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3.静かな放物線

『トモ!トモォ、うぁああああああああ』 「あーどうしたの湊人(みなと)? なに?」 『う、ウワ…』 「ウワ?」 『ウゥ〜〜クワガタぁ~クワガタになるぅうううううう~~』  ガラガラガラガラ……スピーカーの向こうでは何かが崩れ落ちたような音がして、その後盛大な泣き声が響く。 『あーごめんねトモ』  かわってモバイルから聞こえてきたのは姉の美晴の声だ。さらに耳をつんざく叫びが続く。まるでホラー映画のようだ。 「なんのホラーやってんの? 大丈夫?」 『んー湊人が突然クワガタ狂いになってるの。科学館のオモチャもらったのはいいんだけど…わけがわからなくってまいるわよぉ』  甥の湊人は齢三歳の古強者である。姉がいうには、家は毎日古戦場だそうだ(この意味については深く聞かないでほしい。僕にもわからない)。ちなみに姉は少女漫画オタクにくわえて歴史好き、義兄は古地図マニアである。  僕の実家はごくふつうのべータの両親のあいだにベータの子供――上から男、女、男、そしてオメガの末っ子の僕という六人家族だった。僕より五歳年上の姉夫婦は、いまは都心から車で二時間強の隣県で両親と同居中。もともと都心の下町にあった先祖代々の古い家を、僕の就職と父のリタイアを契機に売って引っ越したのだ。  長兄の隆光は転勤族で一家で昨年から九州にいて、真ん中の兄の千歳は学者の奥さんとずっと海外生活だ。だから実家周辺でなにかあったとき、僕に時々連絡をくれるのは両親でなければ姉の美晴なのだが、今日は少し様子がちがった。 『いやごめん、クワガタはいいのよクワガタは。電話したのはこのことじゃなくて』  姉は急に声をひそめた。『ほら、例の週刊誌の記事』  僕はどきっとする。 「まだ来てる? あの連中」 『まさか。うかつにもかつてわが陣に取材など試みた愚か者は大将が叩きだしたゆえ――』  姉は唐突に芝居がかった口調でいった。彼女を知らない人なら驚くだろうが僕は慣れっこだ。 『二度と近寄るまいて。そうじゃなくてあの子。ほら、北斗君』 「昌行が何?」 『連絡とりたいってここまで電話かけてきたのよ。あんな風に記事になるなんて思ってなかったとか謝りたいとかいろいろいってたけど、でもあの子、トモのメールくらい知ってるでしょ?」  もちろん彼は知っている。もっとも届くかどうかは別問題だった。 「ブロックしているからね」と僕はいう。 『それもそうね』姉も平然といった。 『当たり前よね。トモのこと、あんな風に雑誌に書かせておいて、何考えているのかしら』 「さあ」 『トモがちっさいときからの友達だったじゃない? あんな子だった?』 「さあ」 『ちっさいころはボサボサでモソモソで頭爆発してたトモがすごい美人になったから、嫉妬してるとか?』  僕は吹き出した。 「姉さん、昌行はベータだよ? やめてよ」 『なによ、ベータの男だって自分よりきれいなものをみれば嫉妬くらいするわよ。それにトモは美人なだけじゃなくて男前でモテるから。今回はアルファの名族もひっかけたわけだし』 「ひっかけたって……それはどうも」  僕はモバイルを握ったまま苦笑いをする。  例の週刊誌の記事というのは、ボスと佐枝さんの関係が『運命のつがい』としてスクープされたとき、僕まで巻き添えで記事にされてしまったことだ。  どうしてボスの恋愛沙汰がそんな記事になるのかって? それはボスの実家、藤野谷家が、みんなの知っている有名なアルファの一門だから。アルファの名族は往々にして準タレントのような扱いをされるので、結婚や浮気といったゴシップは僕ら庶民の暇つぶしにもってこいというわけである。姉いわく、そういうものはたいてい美容院で読むのだとか。  それにしてもこのスクープはとてもタイミングが悪かった。何しろごく短期間の事だったとはいえ、TEN-ZEROで再会した僕とボスの|接近遭遇《おつきあい》まで書かれていたからだ。おまけに僕の学生時代の素行についても「旧友のベータのAさん」の証言が載っていた。  旧友のベータAさん、か。  佐枝さんは佐枝さんで、「知人のベータAさん」による『何年もベータだと思っていたのに騙されていた』云々という独占インタビューが載せられて、僕はそれを読んだ時、心底彼が気の毒になったものだ。彼が拉致されるなんてことになったのも、報道をきっかけに居場所がバレたせいらしい。 『まあ、トモが名族に嫁に行かなくて私はほっとしたけどね。誘拐されたりしたらたまったもんじゃない。あの方はもう大丈夫なの?』 「佐枝さん? うん、今は病院で療養中。明日同僚と見舞いに行く」 『結局今回の話って、彼が犠牲になったせいでどうにかなったわけでしょう? 藤野谷家がどうとかいってたマスコミが静かになったのも。いくらアルファの偉い家だからって、勝手もいいところだわ』 「まあ、その辺は当事者の話だから、外野がどうこういえることじゃないよ。ほら『運命のつがい』だし」 『運命ねぇ。トモにはいるの、そんな運命のアルファ』  姉は喉の奥で唸り声のようなものをあげる。彼女は少女漫画オタクだが、案外ベタな物語には懐疑的なのだ。 「いたとしたって、会ってなければいないと同じだろ」 『砂漠や森の真ん中でトモを呼んでるかもしれないわよ。ま、トモが僕の運命ですって誰か紹介してくるなら、アルファじゃなくてもいいけどね。男でも女でも犬でも猫でも。それに湊人は大きくなったらトモを嫁にしたいらしいから、むしろそっちを覚悟してほしいわ』 「湊人が? なんで?」 『トモがママやばあばよりキレイだからって。失礼しちゃうわ』 「まだ三歳だろ?」 『トモは二十六よね? 二十三歳差か。楽勝じゃない』 「姉さん、あのねぇ……」 『それはそうと私――佐枝さんの話、結局いろいろ読んじゃったんだけど――』  ふいに姉は話を変え、うしろめたそうな声を出した。週刊誌やウェブのゴシップをあさってしまったことを恥じているのかもしれない、と僕は思う。姉は歴史好きとあって読んだり調べたりするのが好きだが、ひどく潔癖な側面もあって、他人の事情に土足で踏み入るようなことを嫌った。  彼女の適度な倫理観はいいものだと僕は思う。いや、僕の家族は全員まともで、それが僕は嬉しい。ボスと関係していたことで僕自身がゴシップネタになった点についても、僕の両親も兄たちも僕をまったく責めなかったし、かといって過度にかばったりもしなかった。 『彼がベータに見せかけていたことって、結局もとの原因はアルファでしょう? 彼が一方的に損してるんじゃない』 「うん、まあ……ただ藤野谷さんをかばうつもりはないけど、佐枝さんにも、ベータのふりをしていた方が便利だったところもあったと思うよ」 『どうして? トモもベータのふりをしたいなんて思ったことがあるの?』 「いや、うちはそんなことはなかったけど――『ハウス』にはいろんな|人《オメガ》が来るからさ。中には家族に嫌われていたとか、外出もさせてもらえなかったとか、そんな話は聞いたことがある」 『オメガだからって理由でそんなことをする連中は地獄で窯茹でにするべきよ』 「そうかもね」  モバイル越しに伝わってくる姉の苛立ちに僕は苦笑する。たしかに佐枝さんほど本気でベータに偽装する――三性を偽るというのは、今の社会ではふつうではない。けれどもオメガが身内にいることを隠そうとするベータの家庭はまだ存在する。  三性のうち、オメガはアルファやベータにくらべて数は少ないが、両親の性別や血統に関係なく生まれてくる。成熟したシングル――つがいのいないオメガの匂いは、否応なくアルファの注意を引く。だからベータの家庭に突然オメガが生まれると、それを「恥」と考えることも昔はよくあったのだ。今だって皆無ではない。特にオメガの男はそうだった。  なぜかというと僕のようなオメガの男は有史以来長い間――ありがたくも人権という普遍的な権利が発明されるまでの間――アルファの子供を産むためにのみ存在していると思われてきたからだ。そしてアルファは、その性質上社会的な権力を握っていることも多いとはいえ、すべてのベータが彼らに平服して従っているわけではない。むしろ家族にオメガがいることでアルファにつけこまれるのを嫌うベータもいる。けっして表立って口に出さないが、オメガを嫌うベータも――それなりにいる。  |僕ら《オメガ》には匂いでわかる。僕らはベータより鼻が利くのだ。そしてオメガを嫌うベータはそのことでますます僕らを嫌悪する。悪循環だ。 『トモ? 大丈夫?』  僕は姉の話をろくに聞かずに考えこんでいたらしい。あわてて返事をした。 「ん? ああ、ごめん。でもいまは、佐枝さんも無事だし、報道も同情している感じだし、僕はただのオマケだからどうってことないよ」 『北斗君のことはどうするの?』  北斗昌行。そう、もともと彼の話をしていたのだった。  僕と彼、それにアルファの秀哉は、子供のころから親も認める「仲のいい友達」だった。三人とも小学校から同じクラスで中学の間はいつもつるんでいて、高校も同じ学校で……。それがおかしなことになったのは、高校三年の冬と大学に進学したあとの夏。それぞれ、ちょっとした出来事を経てからだ。  それからの僕らは以前のような「仲のいい三人」にはついに戻らなかった。秀哉はまだ友達といえるのかもしれないが、とっくに何かが変わってしまった。  姉や親たちはそんなことは知らない。それに正直いって僕自身、いまはあの二人に関心がなかった。僕からすればもう終わったことだった。おなじ位置から投げた三つの球が、力の強さや方向のちがいで別々に飛んでいっただけの話で、それこそ運命だ。  週刊誌に僕の情報をリークしたベータの幼馴染の目的が何にせよ、いちいち考えるのも面倒だった。 「ほっといていいよ。まだそっちに連絡してくるなら、僕とは連絡がとれないと突っぱねて」 『その程度で大丈夫なの? 実をいうと私はかなり……悪意を感じたのよ。もっと用心しなくていいの?』 「悪意って、僕に対する? それともオメガに対する?」  冗談のつもりでいったのに、軽口にしては辛辣に響きすぎたかもしれない。回線の向こうで姉はふと言葉を途切れさせた。 『私は……昔の北斗君は、トモのこと好きだったと思うんだけど』  僕はまた苦笑いする。 「うん。僕もそう思うよ」

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