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【2020/05 野火】⑰
先生のお母さんは「わたしたちは保護者である以前にあくまでも治療者だから」と言った。
先生は、聴取を受け事情を一通り話し終えたあと記憶を失うと同時に、その時点くらいまで精神面が退行してしまっていたのだという。
そこからは少し踏み込んで、やや専門性の強い話になった。
退行の原因にはいろいろあるが、そこには「固着」との大きな関係があるとされていて、それは本人の中のリビドーが、ある発達段階に相当量積み残されている事を意味するという。
リビドー、ラテン語でlibidoとは、日常的には性的欲望や欲求または性衝動を表現する言葉、性的衝動を発動させる力のことで、生得的に備わっている衝動の原動力となる本能エネルギーのこと。その過度の満足あるいは不満足は、発達を特定の段階に留まらせてしまうという。
そういった内的欲望に対する外的圧力に適応するための葛藤や自制心があるほど自我は脆弱になり不満足を起こしやすくなるので、何か問題が起きたときにその時点に退行する要因になる。
健康な退行と病的な退行は、その「固着点から正常な精神状態に立ち返る事が出来るかどうか」で決まるが、先生の場合その固着点自体の想定が難しかったという。
と、いうのも、先生は今でいう発達障害がある子だったためだ。今では神経発達症、少し前なら自閉スペクトラム症、もっと前なら高機能自閉症と呼ばれていたそれは、当時は疾患として認識されておらず、単に「情緒不安定な問題行動のある子供」として扱われていたという。
知能自体が低いわけではなく、知的な遅れはない。しかし詳しく機能別の知能指数を見た場合、一部に極端に不得意な部分がある状態になっていることが特徴で、脳内の内分泌の仕組みやそのための神経に障害があること、遺伝子的には精神=脳や神経の疾患と同じ原因遺伝子が関わっていることが近年の研究で徐々に明らかになっているという。
そして、そう言った障害を負っている人たちは実年齢の2/3程度発達にズレがあり、幼く見られがちだと言われている。このことに照らし合わせると、先生は事件があった12歳当時、内面には8歳くらいだった可能性が高い。
でも、身体はそのあたりから思春期双発の影響で急激に発達して、性的欲求もすでに成人とほぼ同じになっていた。そもそも身体と精神に非常な、通常では起き得ない大きな乖離があったのだという。しかも、先生は実のお父さんに対して強い憧れと恋愛感情、性的衝動を持っていた。
なので、記憶を失って退行した時、再びその時点に引き戻されてしまった。振る舞いや言葉も8歳程度の子供と同じ状態になってしまっていたのだという。
「でも、身体機能や知能的には専門の医療ケアが必要になる問題がないから、養護学校には入れてもらえなかったの。だからね、近くの地元の中学に通わせるしかなくて。でも到底普通学級で馴染める状態ではないから、保健室登校で個別指導にしてもらうようお願いするのがやっとだったの。それもたまたま学校に既に保健室登校している子…ハルくんみたいな子がいたからできたことだったの。そして、実際に通わせてみたらそういう発展があった。それまでわたしたちは状況が状況でそもそもの症状が重いことからも、アキくん自身がそれまで学校社会に馴染めず通っていなかったという記録からも、将来的に社会や地域の中で生きていくのは難しいんじゃないかと決めつけていた部分があった。でも、そういう出来事があって見方が変わったの」
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