2 / 8
第2話
2 悪魔は来たりぬ
その夜、俺は夢を見た。
というか、俺はよく夢を見る。
一般に夢は、記憶の整理や悩み事の象徴なのだそうだが、俺の夢は、どこかで起きていることを見せられているような、誰かの心象風景に入り込んだような、客観的で具体的な夢が多い。
フロゥによるとそれは、俺の霊能力の発露であるという。
――眠っている間に、意識がどこかに行っているのかもしれないわ。
証拠もないので、いつも聞き流していた。
何か害があるわけでもなく、ちょっと不思議な気分で目覚めるだけ。だからこの夜の夢も最初は、「ああ、いつもの」と思っただけだった。
身体が、ロンドンの街の上に浮かんでいる。
霧もなく、家々の煙突が吐き出す黒煙もなく、違和感があるほどクリアに澄んだ夜の風景を、空に浮かぶ満月が静謐に照らしている。
すると、ポウッ、と、白い灯りが、街のあちらこちらに点り始めた。
次々に。
結構な数だが、……百はないだろう。
奇妙ではあるが、恐ろしさや異様さはまるで感じないその光景に、ふいに異質なニュアンスが入り込んできた。
テムズ川の東端、ロンドン港のあたりで、さざ波が立ち始めたのだ。
それが、さかのぼってくる。夜の黒い海から、昼でも汚れて黒いテムズ川へ。
グリニッジの辺りを超え、ロンドン塔の横を超え、シティ地区の横を超え、バッキンガム宮殿やウェストミンスター大聖堂にほど近い国会議事堂の大時計ビッグベンの付近までさかのぼったところで、さざ波は突然、黒い靄になって四方に広がった。
洪水のように地を這ってあふれ広がり、次々に白い灯りを飲み込んでいく。
だめだ! と俺は思う。
白い灯りたちが喰らい尽くされてはだめだ!、と。
だが、止めるすべはない。
ただ見守るだけの俺の耳に、鋭い鐘の音が響く。
大聖堂の鐘?
いや、それにしてはカン高い……もっと小さな鐘の音。
鐘の……?
「やあ、おはよう! 今日も愛してるよ」
しつこい呼び鈴の響きに叩き起こされて、住居である二階から店へ降りてみると、そこに朝っぱらから笑顔満開のディーがいた。鼻先で扉を閉めるのを思いとどまったのは、マーレイを同伴していたからだ。
ディーはお気に入りのステッキを手に、ニコニコとオフィスに入ってくる。高価な黒檀製で、取っ手の部分にガーゴイル姿の銀細工をあしらったステッキだ。俺はこれが仕込み杖であることを知っている。
「いやあ、夜明け前に、マーレイ君の元に〝一〟と書かれた手紙が届いてねえ。誰かが届けに来るか見張らせていたが、普通に郵便局員だったよ」
ディーには新聞記者時代からの情報屋、というか手下が何人もいるから、見張らせていたんだろう。暢気に〝明後日を待とう〟なんて言っておいて、その実、手回しのいいことだ。
「見張りから報告を受けたディケンズさんが来てくれて」
マーレイが少し早口になって言う。
「〝一〟とあるのは、あと丸一日後っていうより、今日の真夜中のことなんじゃないかって」
「小説にならっているとしたら、来訪は真夜中だろう? 今日の夜中をスルーして明日の夜中まで待つなんて、悠長に、こっちが対抗策をとる時間を与えるわけはない。私ならそうだ」
――今夜だと思って備えておけば、もし来なくても私たちに有利よね。時間がある。
「そういうこと。なのでジェイも今日は店を休みにして、夜中まで、できることをしようじゃないか」
と、ディーに肩を抱かれて言われるまでもなく、今日はマーレイの屋敷に詰めるつもりだった。
――何から始められるかしら。
「単に誰か、人間の嫌がらせやいたずらだとすれば」
俺はディーの手をペシッと払う。
「用心棒を何人か用意しておけばいいし、俺やディーでも盾にはなれる。もし万が一、相手が、悪霊やら悪魔やらの類いなら、そっち系の準備が要るけどな」
「僕は大英博物館でいろいろと資料を当たってみようかと」
「それよりも」
と、ディーがマーレイに向き直って最高の誘い文句を放った。
「魔術師に会いに行かないか」
ぱあっ、と顔が輝いたのは言うまでもない。
「それは、〝三つに分けられた悪魔〟の話をした、あの?」
「ああ。蛇の道は蛇だろ。何か知ってるかも知れないさ」
面白がっているようなディーの様子にムカつきながらも、俺も好奇心には勝てなかった。
――何日か前に会ってた人ね?
「ああ、見てたのかい。二年ぶりに戻って来てね」
フロゥは、ちょっと得意げにマーレイに笑いかけた。
――じゃあ、私は皆んなが行ってる間、あちこち回ってくるわ。
その後、連れ立って赴いたのは、ロンドンの東、英国屈指の貧民街。
「ホワイトチャペル地区とはまた、物騒なとこに潜んでいるんだな」
ここは、名称の通り確かに教会もあるが、それよりも、石を投げれば売春宿か犯罪者に当たるような界隈だ。
フロゥは以前、人ならざる能力で察知した未来の凶事に震えていた。
〝近い未来に、あそこで娼婦たちが引き裂かれて殺される恐ろしい事件が続くわ。犯人の顔は……どうしても見えない。もしかして……、人では、ない、ものなのかしら……〟
薄汚れた壁の家がみっしりと並び、昼なお仄暗い。
この壁の向こうには狭い部屋がぎっしりと詰まっていて、その部屋の一つ一つに、下手すると十人以上ずつが詰まっている。一人で一つのベッドに寝られる家に生まれたのがどんなに幸運なことか、東に住む裕福な連中は知りもしない。
まだ午前中だというのに、通りには、くたびれてどんよりとした雰囲気が漂っている。
ディーはその中に点在するドアの一つ、安下宿(まあたぶん売春宿も兼ねた)のドアをノックし、出てきた東洋系の青年から魔術師の不在を告げられた。昨夜から戻ってないらしい。
「確かなのか?」
「確かだよ」
鋭い目をした痩身の青年は、ニヤリと笑って言った。
「いなきゃ、わかる。一緒に寝てるから」
ああ、なるほど。
「どうする?」
身なりのいい俺たちを、通りに佇む女たち、男たちが、粘りつくような視線で見ている。高価な衣服を剥ぎ取って売りさばくためだけに、俺たちを殺すことを何とも思わない連中だ。女どもは、買ってもらって春をひさぐついでに、隙あらば金品をちょろまかそうと狙っている。
早くこの界隈を離れたほうがいい。
「行きそうな先をいくつか当たってみるか」
「通りで馬車を拾おう」
そんな話をしながら、うっかりと気を抜いていた。
二人の少し後ろを歩いていた俺の顔を、ぬっと路地から伸びてきた手が覆い、もう一組の腕が俺を路地に引き込んだ。
「うぐっ」
口を塞がれ、声が出ない。だが幸いなことに、こいつらは悪魔じゃない。金欲しさか体目当てかその両方の、人間だ。そして幸いなことに、俺も只者じゃない。
引っ張り込まれたのと同時に、俺は男の足の甲をかかとで思い切り潰した。
男は悲鳴をあげ、もう一人はひるんで手を緩めた。そこをすり抜けて、振り向きざまに正拳突きを一発。
「ルージー!」
気づいた二人が素早く反応する。
俺が通りへ脱出したところへ、入れ違いにディーが身を滑り込ませ、俺を背後にかばう。男がナイフを取り出したが、ディーは黒檀のステッキをバトンのように両手で素早くクルリ!と回すと、その勢いで重い銀の把手部分を男の手に鋭くヒットさせ、見事にナイフを弾いた。仕上げは、真正面から入れる、蹴り。
もう一人は路地の奥に逃げた。が、すぐに鈍い音と共にくず折れた。
「グフッ」
男の胸ぐらを掴んでこちらにやって来たのは、俺の孤児院時代のスリ仲間で、現在もその道のプロのエッドだった。あの頃は、美少年の俺が通りに所在なさげに立ち、寄ってきたスケベどもの懐からエッドが金貨の詰まった巾着を抜く。そんなことをやっていたものだ。
ディーが蹴り倒した男の上に、エッドは自分が鳩尾に一発食らわせた男をドサッと放り投げて、ニッと笑う。
「相変わらず男に襲われてんのな、お前」
俺に向けた親しげな物言いに、ディーが不満げにピクリとする。
エッドは昨日から、俺の依頼でマーレイの件につながるかもしれない情報を調べ回っていた。その途中、俺たちの姿がこの物騒な界隈に見えたので、離れて様子を見ていたのだという。
「どこ行くんだ? 危ねえからついて行ってやるよ」
「大丈夫だ。夕方にマーレイのとこで落ち合おう」
「そうか? じゃ後でな、ルージー。ディケンズの旦那、マーレイの旦那も。オレァ善き市民の義務として、こいつらをもう少しとっち めておくわ」
いつの間にかそばにいたエッドの手下たちが、暴漢二人を引きずっていく。
「殺さないよね?」
マーレイが心配そうに言う。
「ああ、たぶん、何か聞き出せたらと思ってるんだろう」
「お前は大丈夫?」
「心配ない」
上着のホコリをハタハタと払いながらそんなことを言っていたら、ディーが真剣に俺を見つめて訊いた。
「本当に大丈夫か?」
「大丈夫だって。俺もまあ、いろいろ場数踏んでるから慣れてるし」
「ああっ、馬車がいた! 止めてくるよ」
マーレイが大きな声を出した陰で、ディーがボソッとつぶやいた。
「こんなことに慣れて欲しくないんだよ、オレは」
聞こえないふりをした。
その後、魔術師が行きつけだという、セントポール大聖堂近くのコーヒーハウスに向かった。
英国人は紅茶しか飲まないと思われているらしいが、ロンドンにコーヒーハウスは十七世紀からある。今だって、ロンドンだけであちこちに二千軒くらいあるはずだ。
女が出入りを許されないこの場所は、紳士たちがカフェインの力で冴えさせた頭で商談や政治談義に没頭する社交場であり、また、日々の憂鬱や小うるさい細君から離れて憩う安らぎ処でもある。酒は出さないが、ホワイトチャペル界隈とは真逆の、富と知性の薫りがする。
しかし、別の意味でヤバい事態に遭遇してしまった。
「やあ、チャールズ!」
入っていくと、コーヒーを飲んでいた二人の紳士が、別々の席から同時に声を発した。年上のほう、三十代の貴族ハリファクス卿は俺に、若いほう、二十歳のロランド卿はディーに。
俺たちは同時に「うわ……」と立ち止まる。
「どうしたの?」
マーレイが察して訊く。
ディーと俺はわざとらしい微笑みの仮面でやり過ごそうとしたが、すかさずハリファクスが近寄ってきた。
「おや、そちらは作家のディケンズ君じゃないか。何かと私のチャールズ(俺のことだ)をいじめてくれてるらしいね」
「なんのお話でしょう」
「相手にされないもんだから、醜い老人として小説に出したりと、酷い仕打ちをしてるじゃないか」
一方、俺にはロランドが近づいてきた。
「君だねぇ、僕のチャールズ(ディーだ)を悪く言ってるのは」
「はあ?」
「こんなに優しい人を邪険にするなんて、さすが金貸しをやってるような男だよ、お郷が知れる」
と、それを聞きつけたハリファクスがロランドにからむ。
「おいおい君、チャールズ(俺)の何を批判するのかね。彼はこの美貌をもって、あまねく人々に恩恵をもたらしてるじゃないか」
「失礼ですが、ハリファクス卿。この男は娼婦のように身を売って稼いでるだけじゃありませんか」
「そりゃあ多少ビッチなのは認めるがね、君のチャールズ(ディー)だとて、シモの管理はおろそかなんじゃないのかね。いろいろと武勇伝をお聞きするが?」
「そっちのチャールズ(俺)が、僕のチャールズ(ディー)に蠅みたいにたかってくるんですよ!」
喧々囂々と続く下衆比べに、俺とディーは顔を見合わせて苦笑い。あながち嘘でもないから、「仕方ねえ」くらいの気持ちだが、一人、沸点の違う男がいた。
マーレイが、明らかに怒っている。
「やめてくださいっ!」
テーブル上のグラスが揺れるくらいの大声が、吼えた。
「お二人にとって、この二人がどんな存在で、どう見えているのは知りません。知りたくもない」
マーレイは真っ赤になって、言い合う貴族二入を睨みつける。
「しかし、二人は、僕の友人なんです! このジョナサン・マーレイの名にかけて、友人を侮辱することは、……許しませんっ!」
シーン……とした後、周辺のテーブルからぱらぱらと拍手が起きた。
マーレイの肩を両側から抱き、俺たちも賛辞を捧げる。
「ジェイ、君にはすまないが私は今マーレイ君を愛してしまったよ」
「俺は、ずっと愛していたことに気づいたよ、ディー」
舞台を去る俳優よろしく笑顔で観客に一礼し、肩で息をするマーレイを連れて退出した俺たちは、その足で手近なパブに寄り、余計な体験で消費したエネルギーをワンパイントのエールで補給することにした。マーレイのクールダウンのためでもある……。
飲みながらディーは愛用の細身の葉巻をくゆらせ、芳醇な香りをふりまいた。その芳しさと濃厚なビールが、本日、もめ事続きの俺たちの気持ちをほぐしてくれた。
勢いをつけて、さらに二箇所ほど探して回る。
行きつけの薬剤店。
行きつけの貿易商。
どちらも一般的な商品のほかに、別室で魔術関係のアイテムを扱う店だ。しかし、ついに魔術師には会えなかった。
「こうなるとはなあ、すまなかった。もう一箇所行ってみるよ」
ディーはそう言って、別行動に。
仕方なく、俺とマーレイは博物館で調べ物だ。しかしこちらも役に立ちそうな文献はなく、夕方を待たずに屋敷に引きこもることにした。
田舎貴族の三男坊といえど、系図は遠く王家にも繋がる伯爵家である。マーレイはキューガーデンに近いリッチモンドに小さな自分の館を持っている。門をくぐって執事に出迎えられる頃には、日がすっかり傾き、テムズ河から立ちのぼる霧がこの辺をも覆い始めていた。
館の内外には、すでにディーや俺の息がかかった男たちを潜ませてあるし、何よりフロゥが、感知能力を張り巡らせて俺たちがいる部屋の周辺を見張っていた。
合流したエッドが暴漢たちの「その後」を話し始めたが、その話は昨日フロゥが散策で聞いたものにつながっていた。
暴漢たちは「変わった瞳」の俺に気づき、拉致って、例の、絵のモデルにしたいとかいう貴族に高く売りつけようとしたらしい。そいつらは仲介者の名しか知らなかったので、変態貴族の正体はわからなかったが。やれやれ、厄介ごとを増やすところだった。
その話が終わったころに、ディーが到着した。
「魔術師は捕まらなかったよ。でも、伝言を置いてきた」
「こちらは収穫なしでした。国教会の図書室に行けばよかったかな」
「悪霊が来るかもしれないので調べたいんですとは言えないだろう」
「大ごとになるよね……」
皆で軽く食事をとったりしているうち、真夜中は近づいてきた。
俺は、まだ、霊ではなく生身の人間が嫌がらせにくる可能性を多めに考えていたからだ。それも、俺に恨みがあってマーレイをだしにした、という可能性を。自慢じゃないが、知らないところで逆恨みされてる可能性は大きい。
当のマーレイはというと、不安や恐怖心よりマニアの好奇心・探究心が勝ってしまったようで、見るからにワクワクしているのがわかる。
「そういえばお前、イートン時代、夜に寄宿舎を抜け出して中庭や芝生に魔方陣を描いてたよな」
「うん、結局、何も呼び出せてないけどね」
一緒に抜け出して、複雑な魔法陣の模様や文字を描くのを手伝ったこともあった。夜に抜け出すためのコツや最短ルートも教えた。まあ、あれは、俺が先輩や先生と逢い引きするために確立したルートだが。
そういえば……
「一度、中庭のあずまやの床にチョークで魔方陣を描いてたろ」
「ルージー……!」
真夜中。
寄宿舎を抜け出した俺は、先にマーレイが抜け出していて、魔物だか妖精だかの召喚のために魔法陣を描いていることを忘れていた。
中庭の生垣のところで二年先輩の貴族令息と落ち合った俺は、おちついてヤれる場所としてあずまやを思いついた。
ベンチに座り込み、ズボンの前をあけて互いを一緒に握り、しごく。
「今日は最後まではできないけど、口でしてあげるよ先輩」
「ほんとかい? 嬉しいな」
俺は床に下りて、先輩の足の間に身を滑り込ませた。
やがて先輩が金を置いて去った後、立ち上がろうとした俺は床がなんだか粉っぽいことに気づいた。見ると、手に白い粉がべったり。
すぐ横の藪からガサッと音がしたのは同時だった。
「ルージーィ~……」
「うおっ!」
情けないような恨めしいような顔をしたマーレイが姿を現した。
ああ! ここに魔法陣を描いていたのか!
最初にバレたときは横っ面を張られたが、以後、マーレイは渋々、見て見ぬ振りを選んでいた。この夜は、えっちなことが成されている間、目と耳を塞いで茂みでじっとしていたそうだ。
「誰か来た音に驚いたお前が藪に隠れて、俺と先輩が知らずにそこで……」
「なにか面白い話かい?」
いつの間にかディーが寄ってきたのに気づかず、俺は調子に乗ってそれを語りきってしまった。
「気づかずヤッちゃったんだよな、もう、ぐっちゃぐちゃでさあ」
チョークが服に付いて、という意味だったのだが。
ケラケラ笑う俺を見てマーレイが青ざめ、その目線をたどって振り返った俺が、ディーの憮然とした表情を見て固まった。
なんともゾッとするような優しい笑みを残して……、ディーはバルコニーへ消えた。
マーレイが、やれやれという風に眉を下げる。
「謝っときなよ?」
「なんでだよ」
コソコソと話す俺たちを、フロゥが後ろからペシッと叩いていく。
霧が濃くなり、上空には星はおろか月さえも見えなくなった。
バルコニーで香りの良い細身の葉巻を吸っていたディーが、何も見えない眺めにぼんやり目をやりながら、誰に言うともなく言った。
「同じ霧でも、湖水地方の清々しいのと違って、ロンドンのは淀んだ水の腐臭と、煙突から出る煙のにおいしかしないよねえ。そのくせ、やはり懐かしいにおいだと思ってしまうんだ」
「旦那、ロンドンの生まれなのかい?」
「んー? ふふ、どうかねえ」
ディーは、自分のことをあまり語らない。
公表プロフィールでは、貧民街出身で、父親は獄死しており、妻帯者で子供が六人いることになっている。公式な肖像画は髭オヤジだ。
〝ファンがむやみに恋に落ちないためさ〟 とほざくが、浮名は数知れず、あちこちで男にも女にも手を出しているんだから意味がない。
さっきの怒りとなどすっかり忘れたかのように、薄ぼやけた景色を眺めて何やら愉しげにしている。
俺は不快の原因を作った自分を棚に上げて、余裕ありげな横顔にムカついた。この余裕顔を見ていると、いつまでたっても追いつけない気がする。いつも俺の先を歩いている。追いつけない。横に並べない。
「なんだいジェイ」
視線をとらえて、ディーが微笑む。
「なんでもねえ」
「君は私と話すときだけ素が出るよねえ」
上流階級のアクセントから貧民街のコックニー訛りまで使い分けるお前は、文字通り素性が知れない。だけど、――俺には、もっと素を出してくれてもいいのに。
黙ったまま、バルコニーにしばらく二人でいた。
真夜中は刻々と近づく。マーレイはソファに腰掛け、さすがにそわそわ。フロゥはその横で、目を閉じて気配を探り続けている。
と、ディーが真剣な顔でつぶやいた。
「おかしいな」
「なにが」
「……音が、しない」
石畳をカラカラ走る辻馬車の車輪の音も、遠くテムズを行く平船の汽笛も、猫の声も。
知らぬ間に、何かにこの界隈だけが包み込まれてしまったようだ。
本当だな、と言おうとした、
そのとき。
――ああっ!
フロゥの叫びと同時に、厚い霧の壁を突っ切って、何かが室内に閃き入ってきた。
閃いた、と表現するしかない現象だったが、明るさや輝きはない。
例えるなら、――黒い稲妻だ。
鋭い角度で入り込んだそれは、床に激突……するかと思いきや、カーペットの上にもやもやと溜まり、膨らんで、グウーッと天井まで伸び上がった。
何かを探すようにぐるりと回転したあと……、再び鋭く黒い閃光になり――マーレイに向かう!
応援を呼ぶ暇はない。もとより、応援や武器など意味あるのだろうか。これは、この世の生き物ではない。
「うわああっ!」
マーレイは腕を顔の前で交差して防御姿勢をとった。
黒い閃く稲妻は、胸元を目指して一直線に空を走る……!
「うわああーっ!」
マーレイ!
一瞬、部屋の中が、黒とも白ともつかない閃光に満たされた。
誰もが固く目を閉じる。
シュウウウウ、と水蒸気が激しくあがるような音。
そして、シン……とした室内。
恐る恐る目を開けると、黒い霧は跡形もなく消えていた。
その代わり、カーペットの上に横たわるのは――。
「ディー!?」
俺は駆け寄って、上半身を抱き起こした。
鼓動や息は、ある。だが、目は閉じられたままだ。
シャツが無残に破れて逞しい胸がはだけ、そこと背中側に焦げたような黒いシミが広がっていた。
手を当ててみたが、血ではない。しかし、手のひらに黒い霧めいたものがうっすらとまとわりついた。
「なんだ、これ……」
見つめる俺の前で、黒い靄は意思あるもののように動き、ゆらりと手のひらを離れ、すうっ……とディーの体内に、あの焦げ跡のようなシミから、吸収されていった。
戸惑う俺の前で、ディーがカッと目を見開き、前屈みになって苦しみ出した。
「ぐ、ううっ!」
ものすごい汗だ。明らかに、痛みに耐えている。
歯を食いしばり、耐えきれず恐ろしい唸り声が漏れる。
「ディー? ディー!」
俺は背中をさすりながら、ばかみたいに名前を呼び続けた。
呼吸が小刻みになり、うなり声が漏れなくなっていく。
すると、
苦しみの中の一瞬の沈黙から、ふいに、ディーがまっすぐに、俺を、見た。いつもの紅茶色の目ではない。虹彩は赤み濃く、瞳孔は爬虫類のように縦に伸びている。
やばい。
と、本能が告げた。
しかし身体は本能ほど速く機能せず、俺はあっという間もなく組み敷かれてしまった。
「うわっ」
ディーの食いしばる歯の間から獣のような息と声が漏れ、熱く顔にかかる。
正気を失った眼が、まるで食欲とでも呼びたいような激しい情欲に満ちて迫ってきた。
「や、め……ろ」
尋常ではない力で押さえつけ、食い破りそうな勢いで喉元に激しくしゃぶりついてくる。
密着した身体からシュウシュウと湯気がたっているようにも見えるが、たぶん瘴気なのだろう。
太腿に押し付けられた股間に感じる硬い怒張。これは、ディーの……?
長く伸ばした舌が俺のあごから唇までをねぶり上げ、閉じた唇を割って強引に口の中へ入ってきた。
「ん、んん、ん……」
取り憑かれているとはいえ、ディーの身体。傷つけたくはない……!
そのとき、スッと視界の隅に入った誰かが、何かの液体をこちらに向けてぶちまけた。
「ぐああああああああ!」
怪物のような声をあげて、ディーが床を転げまわる。
走り寄ったエッドが、激しい動きのわずかな隙をつき、後頭部を一撃。ディーの姿を借りた〝何者か〟は、気絶した。
黒い稲妻の突入からここまで、わずか一分ほどのことだった。
ともだちにシェアしよう!