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【1997/05 L'amour sans les gens】①
《第1週 土曜日 朝》
せっかくの旅なのに、決めたときはあんなに楽しみにしてはしゃいでいたのに、アキくんは浮かない顔をしている。ぼくは正直どう接していいものかわからずにいた。
きっかけは年度末の、所謂春休みだった。
わたしが家の書斎で旧いカレンダー口絵についている旅客機や機関車、ブルートレインや季節運行の特別車両などの写真の中から気に入ったものを選び額装し直していると、一人息子の明優、アキくんが入ってきて暫く何も言わず、傍らでじいっとその様子を見物していた。
「お父さん、飛行機とか汽車好きなの?」
「うん」
「本物見たことある?」
「あるよ」
「いいな、アキくんはこの汽車がいい」
ぼくの服の裾を引っ張って、床に置いて乾かしていたC62の写真を指差して言うので、ぼくは「じゃあそれはアキくんの部屋に飾ろう」と言った。そして、昔はよく自分でも写真を撮りに行ったことを話し、5月の連休に男二人で空港傍の公園や線路が見える邪魔が入りにくいところに一緒に撮りに行こうと提案するととても喜んだ。
「お母さんは一緒に行かないの?」
ぼくはこの時まだ、妻が懐妊していることは話せずに居た。
「たまにはお母さんもお休みの日がないと。ゆっくり何もせずにひとりで過ごせる時間を作ってあげようよ。あと、せっかくの休みなんだからお父さんと病院以外の楽しいとこに一緒に行こう」
「うん!」
此処まではよかった。行き先や旅程はスムーズに決まり、それに合わせて使う交通機関を確認し、宿も確保した。しかし4月の末、連休に入る前に問題が起きた。
心無い第三者のせいでアキくんが妻の懐妊を知ってしまったのだ。
ぼくはアキくんが多かれ少なかれショックを受けるであろうことを想定して、妻も同意の上、旅先でぼくが責任をもって、できるだけ内密に荒立てずに伝えるつもりでいた。その計画が台無しになった。
アキくんは元々甘えん坊ではあったが、ぼくに向けていた好意は、親という存在に対する単純なそれとは少し違っていた。それはアキくんの身体が急激に成長し始めてから、顕著になりつつあった。
だからといってアキくんは母親である妻に嫉妬の目を向けるようなことは一切なく、母親のことは母親のことで大好きで、同じくらい甘えて彼女からも絶対の安心と愛情を存分に受けていた。
しかし、ぼくらはある時から対応に苦慮していた。
水気が顔にかかるのを極端に怖がるので、以前からぼくが髪を洗ってあげていて、風呂にも一緒に入ってあげることが度々あったのだが、ぼくと裸で向き合うことを恥ずかしがり始め、やがてそれがぼくに欲情しているのだと気づいた。
そして今年に入って間もない頃、或る晩、妻と睦み合う姿を、アキくんに見つかってしまったことがあったのだ。
気づいて声をかけるとアキくんは蹲って泣いていて、近づいてきたぼくを、今までないほどの癇癪を起こして叩きながら泣き叫んだ。しかし、同じく傍に駆け寄った妻には一切暴力は振るわなかった。
妻は「アキくん、ごめんね、お母さんお風呂入ってくるから、お父さんと仲直りしてね」と言ってそっとその場を離れた。その時の憤りと困惑に満ちたアキくんの表情は今でも忘れることが出来ない。
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