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【2020/05 消失】①

呼びかけに僅かに顔を上げて先生がおれを見る。近づいて傍らに膝をつくと、先生は床に手をついておれに這い寄って、縋り付くように抱きついた。床に置かれた先生のスマートフォンの画面に目をやると、LINEのトーク画面が開いたままになっている。相手の名前は「ふみ」とだけ表示されていた。 一番最後のメッセージは、相手からの警告だった。 「仕事場や家にいるならそこから出るな、外から中を見られないようにして窓から離れて物陰にいろ。こっちには絶対に来るな。」 先生の背を支えるように抱いたまま、もう片方の手を伸ばしておれは自分のスマートフォンを一旦置いて、先生のスマートフォンを指先で探り、トーク画面を遡って今朝の遣り取りを時系列順に読む。今は午前8時過ぎだ。一番古いタイムスタンプは7時02分。先生から「おはよう」と送っている。その時刻、おそらくおれはまだ寝ていた。 よく見ると、その前の日も、更に前の日も、だいたい同じ時刻に同じように挨拶を送っているが、向こうからは全く返信がない状態が続いている。今日になって急に遣り取りが再開されていた。しかし、相手は先生に対して何か返しているのではなく、一方的に報告し、指示するような調子で送ってきている。 だいたいの流れとしては最初に先生が挨拶を送って、仕事が今後どうなるのか、前に言っていた相手と同居することになったこと、その相手、おれが来てること等ざっくりと報告してからややしばらくやはり返信がなく、先生は「相変わらず釣れないなぁ」と送っている。それがほぼ毎日だ。 だが今朝は様子が違う。その遣り取りから暫く時間を空けて、向こうから急に矢継ぎ早にメッセージが入っている。 「オヤジが撃たれた」 「多分助からない」 「オヤジが死んだら契約はその時点で終了だ、お前はもう俺らに関わるな」 やはり間違いない、おそらくオヤジとは撃たれて亡くなった人、つまり先生の売春相手、パトロンだったという、通名で征谷直人という男だ。では、この「ふみ」と呼ばれている人は何者なんだ。訊いてもいいのか。いや、わからない。訊くとしたら勝手に覗き見た事自体言わなければいけない。 先生はおれにしがみついて動かない。おれの背に食い込む指が震えている。下手に声をかけたり、動かそうとしたら取り乱してしまうかもしれない。幸いこの部屋は昨日の模様替えで本棚を移動したことで窓も塞がれていて外からは様子を全く伺うこともできない。多分このまま待ったほうがいい。 それなりに頑丈な本棚に連量の重い密度の高い紙でできた専門書がぎっしりと詰まっていて小口径ピストルやリボルバーに使う弾では部屋の中まで届かないはずだ。 最上階でリビングや寝室も外からは見えないようにしてあるとはいえ、建物が比較的密接しているから何処から狙われてもおかしくはない。他の部屋に移動しないほうがいい。 先生のスマートフォンの電源ボタンを押し、画面を消してから、床に置いた自分のスマートフォンのブラウザ画面をタップしてページの更新をかけると、逃走していた狙撃犯は撃ち返された銃弾によって負傷しており、逃走途中で確保されたと報道されていた。 撃ち返した?誰が? 狙撃した側もそうだが、大きい組織の下にある都心の団体はどこも協定を組んでいて今は銃器を使った闘争は即時破門となるはずだ。それをやれる組織に正式に属さない人間に狙撃や護衛を依頼をしたのか。だとしたらそれ自体は協定の内容的には許されることなのか。そういうのはそっち方面の対応が専門の飯野さんじゃないとわからない。 そもそもこの件が、どういう背景があって、それは藤川先生に直接関わることなのか、確認しないと。

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