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【2020/05 野火】⑬
どうしたのかなと思い、そっと下から顔を覗き込む。
「あの、あまり、その、至近距離で見つめられると…あ、藤川くんマスク持ってます?着用するように通達出てたと思うんですけど、あの」
急にしどろもどろになって、身振り手振りしながら、小林さんが言う。
「はは、お気遣いなく、一応鞄に入ってるので着けるよ」
鞄の背面のポケットに挿してある個包装の使い捨てマスクを1枚出して封を切って着用する。
「でもさ、これある程度ちゃんとしたメーカーの選ばないと耳痛くなったり肌荒れるよね、正直」
「わたしもう手遅れです、あと、手洗い消毒しすぎて手だけ一気に老けた気がします」
そりゃそうだ。ここではこのエリアのかなりの数の異状死の剖検を取り扱っている。今のように未知の感染症に汚染されているリスクを疑う必要がある状況が続けば尚更だ。
正直今の校舎で仕事するようになってからおれが見ている数はは、剖検を請け負う数は監察医務院に呼ばれる数を含めたって、多摩に居たときに比べたらずっと少なくない。
実験やデータを取るための検査であちこち出入りしたり、授業したり、ゼミ指導したり、そういう時間を含めたとしてもマスクを着用する時間や手洗い消毒の回数は少ない。
「まだアラサーだし巻き返せるんじゃない?セラミド原液とか幹細胞培養液とかオバジの一番高いやつとかよさげなやつ全部混ぜて塗ったくって絹の手袋して顔もパックして寝るとか」
「無理ですよ、藤川くんみたいに普段から顔面に課金してないですしわたし」
課金ってそんな。ゲームじゃないんだから。
ツボに入って、マスクの下で声を殺して笑っていたらバレた。
「そんなに面白かったですか?役員会の途中で思い出し笑いしちゃだめですよ」
改めてそう言われると余計笑ってしまいそうだ。さっき長谷にもいつもと違うって言われたし、ちょっと効きすぎている感じがする。気をつけないと。
「長谷、いるか」
16時近くなって、ようやく飯野さんが戻ってきた。
「わ、お疲れさまです。連絡来ると思って待ってたんですよ」
「すまん、ちょっとせっかくだから此処で休ませてくれ、疲れたほんとに」
おれが資料を広げていた長机の端っこの椅子を引き出してぐたっと背凭れに背中を預けて、脚を投げ出してだらしなく目を閉じて座る。
「藤川先生、本当に仕事辞めるんですかね」
「まあ、本人がもう辞める言ってんだからそうするんじゃないの。まだ何もその後連絡ないの」
役員会が何時からなのかは聞いていないけど、もうそろそろいい時間ではある。でも専門性の高い教育研究の場であるという性質もあるし、時間が読めない。
「はい…あの、ていうか、まさか今からあっちの世界に行っちゃうってことないですよね…」
そう言うと飯野さんは目を閉じたまま溜息交じりに笑った。
「勘弁してくれよ、話が益々ややこしくなるだろ…そもそもヤツに何のメリットもないだろ」
どうだろう、リスクを背負ってまで25年とかそういうことをしてきたのは、本当に娘さんのためだけなのかというと、正直腑に落ちない部分もある。
「あ、長谷。とりあえず土日は休みでいいから気分転換してこいよ。週明けまでにおれから確認とって、もし見学修了でいいってことだったら担当相談しておいてすぐ入ってもらうから。シフトとかは追々で」
「はい、わかりました」
とは言ったものの、気分転換ったって何をどう転換したらいいのか。
少なくともまだ先生からの連絡は引き続き待たなきゃいけないし、今日このあと藤川先生のお母さんと会うし、そこで聞いた話によってもまた色んな感情に苛まれそうだし、ずっと気を揉んで過ごすことになりそうだ。
自分が選んだこととはいえ、何でも話せるような親しい友人が居ないというのはこういう時しんどい。せめて、家族が居たら違うんだろうけど。
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