296 / 440

【2020/05 消失】⑪

胸の奥に深く杭を打ち込まれ、突き刺さったまま抜けずに脈打っているかのように痛い。 唇が離れ、先生がおれの視線に気づいて一瞬こちらを見た。その目を遮るように腕が伸び、先生の肩を再び捉える。 「玲に付き添って上戻るわ、あと任せてもろて大丈夫やさかい、きみら戻ってええよ」 そう言うと、先生の先輩はスチールの扉を開けて先生を連れ去った。大きな音を立てて扉が閉じた後も、おれは動けずにいた。 「長谷くん、このあとどうする?」 大石先生から声をかけられて振り返ると、表情は硬く、苛立った様子を隠してもいなかった。 「すみません、ちょっと、頭の中真っ白で、何も」 本当に思考が止まってしまっていて、何も考えていなかったし、それどころかこんな簡単な受け答えさえシドロモドロになるほど、おれはまだ動揺している。 ここからだったら暫く通ってた慣れた場所だし、15分から20分もあれば自宅最寄り駅に帰りつける。余計なことは考えないで、明日からの勤務と引越に備えて準備を進めるほうが無難だ。でも。 「でも、あの、訊きたいことがあります」 迷いながらも切り出すと、大石先生は「いいよ、何?」と言ってくれた。おれは、先生のLINEに名前があった「ふみ」という人物について知っているか尋ねた。答えはすぐに聞けた。 「同棲してるときにアキくんをうちに送り届けに来たことが何度かあるよ。あと、今回搬送してきたのもそいつだよ。この感染症対応やらなんやらでクソ忙しい、受け入れも面倒なときに飛び込みで来た」 まさか、本人がここに来ていたとは思わなかった。でも、先生が言う通り「下僕みたいなもの」だとしたら傍で世話役をしていたようなイメージだし、不思議ではない。 「搬送した後、その、ふみさんはどうしたんですか」 「いなくなった」 ここに征谷さんを運び込んだ後、征谷さんの内縁の妻に至急病院に来るよう連絡をとり、そのまま用便に行くと言ったまま姿を消した。防犯カメラに救急を出ていった様子や、乗ってきた車に戻って病院を後にする様子は写っていたが、その先の足取りはまだ警察でも追えていないという。 「あとはおれは、征谷直人がアキくんと契約していたこと以外、何も背後知らないよ」 「…ですよね…管轄じゃないからおれも何もできないですし、おとなしく帰ります。…大石先生はこのあと、仕事戻られますよね?」 ベンチから立ち上がって、スチールの扉を開けて通路に出た。機械室からの音だけが殺風景な空間に響いている。 「うん、あと、長谷くん」 大石先生がおれの腕を掴んで顔を寄せて耳打ちする。 「わかると思うけど、本来だったら亡くなった方のご家族でも職員でもない部外者連れてここに案内したこと自体まずいことだから、今日のことは口外しないように」 おれは小さく「それは、勿論です」と答えて頷く。 そのまま会話もなくエレベーターで一階に戻り、大石先生がERに戻るのを見送っておれは外に出た。 此処暫く見学で来ていた校舎を背に、通い慣れた道を御成門駅まで向かい、そこから地下鉄に乗る。スマートフォンで報道を確認すると、容疑者を撃ち返して負傷させたとして1名が逮捕されたという情報が出ていた。しかし、捕まったのは「ふみ」ではない。何故かおれはそれに安堵した。 今日はもう先生戻ってこないだろうし、おれが心配したって何ができるわけじゃない。落ち着いたら連絡くれるように先生にメッセージを送って、あとは帰って、余計なことは考えず、明日からの勤務や引越しに備えて準備を進めておくくらいしかできない。 しかし電車を乗り継いでなんとか家に帰り着くと、もう一気に気が抜けてしまい床に荷物や着込んでいたものを脱いで投げ置いて、備え付けのベッドに倒れ込んだ。どうしても先生と先輩のことが自分の中でひっかかって、帰ったらやろうと思っていたことも何も手を付ける気になれなかった。 それと、流石にあの状態の大石先生には訊けなかったけど、先生と「ふみ」の間に、肉体関係とか恋愛感情はなかったんだろうか。直接契約があった本人が死んだからもう関係ないといえばないだろうし、そんなこと考えたって仕方ないけど、でも。

ともだちにシェアしよう!