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【2020/05 野火】⑫
これがせめて、同じように原因究明や治療法が同時進行で行われていたら、先生はこんな目には遭わなかった可能性がある。
現在であれば不妊の原因は女性にあるとは限らず、その要因の比率は男女何れか半々であるというのが大前提だが、当時はそのように捉えられていたからこそタイムラグは発生したのだろう。
それだけではない。
そもそも、日本国憲法24条では「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有する」とされ、現民法では法律上の家制度は廃止されているにも拘らず、世襲や家督といったものを重んじる空気が現在と比べると、まだ色濃く残っていたことが、この事件の背景にはある。
殊に一次産業二次産業を主体とする地方や、また、事業創業家一族や代議士等においても未だその風潮はみられ、現民法においても婚姻する場合は夫婦何れかの同氏を名乗ることが規定され生来姓の維持が出来ないという不合理な齟齬がある。
そして、そういう背景があった故に生じた、家督のために選択の余地もなく地方の旧家に残されたのに子を成せずにいた姉と、首都圏に進学し自分の追い求める分野に進みそこで結婚相手を見つけて男児に恵まれた妹という構図。
これは、そういった、家だとか、地縁だとか、血統だとか、性別だとか、さまざまなディバイドの積み重ねが引き起こした事件だ。
勿論、それ自体は不遇だ。
だけど、だからといってそれは持つものから持たざるものが奪い取れるものではない。
相手から奪うことは勿論、その関係者、子供の尊厳を踏み躙ってどうなるものでもない。
許されることではない。
記録によれば、首謀者である先生のお母さんの双子の姉は、その罪を償わず獄中で自死している。
遺されたその旦那さん、先生のお父さんの遺体を遺棄したと自供していたというひとは、収監され、その後満期出所し、まだ生きているという。
(刑法第190条の死体損壊・遺棄罪においては、死体、遺骨、遺髪又は棺に納めてある物を損壊し、遺棄し、又は領得した者は、三年以下の懲役に処するとされている)
何処にいるんだろう。どうしているんだろう。今はこの頃のことはどう思っているんだろう。何を思っているだろう。
多摩キャンパス併設の付属病院の車止めにつけてもらい、タクシーを降りた。
構内を歩いて医学部医学科の校舎に向かう道すがら、小林さんにメッセージを送る。
「到着しました、病院の方で降車して向かっています」
間もなくして返信があり、エントランスで落ち合うことになった。
到着すると猫背気味の背の高い女性が壁にくたっと寄りかかってスマートフォンをいじっているのが見えた。
「小林さん」
中に入っておれが声をかけると、その眼鏡のショートボブの女性はハッとした顔でこちらを見た。
最後に会ったときと比べると髪の毛が随分短くなっているし、マスクで口元は見えないけど、間違いなく小林さんだ。
「あ、おひさしです…よかった、相変わらず細いですけど、思ったよりお元気そうでよかったです」
襟元を指差して「小林さん、髪は?」と訊く。
「あ、あれは目標だった5年伸ばしたので、年度変わる前に寄付したんですよ。医療用のロングのウィッグ作る用には、50cm以上必要だったんです」
はにかんでちょっと遠くを見て言う表情は、当時と何も変わっていなかった。
小林さんはおれを気遣ってあまり距離が近くならないように、できるだけ静かな物言いでゆっくり、具体的に話してくれる。
「緒方先生とは連絡取れました?何か仰ってましたか?」
「同席できないからフォローできないよって。あと、落ち着いたら顔見せなってさ。それと、ヤケ起こすなよって。そのくらい」
そう言うと小林さんは腕を組んで困り顔でうーんと唸った。
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