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第8話
8 霊都にて
昼下がりのロンドン。リージェンツ・パークの目と鼻の先、ベイカー街の通りに面した二階建て屋根裏部屋付きタウンハウスの一階、金融業「スクルージ商会」の看板を掲げたオフィス、で、俺はディーとマーレイとフロゥと一緒にガーランドを迎えた。
微妙な空気。特にディーだ。笑みをたたえてはいるが、これは怒っているときのやつ。その笑みでガーランドを出迎えたディーは、黒檀ステッキの銀の柄を相手の胸元にグリッと突きつけながら言った。
「君は私を餌にしたんだよねえ?」
ガーランドは明後日の方向に視線をずらす。
「あー……」
「マーレイくんも巻き込んだよねえ?」
「あー……」
「それに留まらず、最後にはディーを囮にしたんだよねえ?」
「あー…………」
「ねえ?」
強調してグリグリ突きつけると、ガーランドがついに叫んだ。
「悪かったよ! だが、俺だって最後の茶番に付き合ってやったろうが!」
――ひどい目に遭わせておいて、開き直らないで。
「そうですよ、ガーランドさんっ」
二人が加わって、しばし、やんややんやの大騒ぎ。
事の顛末は、結局こうだ。
ウィルビーと悪魔をおびき寄せるため、ガーランドがディーの小説を利用したのは、先にも言った通り。
やがて俺とマーレイを知ったジジイは、こりゃたいした玉がそろったわいと三人まとめて利用することにした。
そして最後には、フロゥの告げ口で俺が単身ウィルビーの元に行ったことを知ると、ならばいっそ悪魔が完全に移行した状態で捕らえてしまえ、と召喚の魔法陣を準備した。
ひどい話だ。もしかしたら、俺ごと封じられていたかもしれない。
ちなみにマーレイ家に戻ったフロゥは、急いで話を伝えるために、なんとマーレイに乗り移った。いきなり裏声で少女の言葉使いになった大男のマーレイに、皆んなどれだけドン引きしたかと思うと、息が止まりそうなほど笑えた。
「悪かったーっ! 悪かったよ。おかげで事は収まった。一応な!」
そう言って、いつも着ているケープ付きマントの袂から、布に包んだあの緑の宝石を取り出した。
「まだ、魔術師協会にもバチカンにも正式な報告は上げていない。確認があるからと言ってあるが、矢の催促だ。お前さんの話を聞けば、この石をどうしたらいいかわかるんだろうな?」
「ああ」
茶番、とガーランドが言ったことについて、俺は説明を始めることにした。でも、ガーランドには、少々言いにくい話なんだが……。
「お前ら、魔術師もバチカンも、ずーっと騙されてたらしいぜ」
「は?」
「からかわれていた――と言ったほうがいいかな」
――私、〝遊んでるのよ〟って言ったじゃない!
フロゥが得意げに笑う。
ガーランド以外にはすでに概略を聞かせていたのだが、マーレイは今また改めて興奮気味に、ディーはさっきも今も神妙に、聞いている。
俺はひと息に言い切った。
「あいつらは、今まで何度も悪魔を復活させてるんだってよ」
フリーズ。そして、――驚愕。
「……な、なん、なんだとお……!?」
ガーランドは鉤鼻の上の目を、これでもかというくらい見開いた。
「悪魔とシンクロしたとき、記憶や想いが共有できたんだ。まあ、後で本人たちに確認もしたが……」
〝歴史の中に何人もいたでしょ? 欲に溺れて、天下を取ったけど堕ちた人間て。あれ、何人かは僕らの仕業〟と、ウィルビー――本名イェシュア――は面白そうに笑ったのだ。今まで「歴史的にはかなり大物」たちを依り代にすることに成功していたらしい。
〝例えば、マケドニアの金髪の王様は格好よかったねえ。あの姿で復活するアシュも見てみたかったけど、王様ったら、男にも女にもだらしなくてねえ。悪い霊も病気もみんな引きつけちゃうもんだから、最期には霊力が腐って、魅力無くなっちゃって〟
とかなんとか。あと何人かの名も教えてくれたが、もし全部をガーランドに伝えたら、卒倒してしまうだろう……。
あの言葉も、今は納得だ。
〝普通ならば、俺との同化に苦しみ、数日はのたうちまわって苦しむものを〟。
きっと何人もが、俺のように体内に〝三つに分けられた悪魔〟を取り入れ、不思議と俺にはなかった地獄の痛みを体験したのだ。
〝いつも復活に失敗してるけど、今回初めて成功しそうだし〟と、しゃあしゃあと言っていたのは、依り代たちの死後、その身を得て復活することには満足に成功できていなかったからだという。
悪魔を体内に取り入れこの世の春を謳歌した者たちは、死してその身を献上すべきときにはすでに霊的に腐り果てており、器として長く使える状態はでなかった。復活しても、なんとか二年がせいぜい。あるいは、そもそも二人がその人物に飽きており、死体に移ることなく放棄してしまったり。
結局は、悪魔はいつもウィルビーの中に戻っていたのだ。
〝面白かったね、次はどうする?〟
ひと人生を終えるたび、そんな会話をしていたのが目に浮かぶ。明日、遊ぶ相談のように。
実はあの二人、かなり初期から念で会話もできたし、黒い靄の人型でなら体外に出ることもできたらしい。
あんな憂いある表情で、〝悪魔と話してみたいんだ――〟なんぞとぬかしたくせに……!
そのことを責めると、ウィルビーはしれっとした顔で、
「ああ、君があんまり真面目に受け取ってくれるもんだから、どんどん芝居に熱が入っちゃったんだよねえ」
と、言いやがった。
腹立たしい態度に憤りはありつつも、多少、思うところもある。
あの二人は、切り離せない絆を持つ相棒として、永い時の流れを、互いに会話し、時に人と影とで対面し、退屈しのぎに子供のように残酷な遊びを繰り返しながら、一緒に歩んできた。
元々は、人の弱さが悪魔をつけ込ませた、増長させたものだ。
挙句には、閉じ込める永遠の牢獄の役割として、人が勝手に人を創り出した。それらを想うと、奴らに同情を覚える余地はある。
が、弄ばれた身としては、すんなり許して依り代を引き受けるはずもない。
しかし、ディーを元に戻すという、ぜひとも叶えたい望みがある。
そこで、「取引」を申し出たわけだ。
と、ここまでを、かなりの部分を伏せて簡潔に語り終えると、
「何を、取引した?」
ごくりと唾を飲んでガーランドが訊いた。
「悪魔との取引は、願いが大きければ代償も――」
「ああ、知ってる」
ここから先は、今朝、ディーにしか明かしていなかった。
起きたことのすべてを共有するために、ディーが昏睡していたときのことを含め、悪魔を憑かせていたとき俺の身に起きた変化、取引の内容まで、包み隠さず話して聞かせたのだ。
今までに、見たことのないディーの表情だった。
いや、正確に言えば、表情が消えた。
その無表情の中に、ゾッとするくらいの怒りを感じ取れた。
マズったか……と悔やんだが、ここに連れて来て「奴ら」に会って以後は、かなり複雑に入り混じった笑顔になっている。
「何を取引したんだ」
ガーランドが畳み掛ける。
「俺の身体を、少し分けた」
「はあ?」
ガーランドと同時にマーレイも驚いて、ティーカップを落とした。
理屈は説明できないし、そもそも魔術だから理屈はないのかもしれないが、アシュモデというあの悪魔は、例えて言うなら俺の身体を構成している成分の〝上澄みをすくった〟……らしい。
俺が今まで通り生きるのに支障がないくらい、ごく少量の、「俺の成分」を全身からかき集め、それを材料にして自分が入るための人体を――錬成したのである。
「そ、そんなことが」
できたのか?とガーランドが言おうとしたところへ、階段から声。
「僕が説明しようか?」
降りて来たのは、にこやかに微笑むウィルビー。そしてその横には、ちんまりと、四、五歳くらいの美少年。
「!?」
「紹介します、アシュモデ改め、アシュフォード……と呼ぶことにした、僕の彼氏です」
少年は、ふふん、と不遜な顔をガーランドに向ける。
ガーランドはぽかんとして固まり、ディーは自分をいたぶった相手であることを忘れたかのように好意的な笑顔を向けた。理由は、初対面したときの反応が物語る。
〝これは……私たちの息子だねえ! ジェイ!〟
なんでそうなる!!
〝だって、私が自分を注ぎ込んで、それを受けた君の身体から生じたもの、だろう?〟
いやそれは……。
と思いつつ。目の前の少年は、肌こそ少し褐色がかっているものの、くりんと癖のある栗色の髪、ちょいタレ目だが冴えたまなざしは誰かにディーそっくりだ。そして瞳の色は俺と同じ。鼻と口のパーツも俺似なので、全体には俺ベースにディーが加わったようで、確かに……。
〝当たり前でしょ、君とディケンズの成分で出来てるんだから。その意味では二人の息子と言えるかもね。あのときのマーレイ君の血液もお借りしてるけど〟
魔法陣の発動に使った、手のひらからの血。それも利用された。
ディーは、マーレイが〝混じって〟いるのを気にしていない。今回の一件で、かなりマーレイを認めたからだ。たぶん他の奴の血だったら、「この子から、その成分を抜け」とウィルビーに鬼の形相で迫るだろう……。
あれだけの苦痛に遭わされたのにも関わらず、平然とした顔でウィルビーと少年に対面できるディーを不思議に思ったのだが、本人いわく「物書きの性(さが)」なのだという。
〝物書きってのはねえ、自分の身に起きる事件は何でも、ネタだ!と思ってしまうんだよ。経験値としてストックできることが嬉しいんだ。今回のは、まさに私だけが得られたネタの最たるものだろ? 仕返ししたい気持ちがある一方で、やった!と思ってしまう自分がいるんだよ〟
……変態だな。
「材料が少しなので、子供にしかならなかったけど」
ウィルビーが笑顔で説明する。ガーランドの、ぽかん、は戻らない。
「とにかくだな」
俺は説明を続けた。
「俺は自分自身と、ディーとマーレイの成分をちょっとずつ分けることでこいつの体を作ることに同意し、こいつはその代わりに、俺に悪魔の力を預けることに同意したんだよ」
「全部じゃないぞ」
黒の異空間で聞いたのとはまるで違う、子供らしい声だ。高慢な語り口なのに舌足らずなのが……あざと可愛い。
「今でもこの家ごとお前らを消し去れるからな」
「こら、アシュ、いけないよ」
「おお、悪魔がたしなめられている」
「面白いですね」
ディーとマーレイがきらきらした目で言う。
「時にガーランド」
アッシュが魔術師に向き直った。
「老いたな、会ったのは五十年くらい前か」
「お、おう」
「お前とも取引をしたい」
「なんだと」
目に鋭い光が戻る。
「いい話だぞ。……お前ら、我々が実は何度も依り代を得てこの世に影響を与えていたことを、バチカンに知られたくはなかろう?」
魔術師たちとバチカンは、対魔戦では共闘するものの、実は相容れない。魔術師の領域は、かたや森羅万象に霊ありとするプリミティブな考え方であり、かたや錬金術や天文学など化学・科学を尊ぶ姿勢。その両方が、キリスト教では否定される。この世を陰で動かす組織として強大な力を持つバチカンは、隙あらば魔術師たちを「異端・異教」の徒として葬りかねないのだ。今回とて、ガーランドたちが無残に失敗していたら、どうなっていたかわからない。
「そこでだ」
俺が話を継ぐ。
「あんたたちは、今回悪魔を封じた英雄として優位に立てばいい。その緑の石は本当にこいつの魔力の一部が凝ってできたものだ。気配を感じ取る力がある奴にはわかるはずさ。もし、気配が少ないぞと言われたら、外に漏れないくらいがっちり封じてあるんだと言えばいい」
「我らも黙っておいてやろう。その代わり、お前も我らはもう封じられたものとして、今後いっさい追うのをやめよ」
「今までやりたい放題で、何を身勝手なことを!」
ガーランドが怒鳴った。
「何を怒る」
悪魔と、それに近しい者ゆえの不遜さで、二人はびくともしない。
「俺たちが数十年に一度、依り代を得て多少の遊びに興じたからといって、人の世にどれほどの影響があると思っている」
「お前らは……、太古の昔より人心を弄び、世を欲望と混乱に……!」
少年とウィルビーが顔を見合わせてから、高らかに笑った。
「ああ、可笑しい。そんなこと、まだ信じてるんだね」
「我らもまだまだ、現役でやれるな」
この二人が話そうとしていること。それをさっき聞いた時は、俺も呆れて言葉がなかった。
確かに、この悪魔アシュモデは、人間の欲望を煽り立て、喰らうことで存在している。
人心にまだ無垢の割合が多かった時代には、その存在に触れ、魅入られた人々は、実に大きな落差をもって、堕ちた。
しかし、歳月を重ね、罪を重ねた人の世は、自ら汚れ、いまや人類は清濁の境目を失ったという。
舌足らずな子供の声で、悪魔は淡々と語る。
「俺は確かにお前らが言うところの悪魔だが、俺が及ぼす悪影響など、お前ら人間が自ら生み出す欲望や悪意に比べたら可愛らしいものだぞ。かつて人の心は、清らな水にインクを注ぐように染められたものだが、今は……そうだな、紅茶の中にウィスキーを注ぐに似て、元々に色があるから、なんら変わらん。例えて言うなら、注いだ酒の作用が飲む者のさがを増長させるように、我らは欲望を抑えるリミッターを外しているに過ぎん。欲望そのものは、人の中にすでに在る」
まばたきも忘れたガーランドに、ウィルビーがとどめを刺す。
「今どき、僕たちを特別視することは、なんの意味もないってことですよ」
そんな……、とマーレイが小さく声を漏らした。
長い年月、――ガーランドにとっては青年時代からの半世紀をかけて、見つけ出し調伏すべき敵の一つとして追い続けてきた相手。
それが、「実はたいしたことない」などと知る以上に酷い仕打ちがあるだろうか。人生が無意味だったと言われるようなものだ。
本人だけではない。これが公表されてしまえば、歴代の魔術師も、バチカンの連中も、多くの人間の人生が否定されるようなもの……。
ガーランドは葛藤している。
嘘だ、いま聞いたことはすべて悪魔の奸計なのだ、と信じたい。しかし一方で、人間たちの姿を見ていると、それが真実であると心が認めるのを否めない。
「では、もう一つ、条件を追加しよう」
アシュが沈黙を破り、再び話し出す。
「……なんだ」
「ロンドンが今、魔的・霊的な力のるつぼになっているのは、もう知っておろう? 霧の都どころか、霊都だ。集まってきている奴らの中には、お前たちのような霊力の高い人間を喰らうのが好きな者も多い。お前らは、格好の餌だな」
次いで、ウィルビーが言う。
「そこで、何かあれば僕たちが手を貸しましょう。いえ、正しく言えば、アシュが人の欲の力を吸い取るのに邪魔なライバルを消すことが、あなた方を守るのに繋がるというわけだけど。――どうです? 魔術師さんたちやバチカンの方々にとっても都合はいいはずだ。余計な気がかりと人員をロンドンに傾けなくて済むからね」
沈黙。
しばし顔を下げて黙った後、ガーランドはようやく言葉を発した。
「信じられるか、そんな約束」
無理もない。何世代にも渡り調伏せんとして闘ってきた相手に、のほほん、と「もうやめよ?」と言われてもな。
苦笑しながら、俺は言う。
「ガーランド、俺も金貸しだ。ちゃんと担保を押さえてあるんだよ。身体を少し分ける代わりに、悪魔としての力を預けることに同意した、と言ったろう?」
俺は自分の左目を指差した。
「この瞳にな、すでにこいつの魔力の大半を預かっているんだ」
ディーがまた不安げな渋い顔になるのが見えた。マーレイも、フロゥも。大丈夫、もうお前たちを悲しませたりしないよ。
「なんと……」
「俺の中にあるかぎり、こいつはこの力を使えないし、無理に奪おうとして俺が不自然に死ねば、力が消滅してしまうようになってる。こいつは俺を守りこそすれ、殺すことはない。な?」
「その通り」
だが、ガーランドのまなざしから疑念は消えない。
「嘘をついているかもしれん」
「嘘をついても良かったんだがな」
アシュが、逆撫でするように言ってのける。
「嘘をつく必要もなくてな。利害は一致しているんだ」
「そう、力ある者たちの成分を合成して人体を創ることを初めて試せて、なんと成功したからね。そのお礼に、ささやかながら尽力しようというわけさ。アシュは初めて自分の身体を手に入れて、しかもこれから〝成長する〟という初めての体験にワクワクしてる。この楽しみがある間は、〝退屈しのぎ〟はしなくて済むよ」
傲慢で身勝手な言い分だ。
何度めかの、重い、沈黙。
しかし今回は、天然なタイミングでマーレイがそれを破った。
「ルージー、お前って、本当に商売人だったんだなあ……」
俺が悪魔たちと交渉(いわば商談)を成立させたことに、心底、感心しているらしい。
「だからここまで成り上がったろうが」
「うん、ごめんよ、ルージー、僕はどこかでお前が、美貌でのし上がったと思っていてさ……」
「はあ? 枕営業しか能がないとでも言いたいのか」
「思ってないよ! いやだから、ごめんて」
「君はすごいよ、スクルージ君、悪魔とすら駆け引きしてしまうんだから」
ウィルビーが茶々を入れる。
――お互いに笑顔で剣を向け合ってるから大丈夫って感じだわ。
フロゥが冷ややかに言う。
「まあ、いいんじゃないか」
最後にディーが、きわめて軽い調子で言い放った。
わざとらしいくらいニッコリとした笑顔をガーランドに向け、ひと息で言い切る。
「ガーランド、ここはおとなしく、私たちをハメて危険な戦いに巻き込んだ挙句にそれこそが茶番だったことを唯一知る老魔術師、という役目を潔く引き受けたまえよ」
トゲがある。
「感謝もしてるんだよ~? おかげさまで、あんな名作を書くことができたし」
俺を見つめる。
「愛しい人に想いも通じたしねえ」
黙れ。
くすくすとウィルビーが笑う。
ついにガーランドが腹を括った。
「……よーし、わかった! 魔術師協会とバチカンには、穢れなき者の血を使う秘術で、俺が悪魔とホムンクルスの魂をこの石に封じた、と報告する」
しかし、古き悪魔を封じるための共闘が、完全に「今後、必要なし」となれば、バチカン側は魔術師たちを「もう要らないもの」認定し、排除しにかかるかもしれない。
そこで、ガーランドは一計を案じた。
「この石に封じ続ける詠唱は、白い魔術師にしか出来ぬものである、と言う!」
こいつも抜け目ない老狸である。
「それがいい」
「半分くらいは本当だしな」
「多くの人々が、救われるね」
と、ディーが言ったのは、調伏に賭けた努力を嘆く人間たちを出さずに済むという意味だ。
アシュが交渉成立の握手に手を差し伸べる。
ガーランドは頑として拒んだが、愛らしくも不遜な笑顔を浮かべた美少年はむんずとその手を掴み、無理矢理に決行した。
複雑な表情で、ガーランドは己が手を見つめる。
「ところで、ねえ、さっきから言ってる穢れなき者の血っていうのは、僕のこと?」
と、マーレイ。
「そうだ」
「本当に今回は条件が勢ぞろいだったんですよね」
ウィルビーが友達の一員であるかのようなお気楽さで語り出す。
「寄生対象と依り代が、共に大きな力を持つ者だったのも数百年に一度くらいの幸運でしたし、さらに匹敵するくらいの力を秘めた穢れなき者がいるなんて。この三者がそろったのを知ったとき、アシュの器を作る錬成ができるかもなあと考えました。特に最後のあの魔法陣の発動には、力を持ち、かつ穢れなき者の血が不可欠だったので」
「その、〝穢れなき〟ってのは褒めすぎじゃないか? 僕だって二十年以上生きて、それなりに世俗に染まってるしさ」
俺たちは全員、フロゥまでも、きょとん、とマーレイを見つめた。
――あー……。
「言ってなかったのか」
「言っていいのか?」
「なんだよ、言ってよ」
自分の知らない事情があるのかと、マーレイが焦った顔をする。
ウィルビー、アシュ、俺で言葉を継いだ。
「だって」
「お前」
「童貞だろう?」
真っ赤になり、青くなって、また赤くなってからプシュウウウ……っと腑抜けたマーレイを、皆んなで俺の大きな椅子に安置する。
「それではな」
ガーランドはドアの前でいったん立ち止まって深呼吸をすると、意を決して水に飛び込む者のように、「よし」と弾みをつけて初夏の陽光の中に出て行った。
夏なお薄暗い俺のオフィスに、一瞬だけ初夏の温かさが流れ込む。
「じゃあ、僕たちも行きましょう」
「うむ」
――どこへ行くつもり?
フロゥの態度は、まだかなりウィルビーたちに冷たい。
相手は筋金入りに厚い面の皮で、さらりと笑ってみせる。
「帰りますよ。大英博物館の近くに部屋を借りたので、そこに」
――はあ!?
「ロンドンに住むのか?」
「そうだよ」
俺もディーも少なからず驚いた。
てっきり、外国に身を隠しておいて、餌の欲望を喰らうためや遊ぶために定期的にロンドンにやって来るというのだと思っていた。
人の身を得たとはいえ、魔力で移動もできるだろうから、と。
「だって世界で一番、霊力にも魔力にもあふれているんだよ? こんな面白い場所にいない手はないでしょ。ついでに君たちも守れるし」
ついでかよ。
「うむ、せっかく人型になったのだから、観光や観劇とやらも自分の目でしたいしな、自分の舌で菓子や肉も食したい。酒もな!」
「ふふ、だめだよ、英国では十三歳以下の子供にお酒は禁止だから」
「バレないように飲むなら良かろう」
「こっそり、お家の中でだけにしようね」
「おお」
嬉しそうな子供と、それを言いくるめる青年の図。
「お前らも、醸し出す雰囲気は親子だな」
「親子ではいちゃいちゃできないねえ」
「そうだな」
「設定は……、外国から来た貴族の坊ちゃんと執事、でどうかな」
「んー、お前は家庭教師で、俺はディケンズとの隠し子というのでもいいぞ」
「それはやめてくれ」
ディーが口を挟む。
「そうだよ、あり得そうだからゴシップ紙の注目を集めてしまうよ」
「そうか、我らに目が向くのはまずいな」
お気楽な奴らだ。
魔術師やバチカン関係者が、封じられたはずの悪魔とその器が実は自分たちも住むロンドンで人間生活を満喫している、なんて知ったら、……卒倒するどころか、そのまま昇天しそうだ。
「真面目な話、忠告しておきますよ」
一転して、ウィルビーが笑みのない顔で言った。
「本当にいろいろな魔物や厄災をもたらす者が集まって来ている。君たちはさまざまな事態に巻き込まれることになる。生まれ持った運命と、諦めてよね」
そう言い残すと、ウィルビーは愛しき悪魔と手を繋いで俺のオフィスを去って行った。
――あんたたち以上の厄災はないでしょうっての!
「まったくだ」
通りに面した窓から、ディーが歩き去る二人の姿を見つめている。
「何だよ」
「んー、ウィルビーの本名が、イェシュアだったろう?」
「ああ」
「確か、古い国の言葉で、〝救い〟という意味だったと思ってね」
「救い?」
――意味深ね。
「だよねえ。彼を創り出した人たちは、彼に何かを託していたのかもしれないね」
「ふうん……」
その後、正気を取り直したマーレイを加え、紅茶を飲みながらぽつぽつと話をした。
マーレイが真剣な顔をする。
「本当に、今の彼らの影響力は、たいしたことないんだろうか」
「言ってるほど、弱まってはいないだろうねえ。なんたって、悪魔は悪魔だ」
「だろうな」
「ジェイに預けたという魔力の量も、かなり正直だったとしても、半分くらいか三分の一がいいところじゃないかな」
「じゃあ、自由になるための嘘?」
「嘘というか、方便?かな」
シンクロしていた時に感じていたニュアンス。
それは、戦争や堕落や色欲や……などの荒々しいイメージではなく、穏やかな風景や静かな日々のものだった。いま奴らが求めているものが、「平穏」であるならば、しばらく力を使おうとはしないだろう。
この瞳の中に封じた力……。
俺が使おうと思ったら、使えるんじゃないかという気もする。
使わねばならないような事態に、遭いたくはないが。
魔物相手ならまだしも、人間相手に使うような事態には、特に。
俺がそんなことを考えているのを察しでもしたかのように、ディーが、珍しく、笑顔をまとわない冷ややかな表情で言い放った。
「人間の所業が、いまや悪魔の力を借りずとも済むくらい悪魔めいているのは、真実だしねえ」
通りにあふれる初夏の明るさを眺めながら、俺は最初の夜に見た夢を思い出していた。
クリアに澄んだ夜の風景、空に浮かぶ満月。
ポウッと白い灯りが点在し、やがて暗い海からさかのぼってきた黒い靄が街を覆っていく。あれは、この街にいる高い霊力を持つ人々と、それを喰らわんと寄せ集まって来る悪しきものたちを象徴する夢だったのかもしれない。
「まったく! 〝たいしたものではない悪魔〟では困るんだよ」
いつものニヤケたおちゃらけを取り戻したディーが言う。
「強敵だと思ったからこそ、私は自分の命を賭す覚悟で、悪魔ごと自分を殺せとまで言ったのに!」
「ええっ!?」
知らないマーレイが目を丸くする。
「ちょ、なにそれ、ディケンズさん、ルージー、詳しく教えてよ」
「やだよ」
「なんでだよ!」
「なんでもだよ」
そのセリフに至るまでの詳細なんか、教えられるか!
ディーは面白そうにニヤニヤしている。……いつかこいつがマーレイに教えそうだ。
ふいに、フロゥがディーに声をかけた。
――誰か来るわ。
「ん? 私にかい」
ほどなくして通りを走って来たのは、マーレイの屋敷の中庭で鉄柵越しに会った若者だった。
「旦那のところの執事さんに頼まれて、手紙を持ってきたんですよ」
差し出された封筒は、上質な紙を使った高価なものだった。表面には明らかに女性の手による文字で、〝ディケンズ様〟とある。
「呼び出し?」
「どのセフレ夫人からの呼び出しだよ」
冷ややかに言うと、ディーは慌てる風もなく、俺に封筒の裏を見せた。その封蝋を。
V――
「ヴィッキーからだよ」
「ああ、なんだ」
「いや、毎度思うけど、君らそれ、あの方に対して失礼だからね」
頼みごとがあると、実に気軽に俺たちを呼び出してくる、やんごとなき、共通の知り合い。
「今度は何だろう」
「疲れてるが、まあ、聞きに行くか」
――女王陛下のために、頑張って。
マーレイを留守番において、二人で外に出る。
通りの向こうを見やって辻馬車を探す間に、俺はふと思いついてディーに訊いた。
「なあ、今回の一件も小説にするのか?」
「んー?」
「何でもネタだって言ってたろ」
「ああ、そうだね。でも、書かないよ、今回の一件はね」
「なぜ」
「ほら、私の小説は名作すぎて言霊が発動してしまうからね、魔物を呼び寄せたら大変だろ~?」
わざとらしく自画自賛してみせた後、ディーは目を細めて微笑んだ。
「大事な君の居所を知らせたくない」
君を守るためだよ、と聞こえた。
「ふうん……」
向けられる愛情に照れくさくなり、わざと素っ気ない態度をする。
「ああ、馬車がいた。あれに乗ろう」
ステッキを持つ手を上げて馬車を呼んだディーは、もう一方の手を、ハイゲイト墓地で会ったときのように俺に差し出した。
「さあ、新たな面倒ごとへ共に向かおうじゃないか、ジェイド君」
「ああ」
素直にその手を取って近づいてから……、ハッと気づいた。
「お前……今、何て……!?」
ディーがにんまり笑う。
「私が、知らないわけないないだろう?」
「お前、教えたのか!?」
――やだ、違うわよ!
「君の瞳を見るたびに、ぴったりだなと思っていたんだよ。親御さんはきっと、赤ん坊の美しい瞳を見て、こう名付けたんだろうねえ。翡翠(ジ・ェ・イ・ド)♡」
「………………!!!」
いつから知ってた? どうやって調べた?
質問がいっぺんに駆け巡る。
――顔、赤いわよ?
うるさい。
日差しが暑いせいだ。
絶対に、そのせいだ。
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