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【2020/05 in nest】⑧

先生を見送り、一旦寝室に戻りスマートフォンを手にしてリビングのソファに腰を下ろした。このあとやることをチェックリスト化しておくためにアプリケーションを選んでダウンロードし、そこに入力していく。  時間が迫ってきたので実際にどうするかはまた後で考えることにして、とりあえず着替えておれも外に出る。  エレベーターホールとポストが並ぶだけのシンプルなエントランスを出て、ぎっしり自転車が並ぶ駐輪場に身を隠すようにして周囲を見回すが、特に人の気配はなく、それどころか朝の時間帯なのに人通りが少ない。路地を抜けて駅に向かって坂を登っても、意外なほど人が居ない。  地下鉄の駅に下りていくと、人の流れは改札を出て大きなビルのある都営線側の出口に向かっているようだった。その流れには乗らず今後の通勤の経路を検証すべくそのまま改札を通りホームに下りる。  到着する車両は上り下りともそれなりに混雑していた。混み合う車両になんとか乗り込み、停車するごとに降りて降車する人を通してまた乗り込む。  乗り換えで渋谷駅に下りると、構造がわからず迷うたび人に尋ねて回って余計な時間を食ってしまった。そのうち慣れるだろうけど、当面は此処のせいで時間が読めなそうだと思った。  なんとか山手線ホームまで移動して降りる人と入れ替えに流されるまま乗り込んで、身動きのできないまま耐えて、流されるまま品川駅で降りた。  時間を確認するためボディバッグからスマートフォンを取り出すと先生からメッセージが入っていた。 「長谷、家にいる?」  急用だろうか。急いで返信する。 「すみません、ちょっと通勤経路確認しに出てしまいました。混雑やばいです」 「そんなに?もしかして電車?うちから品川行くんだったら副都心線新宿三丁目で降りてりそな銀行の前から都バスで品川駅行けるよ」 「えっ、バス?」 「そう、バス」  そうか、通勤手段としてバスは考えたこともなかった。すっかり存在さえ忘れていた。  思えば基本的に寮や宿舎に入るよう言われているのでずっとそうしていた。  父親が入院したのを機に事務へ異動させてもらって、その時に何かあったときのため病院の近くに住みたいと願い出て許可をとって初めて北品川に自分で物件を借り、初めて民間のジムに加入した。  しかしその頃は朝早い時間帯に通勤していたせいかそこまで交通機関が混雑していた記憶はないように思う。  そのあとも父親が死んでまた寮に入って勉強して試験を受けて、専門課程に行って今度は宿舎生活。  配属が決まるまでの期間にちょっと嫌な思いをしたこともあって、迷った末再びなんとか理由をつけて許可をとって以前住んでた物件に丁度空いてる部屋があったので借りた。  先生のところでの見学が終わったら署に併設されている単身者待機寮に入るつもりでいたけど、それも宿舎での出来事を思い返すと不安で、なんだかんだ理由をつけて待ってもらっていた。  思えば早いところそうしておけば、ジム通いを再開する必要もなかったしストーキングする隙を与えずに済んだし、先生のところに居候して迷惑をかけることもなかったのだけど。  …やっぱりしばらくしたら、寮に入ったほうがいいよな、多分。  「てかさ、話しておいたよ南に。必要な手続きあれば合間にやってくれるって。書類とかはおれを通して渡してくれたらいいって」  「あ、え?もう話したんですか?」  「そりゃそうでしょ、警察官が住所不定のまま暮らすのまずいでしょ。あと引越業者も退去早く手配しといて、立ち会いもできないなら南に行かせるし」  あまりに効率よくサクサク物事を進める先生におれは言った。  「…先生、人使い荒すぎですよ…そもそも助教って教える資格もある助手さんで、あくまでも大学の職員じゃないですか…同居人の私用に使うのはまずくないですか?」  「大丈夫だよ、南は大学からもらってる給与より、うちの親がおれのお目付け役として払ってる給与のほうがでかいから」  え、どういうこと?

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