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第1話

1 マーレイへの手紙  俺の名はスクルージ。正しくは、チャールズ・J・スクルージ。  断じて〝エブニーザ〟などというファーストネームではないし、クリスマス・イブに押しかけた三人の聖霊に怯えて日和った死に損ないでもない。  あれは、憎むべきディケンズが俺への嫌がらせに書いた小説だが、忌々しくも売れまくり、忌々しくも世間には、あれを俺モデルの実話ベース寓話だと信じ込んでいる奴が多い。  タイトルは、えーと、ああ、「クリスマス・キャロル」か。  心のねじくれた老人〝エブニーザ〟・スクルージが、過去・現在・未来の聖霊の訪問を得て己の人生を悔い改め、その後は愛に包まれた温かな日々を迎えることになるという都合のいい物語だ。  知り合いどもは、本当の俺がどんなかを知っていながらあえて、「やあ、改心したんだってねぇ」とイジってくる。あるいは、「可笑しいよねえ、君みたいなビッチのことを世間は皺枯れた老人だと思っているんだもんねえ?」と、久しぶりに招きに応じ一戦交えた金ヅルの貴族院議員は、俺の身体を撫で回しながら愉快そうに含み笑い。なめらかな背中の曲線を指でたどり、尻を撫であげて、そこに口づける。  誰がジジイだって? 見ろよ、奴を夢中にさせているこの美貌を! 俺は奴の寝室の鏡に映るおのれを見つめる。陶器のようと喩えられる肌、闇色の艶やかな黒髪、細い金色に縁取られた緑色の瞳。 再び唇が背骨をたどり、首筋にたどりつく。と同時に身体が重ねられ、硬くいきり勃つ抜き身のサーベルで、バックからもう一回戦。  悪くない強さの突き上げを腹に心地悦く感じながら、俺は思う。  改心? そもそも俺に何を改心しろって?  議員殿の荒い息遣いと熱さに包まれながら、ディー……ディケンズのことばかり浮かんでくる自分に苛立った。  「ああっ! そんなに締めたら……あっ!」 無様に果てた議員の重さが背にのしかかる。  「重い。終わったなら、どけ」  昼下がりのロンドン。 リージェンツ・パークの目と鼻の先、ベイカー街の通りに面した二階建ての屋根裏部屋付きタウンハウスの一階が、金融業「スクルージ商会」の看板を掲げた俺のオフィスだ。 大きな窓からは、ようやく夏めいてきたフレッシュな陽光の下を、嬉しそうに行き交う人々の姿が見える。  こんな爽やかさは、ロンドンには嘘くさい。  産業革命とやらからこっち、我が都ロンドンは世界一の人口を持つに至ったそうだ。しかしその栄光の実態たるや、工場と家々の煙突が延々と吐き出す煙が満ちて大気は薄黒く石炭臭く、人が暮らせばおのずと排出される大量の汚物の臭いが、テムズ川を中心に瘴気のように漂っている有り様。  夜になって霧が深まれば、ガス灯のない通りではもう何も見えない。つまり、何をやってもバレない犯罪の温床となっている。  一方で貴族や上流階級連中の世界は、社交だ狩猟だ観劇だとますます華やかな様相を呈し、美しきヴィッキー女王陛下のお膝元にて、文字通りこの世の春を謳歌する。が、こちらもその実は、家柄の看板ばかり立派でまるで金のない奴らぞろい。華やかな世界に居続ける面目を保つため、笑顔の裏の水面下で必死にもがくわけだ……といっても、お貴族サマに働いて稼ぐ才覚などあるはずもなく、転げ転げて堕ちてきた末に、俺の大切な顧客サマになるというわけである。  光と陰、表裏一体。  そんな街にも、夏は来る。  カモがいないとき、俺はいつも日差しの届かないオフィスの奥、幅の広いマホガニーの重厚なデスク……のさらに後ろにある大きな椅子に埋もれ、インテリアの一部のようになって薄暗がりから世間を眺めている。   そんな俺は、ジジイか?   否! 今年、一八四四年で二十二歳。ディケンズより十も下だ。  だが、あの小説以来、店の重い扉の前でクスクスと話し声が聞こえることが増えた。〝ほらここだよ、あの小説のモデルになった高利貸しのおじいさんの店は〟とか何とか。  「小説のモデルはどいつだ」と言いながら、ずかずか入ってくる図々しい輩もいる。そんな奴らには、笑顔で追い出した後に知り合いのスリをけしかけることにしている。  つい先日など、お前のほうがまさにそのものだろう?という感じの痩せた鉤鼻のジジイがやって来て、俺の顔を胡散臭げにじーっと見つめた挙句、「ふん、こんな男か」と言い捨てて帰りやがった。    忌々しい。  だから時おり、こうして鬱憤を晴らす。  重たく軋む扉をいきなり開けて、クスクスやっていた上流階級のお坊っちゃんたちを脅かす八つ当たりだ。  ギギイイイーッ!  「きゃあっ!」 「おやこれは失礼。当店に、ご用ですか」  無表情のまま問いかけ、じっと相手を見つめる。  彼らは大抵、固まったまましばらく動かない。 「あ、あああ、こちらはあの、スクルージさんのお店では?」  ぱくぱくさせていた口から、ようやく言葉が出る。 「私が、スクルージですが」 「えっ」  セヴィル・ロウで仕立てた上質なジャケットとベストのウェストを絞ったラインが、その中にあるしなやかな身体の線を想像させる。  扉の奥の薄暗がりを背景に、ドア枠を額縁の如くして一幅の絵画のように立つ俺の姿が、階段の数段下にいる彼らをじっと見下ろす。  彼らは見惚れる。俺に。 「え、えええ! すみません」 「てっきりお年寄りなのだと……」 「こんなお若い……美しい方でいらっしゃるなんて……」 俺は笑みをもって応え、相手がポ~っとしているところへ、すかさず釘を打ち込んでおく。 「まあ、私が金貸しなのは本当ですが、あんなしみったれでも守銭奴でもなく、そもそも貧乏人いじめの趣味はございません。むしろ、貴族の方々相手にお貸しする専門でして、残念ながらご返済いただけないときは、誠に胸の痛むことですが致し方なく、涙を飲んで美術品や土地を(がっぽり)頂戴する次第です。さて老婆心ですが、ご令息の皆さま、ここにいらっしゃる姿をお知り合いに見られては、ご本人もしくはお家のほうに大金をご入用で必死な事情がおありなのではと勘ぐられる懸念がございますが、そこはご覚悟の上で、今こちらに?」  ぽかん。  やがて言葉の意味を理解すると、皆、慌てふためき、「ごきげんよう!」と去っていく。  ふん、愉快、愉快。  ――こぉら、意地悪はだめよ。   突然、妹のフロレンスが目の前にふわりと現れて、俺のひたいをピッと小突いた。 「痛てッ。なんだよ、フロゥ」  店の薄暗がりの中に、何枚も重ね着したペチコートでスカートをふんわりさせた、愛らしい姿が浮かんでいる。 ――せっかくの綺麗な顔を、意地悪の道具にしないの。 「ああしないと、また違う友達を連れて鑑賞に来かねないだろ」 ――あぁら、自惚れ屋さんね。 「なんとでも言え」   俺は笑ってデスクの向こうに戻る。 「あんな金も地位もない奴ら、愛想よくしても無駄無駄。寝る相手には、ガキだ」 ――兄さんたら。 「自惚れるにふさわしいこの器量、安売りしてたまるか、あっはは」  フロゥと二人で生きていくために、必要とあらば瞳を熱く潤ませてしなだれかかり、あるいは凍りつく冷酷を纏い、籠絡し、突き放し、それらを使い分けて生きてきた。  男も女も相当数を泣かせた自覚はあるが、美しく生まれたのは俺の罪じゃないし、持って生まれたものをいいように使って何が悪い。  この世は、金か、美貌。さらにそれらを生かす才覚があれば、もう怖いものはない。  ただし、そのすべてを持っている相手には分が悪い。  例えば――あの野郎。チャールズ・ディケンズ!   人気作家であり、そこそこ金持ちであり、その実、陰では何をしてるか知れたものではない男。  初めて会ったとき、あいつはまだモーニング・クロニクル紙の敏腕記者兼、作家だった。深みのある甘ったるい声――女たち、と、ある種の男たちが「孕みそうにエロい」と喩える声――で、まだ子供の俺に語りかけてきた。 〝ファーストネームが私と同じだね、ミドルネームはなんの略?〟  俺はあの微笑みに、自分と同じ匂いを感じ取って警戒した。  人を気分良く騙すために、惜しみなく甘露を供出する生き方の匂い。  その裏には、必ずや毒がある。  親に死なれ、親戚に財産を分捕られてぶち込まれた孤児院だった。  その死だって、俺は今でも他殺を疑っている。誰もかれもが敵だ。妹以外は、誰も信じない。 「教えねえ」  あいつは俺がそう答えたことを面白がり、以来、俺を「ジェイ」と呼ぶ。そう呼ぶたびに、知りたい気持ちをアピールするのだと言って。  敏腕記者サマだ、その気になれば俺の名くらい簡単に探り当てようものを、あいつはにやけ顔で、こうぬかすのだ。 〝調べないよ。いつか君のその素敵な唇から教えて欲しいからね〟  いけ好かない! ゆるく癖のある栗色の毛をかきあげる仕草も、そのエロいタレ目も、何もかもが胡散くさい!   ――最近、ディーのことばっかり考えてるわね。   クスクスと楽しそうな声が頭の中に聞こえた。 「ばか言うな」  〝ディー〟というのは、俺があいつの名前をまともに呼ぶのが癪なのでつけた呼称だ。フロゥはこれを〝愛称〟と呼ぶが、断じて違う。  フロゥ。フロレンス。  デスクの上に腰掛けた透明な姿が、死んだ十三歳のときのままの、俺の妹。俺と違う金髪、俺と同じ緑の目。今ではそれらがすべて白い影であることや、浮かんだり通り抜けたりして移動するという驚異を除けば、七年前と変わらない。  幼いころ母に聞いた話では、うちは幽霊を見る者や幽霊になる者が多い家系であるらしく、確かに俺も、屋敷の中をゆらゆらと歩く先祖を普通に育った。しかしここまではっきり意志を持った幽霊になったのは、一族の中でもたぶんフロゥが初めてだろう。  病気で息を引き取ってすぐ今の姿で現れたときは、さすがの俺も言葉を失い面食らった。目の前に遺体がある。なのに俺の横でフロゥが笑っている。葬儀のときも、棺の横に元気そうな本人が立っていた。  悲しむ暇も必要もなく、そしてもちろん……、嬉しかった。  ずっと一緒だった。両親との日々も、孤児院も、美しい子供たちを自慢したい偽善家の金持ちに引き取られた頃も、実子たちとモメてその家を出たときも。その後、商売を始めてからも。  世慣れて、ねじれて、スレていく俺と反対に、お前はいつも純粋で優しかった。ディケンズですら、こいつのことは「天使」と呼んで、例の小説でも、主人公を想う愛情深い妹のモデルにしていた。そこだけは褒めてやってもいい。   ――ほらまた、ディーのこと。 「あいつが悪いんだよ。ウザいから、つい思いだしてしまうんだ!」  いつも嫌がらせばかり。  がっぽり搾り取れそうな上客との逢瀬を邪魔したり、俺が病気持ちだと吹き込んで人気俳優と別れさせたり、逆に「客を紹介する」と言うから、妙な秘密結社の倶楽部やいわく付きの古城に付いて行ったら、それがちゃっかり自分の小説のリサーチだったり! 「湖水地方まで連れ出されたと思ったら、超常現象に巻き込まれて、死ぬ目に遭ったんだぞ! あいつ、自分が〝見えない〟もんだから、霊媒がわりに俺を同伴したとしか思えない」 ――えーと、幽霊が、人間を発火させて燃やしたんだっけ? 「ああ、皆んなには霊が見えないから、人体が自然発火したみたいなことになってな」  田舎町で女を巡って決闘が行われ、男が一人、死んだ。  その後、女の周りで怪現象が続くという事件を耳にしたディーが、俺を拉致して出向いたのだ。  色っぽい女で、生き残った恋人がいるにも関わらず早速ディーを籠絡にかかっていた。嫉妬した男がディーに決闘を申し込みかねない状況になったとき、死んだ男の亡霊が現れて、女の身に触れた。  すると瞬く間に女の体から炎が吹き上がり、近寄れないほどの灼熱の中で、女は息絶えた。皆は、死んだ男が愛する女を連れ去ったのだと悲恋の物語に涙したが、俺は亡霊が男を愛おしげに抱きしめて消えるのも見た。ディーはその話を元に、実際は女と死んだ男とが、生き残った男を巡って争った結果だったという真相を突き止めた。女の奸計が、二人が決闘せざるを得ない状況に追い込んだのだ。  愛する男に殺されただけなら、むしろ歓びだったかもしれない。しかし女の醜い性質を知った彼は、魔の手から愛する男を守ったのだ。ディーは、現地の神父にだけそれを伝え、死んだ男に祈りを捧げてやってくれと頼んだのみで、結局、記事にも小説にもしなかった。  なぜ?と問うと、あいつはこう言った。 「言葉にして残してしまうとね、原稿が残る限り彼の想いが留められて、きっといつまでも縛りつけてしまうよ。たとえ場所や名前を変えて書いたとしてもね。穏やかに眠らせてあげたいじゃない?」  でも、美化されてるあの女の正体を暴いてやりたくないか? 「女の本性を暴く正義は成せるけど、同時に幽霊君の秘めた想いも暴くことになる。それを知ってしまったら、恋人と友人を同時期に失った、あの男も不幸になってしまう。幽霊君もそれは希望しないさ」   いい加減そうで、何でも茶化してしまいそうな男なのに。  そのときちょっとだけ、俺はディーを凄いと思った。 「あいつ、俺を連れ回しておきながら、行く先々で口説いたり口説かれたりして、すぐ姿くらますんだ。で、何食わぬ顔で戻ってくる!」  ――そこなのね……気に入らないのは。 「なんだって?」 ――なんでもなあーい。 何食わぬ顔で戻ってきては、〝寂しかった?〟と俺をからかう。  当て付けに俺も遊んでやるぞと思っても、絶妙にそういう相手が見つからないところにばかり俺を連れて行くんだ、あいつは。  そして一緒にいる時間は、ずっと俺をかまい倒す。  腕が触れ合うほど近くに並んで歩き、目が合えば微笑み、ごくたまに俺の隙をついて額か頰に素早く軽いキスをし、なにすんだ!と、俺がシャーっと逆毛を立てるのを面白がって、へらへらと去っていく。  長い付き合いの中でずっと思っていた、ある疑問。一度、酔った勢いで訊いてみたことがある。 「お前、なぜ、俺に手を出さない?」 「んー? 愛してるからだよ?」  どこまでが本気かわからない笑顔。 言葉が商売のくせに、俺に向ける言葉は実に、実に、――安い!   ああ、もう、やめよう。やめた、やめた。 「フロゥ、最新のニュースは何かないのか」  雑念を振り払って、現実世界を見つめることにした。  フロゥがぱあっと顔を輝かせ、〝聞く?聞いちゃう?〟という風にこちらへ向き直る。 ――そうねえ。  どこへでも行って見聞きできる能力を使い、フロゥはロンドン中のあちこちで情報を仕入れてくる。  ただし、俺が勝手に商売に結びつけているだけで、人の内情を探らせるなどして汚れた商売の片棒を担がせてるわけじゃない。 ――昨日はね、久々にドルリー・レーン劇場に忍び込んで、お芝居のリハーサルを見たの。いたわよ、いつものD席に、灰色の服の幽霊さん。 「あれか、稽古のときに現れると、芝居がヒットするっていう」 ――そうそう。でも眉をしかめていたから、多分あのお芝居は当たらないわね。お話してみたいんだけど、しゃべる力はないみたいなの。残念だわ。あとね、三年前にナポレオンの遺体がパリのアンバリッドに安置されたでしょ? あそこにイギリス人が行くと呪われるって、ドーナン男爵夫人が話してたわ。 「フランス嫌いな奴らのデマだよ。俺なら、行ってナポレオンの霊に会ってみたい」 ――去年、一緒にピカデリーの「エジプシャン・ホール」に行って、聖書に出て来る伝説のレヴィアタンを見たじゃない?  「エジプシャン・ホール」は、数十年前からある大規模なアミューズメント施設だ。絵画などのまともな美術品の展示もあれば、奇形の人々のフリーク・ショーや嘘くさい奇獣の剥製の展示、活動写真や海外の風景のジオラマ展示などなど、とにかくいつもいろんな見世物をやっている。生前と変わらぬ好奇心でいっぱいのフロゥは、ここ何年もハマっていて通っているが、姿が見えないから入り放題題。だが、動物や霊的に勘のいいフリークスたちは、気づいて目で追うそうだ。 「巨獣レヴィアタン? ああ、骨格標本の展示な」 ――あれってね、本当はマストドンっていう生物の化石なんですって。大学の偉い先生が学生に話してた。 「へえ、やっぱりレヴィアタンじゃないのか」  素っ気なく答えたが、……マストドンって何だろう。 ――今朝早くにはね、変人なお金持ちたちの噂をまとめて聞いたわ。洗濯屋のおかみさんとお客さんが話してたの。珍しい東洋のチンって犬を4匹も飼っている男爵夫人の顔がその犬そっくりだとか。 「相当なご面相だぜ、そりゃ」 ――あとね、娘のためと言ってドレスをあつらえ続けるコワモテの陸軍少佐がいるんだけど、自分が着るんじゃないかとか。  吹き出した。 「それな、俺のところに金を借りに来てる奴だよ」 ――えっ、もしかしたら私、見たことある? 「あるはず」 ――え~、今度来たら合図してね! えーと、あとは、どこぞの道楽貴族が、かなりの高報酬で〝瞳の印象的な若者〟を探しているって話もあったわ。趣味の絵のモデルにするんだって話だけど、本当の用途?、用途って意味深よね! それは、わからない~って。 「上流階級てのは変態ばかりだな」  ――ふふ。ああ、あと、そうだ、昨夜ディーが、久しぶりにロンドンに戻ったお友達と会ってた。なんだか変わった雰囲気の人だった。 「あいつの話はいいっ」  背を向けて話を打ち切る。  フロゥがやれやれと声にして姿を消した。午後の散策に出かけるのだろう。俺が寝る前にはまた顔を出して、あれこれ話し始めるはずだ。  これが日常。  今日も、薄暗くなる頃には、コソコソと金策に来るお客サマが一人ふたり、いるかもしれない。  俺はまたマホガニーの重厚なデスクの後ろの大きな椅子にすっぽりと埋まって、短い夏の気配を窓の向こうに眺めやった。  まあ、いつもと変わらぬ昼下がり。  運命を変える出来事が、知らぬ間に静かに始まっていたことなど、知るはずもなかった。   その日、夕方も近い時分になって、突然フロゥが姿を現した。  ――マーレイが来るみたいよ。辻馬車が近づいてくる。  マーレイは、イートン校時代からの腐れ縁(「親友だよね!?」と本人は叫ぶだろうが)で、赤っぽい金髪をした、田舎貴族の三男坊だ。がっしりした体躯だが性格はおっとり、お人好し。いつもディーとは違う意味でニコニコと口角があがっている奴である。  神話や伝承の類いが大好きなオカルト・マニア(「研究家だよ!?」と本人は叫ぶだろうが)で、本来は単なる貴族の名誉職であるはずの大英博物館・理事という肩書きの元、思う存分古文書を漁ったり、実地でフィールドワークに行ったりを「仕事」にしている。   いつもニコニコと楽しそうに茶を飲んでいくお気楽な奴、なのだが……。 ――なんだか、いつもと違う感じ。  と、フロゥが心配した通り、店の前で辻馬車を降りたマーレイの表情は、ついぞ見たことのない神妙なものだった。  いつもなら、ご主人を見つけた大型犬が駆け寄るみたいに入ってくるのに、今は視線を下げて、挨拶の声まで力ない。 「……やあ、ルージー。やあ、フロゥ」  ちなみに、マーレイにもフロゥの姿が見える。そして解せないが、ディケンズにも。フロゥは「ふふ」と笑うだけで理由を決して教えてくれない。 ――いったいどうしたの? ため息をつくと、マーレイはサマージャケットの内ポケットから封筒を取り出した。 「こんなのが届いてさ」  表面には、〝ジョナサン・マーレイ様〟と綴られた流麗な文字。恋文?と思わず冷やかしかけたが、人ならざる能力ですでに中身を見たフロゥの表情が、それを許さなかった。  一枚きりの便箋、そこに記されていたものは……。  三体の悪霊がお前に訪れる。 「なんだ、これは」 「気味悪いだろ?」 ――いたずら……なのかしら。 「霊が三つ来るって、あの小説みたいだけど、〝精霊〟じゃないところがまた悪意を感じるよね」  マーレイは再びため息をついた。 「最初は、ブラックなジョークだと思ったんだよ。ごめん、正直言うと、ルージー、君が僕をからかったのかもと思った」 「俺があいつの、しかもあの作品で遊ぶもんか」 「だからごめんて」 ――マーレイ、……この続きがあるわね?  フロゥが何かを察して問いただす。 「うっ、フロゥにはバレるよね。実はこの手紙の翌日から、今度は数字が書かれた手紙が届いてるんだ。最初は七と書いた便箋、次の日は六、そして五、四、……」 「正直に言え。今日でいくつだ」 「…… 二」  「ばか、なんですぐ教えに来なかった」  明らかに、カウントダウン。つまり、いたずらにせよ何にせよ、何か(誰か)がマーレイの元を訪れるのは、もう明後日ということだ。 「だから、いたずらだと思ってたんだよ、それに……」 「それに? なんだよ」 「それに……、もしかして僕が鈍感なせいで、知らず知らず誰かを深く傷つけていてさ、しかもこんな嫌がらせをされるほど恨まれてたのに、全然気づかずお気楽にしていたのかも……と思い始めたらさぁ。誰だろう、何したろう、悪かったよね、って、落ち込んじゃって……」   そうだった。こいつ、真面目なやつだった。 「大丈夫だ。いくらお前が鈍感な朴念仁だからって、誰かを傷つけてるはずはない!」   俺は本気で断言した。 「鈍感は否定しないんだ……」  マーレイが人に恨まれる可能性があるはずない。こいつを恨むような奴が現れるなんて、太陽が西から昇るくらいの天変地異だ。  俺がロクでもなかった学生時代、寮の同室になったというだけで、こんな俺をも友として扱った男だ。  魔術・オカルトのオタクで変人ではあったが、誰に対しても真っ直ぐな態度で接することから、最終的にはとても友達が多かった。俺に対しても、特別扱いするでもなく、萎縮するでもなく、あけっぴろげな笑顔を見せた。ただ一度、先輩たちとヤッて金を取っていたのがバレたときは、自分を大事にしろと泣きながら俺の美しい顔の横っ面を張り、ハッとして、今度は、ごめんね、ごめんね、と泣いた。顔は強烈に痛かったが、大きな体を丸めて泣く姿が可笑しくて、耐えきれず吹き出して、笑って、謝って、一生付き合っていこうと思った。  フロゥと同じく、神が邪悪の成分を入れ忘れてこの世に送ったタイプの人間だ。マーレイが直接の標的ではない。  とすれば? その周辺にいる誰かを巻き込み、陥れるために? 「ディーのいたずらって線もあるかもな」 「えっ、お前にちょっかい出すならわかるけど、なんで僕?」 「そりゃあ、お前に何かあったら、俺が動くと知ってるからさ」 「そうなのかい?」 「なんで疑問形だ」  フロゥが俺を見てニヤニヤし始めた。   「いや、ちょっと意外で」  マーレイは、なぜか照れている。 「なんでだよ! 当たり前だろう、お前は俺の……」   フロゥはニヤニヤを大きくし、俺の横に来ると、〝俺の、大事なオトモダチ、だもんねえ?〟と囁いた。  睨みつけてからマーレイに向き直り、 「俺の、腐れ縁だからな!」  と指を指し言い切ってやったが、目の前の男はキラキラと嬉しそうにしている……。  ともかく。俺は、ディケンズがつれない俺をちょっと困らそうとしている可能性を閃いたわけだが。  「そんなわけないな」   我知らずつぶやいて、ハッとした。 ――うん。私もそう思うわ。  そう、というのは、そんなわけない、のほうだ。 ――ディーはいたずら好きだし、兄さんの気を引きたくて必死だけど、そのために兄さんの友達を苦しめたりする人じゃないわよ。 「あ、でも、ディケンズさんなら、三とか、霊とか、モチーフに心当たりがあるかもしれないよね」 ――そうね、そうでなくても情報通だし。 「そうだな」  ここで根拠のない推測を繰り広げても仕方ない。俺たちは、とりあえずディケンズの自宅に押しかけてみることにした。  辻馬車を拾い、高級住宅街チェルシーのケンジントン寄りの端にある、(認めたくないが)センスのいいフラット・マンションへ。  俺の家のように数階建ての細い縦割り住居が横にくっついて壁のように連なっているタウンハウスではなく、ワンフロアをゆったりした部屋々々に区切ったフラットだ。   二人乗りの馬車にマーレイと並んで揺られ、ベイカー街から南へ。メイフェア地区を抜けてハイド・パークをかすめ、スローン・ストリートからチェルシーへ。窮屈な馬車の中で、俺はつらつらと考えた。  なぜか、根本的なところで俺は、ディケンズを信用しているんだよな、と。なぜか、絶対に俺を傷つけないことを信じている。  初めて会ったのは、そう、孤児院にいたとき。  新聞記者をしながら小説も書いていたあいつが、ネタ探しに孤児院を取材に訪れ、そこで宗教画の天使かと見まごう兄妹を見つけた。俺が十一歳、フロゥが十歳。  〝ファーストネームが私と同じだね、ミドルネームはなんの略?〟  「教えねえ」  スリや売春まがいの行為で後ろ暗い稼ぎをあげていたその孤児院は、ディーの暴露記事がきっかけとなって摘発・廃止された。  あの野郎、院長の社会貢献を讃える記事を書くとか何とかおだてて取材の許可を取ったのに、実際はまんまとスクープをモノにしやがった。そういえばその後、孤児を主人公に小説を書いたっけな。  露頭に迷うかと思いきや、俺たちは(たぶんディーの口利きで)偽善者の金持ちに引き取られ、デキの良かった俺は養父母の見栄を満たすために名門イートン校に入れられた。   全寮制の生活と、続く大学生活の中でお貴族サマたちの生態を把握し、頭と身体で金儲けできることを知った俺はフロゥを連れて養家を出、大学も中退して、「スクルージ商会」を立ち上げた。  金を得て、自分の場所を確立して、いつか両親が持っていたものを取り返したいと思っていた。もっと言えば、他殺かもしれない真相を突き止めるために、表も裏も、あらゆる人脈を得ておきたかった。  そんな風に生きてきた俺の、どの節目にも、ディーはいた。  つかず離れず俺たちを見守り、フロゥが亡くなったときも横に。  そうなんだよ、自分都合で好き勝手に俺をかまい倒し、しょっちゅう甘く嘘っぽい愛を囁く……のさえなければ、いい奴だと言っていいかもしれない。 長い指の、あの大きな手で頰を包み込まれたとき、いつも思うんだ。このままずっと触っていてくれてもいいのに……。  と、思ったのを撤回したのは、フラットに着いたときだ。   「やあジェイ、今日も美人だね!」  お気楽な、満面の笑み。 空間移動で先回りしたフロゥがすでに事情を説明していたにも関わらず、しょんもりしているマーレイを気遣うでもなく、通常運転で俺にハートを飛ばしてくるその横っ面を張り倒したい。 「で、私の仕業だと思ったんだって?」  ベルベットのガウン姿でゆったりとソファにもたれ、愉快そうに目を細めている。 「そうなのか?」  「まさか。私は好きな子はいじめたいタイプだが、マーレイ君はタイプじゃないよ」 「ですよね」 「まあ、俺たちもお前がそんなことをする阿呆だとは思ってないよ」 「光栄だね」 「でも、何か知らないか? こういうことをしそうな奴とか、三という数や、悪でも聖でもとにかく霊が訪れるって、お前の小説にそっくりの、このモチーフについてとか」 「ああ、あの小説は君への公開ラブレターみたいなものだからねえ、多くの人たちに私の愛を知ってもらえてうれしいよ」  「ふざけるな。俺と同じ名前のジジイが、悪かった~ごめんよ~って言ったら罪を帳消しにされたってな、都合のいい話じゃないか」  「いやいや、あれは、君と同じ名の人物が、愛し愛されることに気づいて幸福になる話だよ。君も早く私の愛を受け入れて、そうなって欲しい、という私のラブレターさ」  ぐぬぬ……。  フロゥがディーの背後で腹を抱えている。 「あの、ディケンズさん?」 「ああ、失敬。マーレイ君の件だね」  ディケンズはスッと居ずまいを正して俺たちに向き合った。 「力になれるか正直わからないが、あの小説には元ネタがあるんだ」  意外にも真面目な顔をして、ディーが話し出す。 「中東の冒険旅行から戻った、旧知の魔術師から聞いた話でね」  魔術師、にツッコミは入れない。なぜなら英国には魔法使いや魔術師を名乗る商売が普通に存在するからだ。もちろんインチキは多いが、薬学、医術、錬金術、天文学、呪術などに精通している〝本物〟も確かにいる。  ディーはその旧友から、中東の伝説だとして、「三人の悪魔から一つずつ力を受け取って飲み込んだ男が、強大な力を手にしてこの世の栄光を手にした」みたいな話を教えられたという。 「おい、それがなんであの物語になるんだよ」  主人公のジジイは、三人の聖霊から何ももらってないし、強大な力も、この世の栄光も、手にしてなかったじゃないか。 「ああ、私が、〝愛する人のために愛の物語を書きたいんだ、ネタを探してる〟と言ったら、〝じゃあ、力を天使か精霊から受け取ることにして、愛という最高の栄光を手にしてハッピー・エンド~なんていいんじゃないか?〟と彼が言うもんだからね。そのアドバイスをあそこまでの物語に紡いだのは、私の才能さ。主人公が聖霊たちから愛の力を得て、強大な愛を手にするんだ」  ディーは役者のオーバーアクションのように、手を広げて自分のセリフに陶酔した。 「ツッコミたいことはたくさんあるが、今は先を聞こう」  俺は奥歯を噛みしめながら耐えた。 「小説を書き上げた後、友に礼を言うため再び会ったら、実は教えた話は本当の伝説とはかなり違うんだと言うんだよ」 「嘘っぱちだったのか?」 「実際にはもっと、複雑でエグい話なんだ、とね」 「どんな?」  オカルト・マニアのマーレイが、自分の状況を忘れて食いつく。 「んー、詳しくは教えてくれなかったんだが、悪魔の力を身に取り込む方法というのは、どうやら、セックスらしいんだ」  ぱっ、とフロゥが姿を消した。うん、兄さんも聞かせたくないよ。 「手に渡されて『受け取る』、というより、セックスによって精と共に『注ぎ込まれる』らしいんだよね」  「え、じゃあ、受け取る側は女性……」 「には限らないだろ?」  「ですよね~」 「実際の伝説の発端では、ある悪魔が存在自体を三つに分けられて封じられているんだ」  ディーの話が続く。 「頭、胴体、手足に分けたというような物理的なことじゃなくて、こう、成分というか、例えるならボトルのワインを三つのデカンタに分けるような感じらしいんだね」  で、その三つ分の成分を一人の身に取り入れるのに、悪魔とセックスするのかと思いきや、悪魔には実体がないわけだ。  悪魔が乗り移るか何かした人間とヤるんだろうが、三人とセックスすればいいのか、同じ人間と三回セックスすればいいのか、それともセックスしている間にそれこそワインのように悪魔成分を飲み込めばいいものなのか、など、詳細は聞き出せなかったらしい。  とにかくそれを身に取り込むと、強大な魔力がその人のものとなり、生きている間じゅう何もかも思うがままになる。命が尽きると、亡骸を己のものとして悪魔が完全復活を果たす。 「ということなんだが」  マーレイはすっかりマニア・モードに入って目を輝かせているが、俺は至極冷静に話をまとめた。 「それがマーレイに届いている脅し?と、カウントダウン?に、関係があるのかないのか、結局はわからないな」 「そうだねえ」  ディケンズが面白そうに笑みを広げて言う。 「なら結局は、その明後日を待って、何が起きるか見届けるしかないんじゃないか?」 「無責任なことを言いやがって」  腹が立ったが、その意見が正しいと認めざるを得ないのも事実。 「君は本当に、悪霊が訪れると思っているのかい、ジェイ」 「その手の存在を信じないわけじゃないが、……今回のは、悪意のある人間のいたずら、もしくは脅迫の線も強いかなと思ってる」 「マーレイ君を脅迫する輩がいるとは思えないが」  とにかく、ディーも加えた俺たちは、明日できる限りの調査(といっても何をどうしていいのかまだわからないが)をしながら明後日を待ち、何であれ誰であれ、マーレイの元に「来たもの」を撃退するしかない、と結論した。  エントランスまで俺たちを見送ったディーは、すっと腕を掴んで俺を引き寄せ、耳元で囁いた。 「君と、君の大切な人を、私も守るよ」  ほとんど、耳に唇がくっついている。 「うるさい。物書き風情に何ができる」  振りほどき、俺はフラットを後にした。 ――顔、赤いわよ。 「うるさい」

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