と、大きく遅れを取っている。
まさにこの時差が、この事件を生んだのだ。
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