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【2020/05 野火】⑭
《第3週 金曜日 夜》
結局、退勤する時間までに先生からの連絡は来なかった。おれは飯野さんにお礼を言って資料をすべて返し、片付けをして品川駅に向かった。
民間と比較したら早めの退勤時間ではあるのに、もう新宿方面行きのホームは人で溢れそうになっている。それでも幸い身体がそれなりに大きくて体力もあるのでそんなに苦ではない。
手ぶらで行くのもアレなので新宿に着いてから百貨店で手土産を買う。甘党なのかそうじゃないのか、食べ物の好みがわからないので日持ちしそうな焼き菓子と煎餅を買い、目的の駅に向かう急行に乗り込んだ。
大石先生にもらった住所を地図アプリで確認すると、急行や快速が停まる比較的大きな駅があって駅前は結構栄えている。お土産は着いてから買っても良かったかもしれない。そこから河川敷に向かう途中の大きな通り沿いに住んでいるようだ。
そして、もう1つあることに気づいてしまった。先生の大学の、多摩のキャンパスはそこから割とすぐのところにある。その距離、同じ通りに道なりに歩いて僅か2km。徒歩だったら、おれの脚なら20分かからないくらいかもしれない。
今日のその役員会、もしおれの予想が正しければ、大学の本拠地は元々こっちのキャンパスだと聞いているので、先生はおそらく、今日こちらに来ている。いや、でも、そんな、たまに病院で会うくらいって言ってたし、まさかニアミスとかはないでしょ。
先生からはまだ連絡は来ない。状況が状況だし、話し合いが長引いてるのかもしれないし、今日すぐに結論が出ないのかもしれないし、おれに構ってる場合じゃないだろうし、そんな都合よく事が運ぶわけないし、と自分に言い聞かせる。
しかし、意識した途端拍動は強く早くなり、車両の窓が開いて風が通り、さして暑くもないのにじわじわと変に汗をかいてしまった。駅に着くなり駅ビルのトイレで一旦着ていたものを脱いで消臭スプレーを吹き付けてドア上部のフックにかけて、その間にボディシートで体を拭く。
合間にちらちらとスマートフォンを見るが、やはり先生からの連絡はない。とりあえず駅に到着したので歩いて向かうことと、食事を楽しみにしている旨を先生のお母さんにメールで送り、服を着直し、ロータリーや大きな建物がない住宅地側から駅を出た。
道なりに大きな通りに突き当たるまで5分程歩くと建物が見えてくる。聞いていたとおり、ぱっと見た限りではごく普通のマンションだ。但しエントランスに入ると詰所のような部屋があり、声をかけるとマスクの着用と消毒をお願いされたので従って手渡された使い捨てのマスクを着け、備え付けのアルコールで手を消毒させてもらってからエレベーターホールに向かった。
指定した階で下り、住所にあった部屋番号のインターホンを押して名前を名乗ると、昼間聞いたあの声が返ってきた。そして足音が近づいてきて鍵を解いて扉が開く。
「こんばんは、遠いところようこそ」
先生と同じくらいの身長の、穏やかながら目力の強いショートのグレイヘアの女性が出てきた。
「あの、これ心ばかりですが…」
持っていた手提げを差し出すと「そんな気を遣わなくてもいいのに~…って思ったけど、わたしこれ好きなやつだし、有り難く頂戴します」と手を合わせてから受け取ってくれた。
変に遠慮やかしこまった対応をしない、素直で明るい人で、おれはなんとなく安心した。
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