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【2020/05 in nest】⑦
《第5週 水曜日 朝》
その晩はそのまま眠った。
翌朝になって起きて身嗜みやら着替えをしつつ、先生は言った。
「実を言うとさ、高校時代のこと、飯野さんからちょっと聞いてはいたんだよね。でも具体的に何があったとか、そうなるに至るまでどうだったとか、そういうことは長谷が話したくないならそれでもいいと思ってた。でも昨日みたいに、話したいと思ったらいつ話してもいいよ」
「ありがとうございます、手続き終えて落ち着いたらまた話します…実は勤務形態とか職務内容的に手続きを一気に進めるのも難しいし、しかも前の物件の退去時の立ち会いもリスクだし、どうしようかなって思ってて…」
正直、まだ安心はできない。完全に前の生活圏から生活痕跡を消すまで落ち着かない。気が重い。佐藤さんから追われないよう勤務先からの帰路もまだ油断はできないし。引っ越しただけでは多分終わらない。
「そんなの平日時間がありそうな人に頼めば良くない?役所関係は紙一枚で委任できることもあるし、本人じゃなくてもいいことだって多いじゃん」
「え、でも、おれ、身近にそんなこと頼めるような人、今いないですよ?先生にも頼むわけに行かなくないですか?」
そう言うと先生は顔を上げておれの顔を見てニヤリと笑った。そして、親指を立てて斜め左後ろを差して言った。
「おれじゃなくても、頼れる人材は居るじゃん。南とか」
「小曽川さんは先生のサポートであって、おれのお遣いまでする義理はなくないですか?」
おれが狼狽しているのを尻目に、先生はリビングを抜けて洗面所に向かう。後を追って行き、促されるままに先生おすすめのレモンティー味の子供用の歯磨きジェルを載せた歯ブラシを受け取り、口に入れる。歯磨きジェルとは思えない味わいが脳に飛び込んできて混乱した。甘。
「大丈夫だよ、長谷が困ってるって言えばやってくれるよ、多分」
先生は磨きながらモゴモゴ喋る。おれも磨く合間に答える。
「でもそんな安請け合いしたら、きっと怒っちゃいますよ?」
「大丈夫らよ、南なんだかんだ優しいひ」
歯磨きを終えると先生は拭き取り化粧水と消毒用エタノールを使い捨てのカウンタークロスに染み込ませるとそれで顔から首周りからデコルテまで拭いてゴミ箱に捨て、部屋に戻ろうとした。
「あれ先生、顔洗わないんですか」
「今洗ったじゃん」
「えぇ…」
本人がそれでいいならいいけど、些か乱暴すぎる。その洗い方で肌は大丈夫なんだろうか。冬みたいに空気が乾燥していないとはいえ。
洗面所でおれが顔を洗ったり髭の伸びかけたところをチョコチョコ剃ったりしているうちに先生はサクサク身支度を済ませてしまったみたいで、今度は玄関の方から声がする。
「長谷、おれもう出るよ?」
顔や手を拭いたタオルを洗濯機の上において玄関に出て、先生を見送る。足元に置かれていた鞄を持ち上げて、靴を履いた先生に渡す。
「今日、先生は何するんですか」
「ん~、戻ってきたからには先ずあちこち顔出して色々謝って歩かないと。下手に肩書があると面倒くさいけど、しょうがない。あと、今後の進退どうするのか上の判断も確認しないと。表彰によってちょっとはいい方に動いてくれてるといいけど」
そうだった。
「よく考えたら、…先生クビになるかならないかの瀬戸際だったんですよね…」
「そうだよ、それで出勤停止になってんのに災害支援飛ばされてさぁ…」
半笑いで言うけど、結構洒落になってない。
「湾岸署にしょっぴかれて身柄確保でホテルに隔離されてんのにそっから強引にチョクで行ってましたもんね」
「まったく、万年人手不足の業界とはいえ人使いが荒いったら…まあいいや、行ってくるわ」
そう言うと、先生はおれに一歩近づいて爪先立ちになっておれの顎先にキスしてニヤリと微笑んでから出ていった。
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