295 / 440

【2020/05 消失】⑩

中に入ったまま、先生が戻ってこない。 「大丈夫ですかね、先生」 大石先生に呼びかけてみたが、ベンチに座って待つおれの傍らで大石先生は腕組みして壁に凭れて立って目を閉じている。もしかして寝てる?この状況で?てか寝てていいんだろうか、そもそも勤務中に抜けてきてるはずだし、いいわけないと思うんだけど…あの弟(なのか?)にして、この兄(あのか?)あり…というか、なんというか。 仕方なく、おれはダメもとで先生にLINEで「大丈夫ですか」とメッセージを送ってみたが、もちろん既読にすらならない。不安な気持ちのまま時間だけが徒に過ぎていく。 静まり返る中、扉の向こう、廊下の方から硬い靴底が床を打ちながら近づいてくる気配がした。低い年配の男性の声で「こちらです」と扉の手前で案内するのが聞こえ、間もなく扉が開くとそこに、タクシーの中で見た、先生の実のお父さんに瓜二つのあの男性が現れた。 「大石先生、こちらにいはります?警察の方、上で待ちくたびれてますよ」 呼びかけに大石先生が目を覚まし唇の前で指を立て、その人を睨んで、静かにするよう命じた。 「クズ先輩、声でかいですよ」 厳しく言う大石先生に構わずその人は近づいていき、その脇によって肘で小突きながら話を続ける。てか先生、今、クズって言った気が。 「まだ中におんの?入ってどのくらい?」 「10分なんで、そんなでもないですよ。遺体の状態見てるんだとしたらまだ出てこないと思いますけど」 おれに対してはにこやかで気前のいい大石先生が今まで見たことがない棘のある態度で人に接しているのを目の当たりにして、おれひとりだけ冷や汗をかいている。言われている本人は気にしている様子はなくて、寧ろ状況を楽しんでるようにさえ見えた。 「ところで、そこのボク、きみは玲の何なん」 突然呼びかけられて、はっとして顔を上げて声がする方を見上げると、いつの間にかおれの目の前にその人は立っていた。黒いアッパーリムのクラシカルなかたちの眼鏡の奥の目線は声色から想像していたより優しい。本当に、先生のお父さんにそっくりだ。 「おれは、あの、今度から一緒に暮らすことになってて、その準備で昨夜から一緒にいました」 「…はーん、じゃあ、今ここにおる人間は全員玲と寝た人間ってことやね」 大石先生とおれは確かにそうだ。亡くなった征谷さんも勿論そうだ。この人も、先生と? おれが戸惑っていると、霊安室の方を親指を立てて指差して更に言う。 「もっというと、中にいる仏さんもそうやろ、穴兄弟の同窓会やん」 その事実を表現するには適当且つ下品すぎるワードを出されておれは面食らってしまった。 おれが酸欠の金魚みたいになっている横で、大石先生が冷静に「霊安室の前で言うことじゃないでしょう」と窘めた。 「そらまあ、霊安室でやることちゃうわなぁ」 動揺するおれを面白そうに眺めているその人の後ろで音がして、霊安室の扉が開いた。先生が戻ってきた。 先生は、特に表情の変化もなく、泣いたような痕跡も見受けられない。 「先輩」 呼ばれたその人は振り返り先生を掻き抱いて、おれと大石先生の目の前で深く口付けた。先生は抵抗する素振りもなくそれを受け入れ、そのことにおれは直に胸を刺されるような痛みを覚えた。 先生が他の人と関係を持つこと、そうあり続けることは、先生にとって必要なら耐えようと思っていた。でも、いざ、実際にその様をこうやって目の前にする事があるとは思っていなかった。

ともだちにシェアしよう!