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4.雨粒の散る道

「ねえ、そういえば三波は最初から気づいてた? 佐枝さんが……」  誰もいない廊下で鷹尾がつぶやくように僕にたずねた。いや、たずねようとして迷ったようだった。  だから僕は勝手にその後を続ける。 「佐枝さんがオメガだってこと?」 「そう」 「いいや」  答えながら僕は鷹尾に手を差し出す。ハンドバックと反対の手に大きめの紙袋をぶら下げているからだ。 「そっちも持つよ」 「花束と一緒で大丈夫? 落とさないでよ。ラッピングが大変だったの」 「信用ないな。大丈夫だよ。クッキー?」 「マフィン」  紙袋を右手に、花束を左脇にかかえて、僕は鷹尾と並んで絨毯の敷き詰められた廊下を歩き、エレベーターを待つ。ここは佐枝さんがお忍びで入院――というか、一時滞在している施設だ。 「お忍び」という言葉にふさわしく、単に見舞いに来るだけでもプロトコルが必要な建物だった。藤野谷グループの病院に隣接した宿泊施設なのだが、入るためにアポだけでなくIDチェックまでされ、やっとビジターカードを渡された。外観はともかく、内装は超贅沢なホテルといったところだ。 「佐枝さんには――すこし妙なところがあるとは思っていたけど。ほら、もともと身バレ回避の秘密主義がすごかったし」  エレベーターに乗りながら僕は話を戻した。鷹尾はTEN-ZEROの同僚だが、オメガの同期入社ということで、親しく話すようになって数年たつ。以前から軽口をたたき合う仲だったが、昨年秋の佐枝さんも交えたプロジェクトでは同じチームになり、それからはもっと距離が縮まったような気がする。  にもかかわらず、ふたりのあいだでこの話が出たのは初めてだった。繊細すぎる内容なので、うかつに話せないとふたりとも感じていたせいだろう。佐枝さんがオメガだとわかってから、僕と鷹尾は一緒に佐枝さんの家に押しかけて飲んだりもしたが、もちろんその時も彼にこんな話はしていない。 「だけどプロジェクトがはじまってからも、何度か会ってもオメガだとは思わなかったな。中和剤ってすごいんだね――オメガ同士でもわからないんだから。ボスもわからなかったわけだし」 「不思議だったのよ」  鷹尾は小首をかしげて僕をみる。 「結局ふたりともずっと両想いだったわけでしょう? わからないものなのかって」 「そこはね……」  エレベーターは静かに上昇した。まったく揺れなかったので、ランプが点滅していなければ止まっているように感じたかもしれない。 「実は僕は……ボスがあんなに佐枝さんに執着しているのは彼がベータだからなのかと思っていたんだ。実際ボス自身、そう考えていたんじゃないかな。佐枝さんがオメガならむしろ話は早くて、言葉は悪いけど――実力行使できなくもない」  それというのも、常識的に考えれば、ボスのようなアルファならベータよりオメガを落とす方がずっと簡単だからだ。社会通念的にアルファはオメガとくっつくものだとされているし、僕らオメガには発情期(ヒート)というものがある。加えて現代ではオメガを一方的に抑圧することは許されないと教育されているから、アルファとオメガが対等に知り合うための機会や施設(ハウス)も比較的多くて、ある意味「出会い」に事欠かない。  さらにもうひとつ大事なこと――アルファとオメガの婚姻は、いくら『運命のつがい』のようなロマンティックな物語で飾ったとしても、当事者にとって多少なりともビジネスめいた側面がないとはいえない。悪い意味ではない。お互いにWin-Winになるといえるからだ。アルファとベータのあいだの子供はほぼベータだが、アルファとオメガのあいだの子供はアルファになる確率が高い。  一方でアルファの男がベータの男を選ぶのはいささかイレギュラーとみなされる。そもそもベータの男は子供を産めない。ボスのようなアルファ名族(クラン)の跡継ぎともなると子孫を残すのは至上命題らしく、彼が一度は僕を結婚相手にと考えたのも(今となっては双方にとってお笑い種でしかないが)きっとそのせいだろう。  ベータの男がオメガの男を選ぶのは、またすこし違う話だ。 「ベータじゃどうにもならないから、あえて僕とつきあおうなんて思ったんじゃないのかな。ボスはほら、変におもねってくる連中は嫌いだし、その点僕はずけずけとものをいうし」 「今だから聞くけど、三波はそれ――ボスが佐枝さんを好きだっていつから気付いていたの? それでよかったの?」 「だから振ったんじゃないか」  チン、と軽い音を立ててエレベーターが止まった。僕は近くのドアのナンバープレートを確認する。この施設では、うっかり別の部屋をたずねると面倒なことが起きるらしく、ビジターカードをもらったときに念を押されたのだ。  鷹尾は不思議そうな顔で僕をみていたが、ふいに「三波のタイプって結局どのあたりなの?」と尋ねた。 「どうしていきなりそんな質問を」 「素朴な疑問。いつの間にかボスとつきあって別れたのはいいとして、三波は結局どういう人がタイプなのかなって」 「素朴な疑問? ずいぶん急だなぁ…」  僕はぼやいて、とっさに頭に思い浮かんだままを答える。 「僕より背が高すぎない。偉そうに指図しない。黙って勝手に話を進めないタイプ」  鷹尾は急に笑い出した。 「何で笑うのさ」 「だってまったくボスにあてはまらないじゃない。どのくらいの間つきあってたの?」 「ボスと? うん――四カ月弱――実質三カ月くらいかな?」 「それだけ?」 「十二月からそういう感じになって、二月くらいまではまぁ悪くなかった。それがバレンタインあたりから色々あってごたついて、三月のはじめに佐枝さんちへ行った直後にもう無理と思って別れた。僕からすると続いた方だよ。史上二位じゃないかな」 「ええっ、これで長いの? 一位はどのくらい?」 「ぴったり四カ月と十二日」僕は花束を抱え直す。 「三年前くらいかな? ハウスで知り合ったアルファとヒートが終わった直後からつきあいはじめて、次のヒートの後で別れた」  鷹尾は眉をあげて何もコメントしなかった。きっと呆れたのだろう。 「ボスとはもめたの?」  僕は肩をすくめる。 「別れた時は、それはなかった」  これは事実だ。それにボスの名誉のために付け加えるなら、彼は(佐枝さん絡みでおかしくなっていた時をのぞけば)だいたい紳士的だった。だから僕らはその短い間に多少ふりつもった苛立ちやわだかまりは水に流すことにして、きっぱり別れたのだ。それ以来僕もボスも、個人的な連絡は一切取っていない。  もっとも女王然としたボスの母上、藤野谷紫を筆頭とする周囲のお歴々はその後もしばらく僕を「嫁候補」とみなしていたらしい。おかげで僕は春に名族のパーティに出席せざるをえず(ボスの母上の圧力を回避できなかったのである)そこで奇しくも「オメガの」佐枝さんに出くわしたのだった。 「まあ――僕は佐枝さんという人を知るずっと前から佐枝さんの作品のファンだったから……あの人がオメガだとわかってすこし、嬉しかったな。僕と同じなのがね。つまらない話だけど」  鷹尾はかすかに微笑み、特別室のベルを押した。 「いいえ。つまらない話じゃない」  とはいえ佐枝さんはまだまだ元気がなかった。休日なのにボスはいなかったし、絵を描いている形跡もない。部屋は豪華だったが、贅沢な鳥かごのような印象を受けた。見舞いの花やお菓子が積まれている中で僕らは鷹尾お手製のマフィンを食べ(たぶんいちばんたくさん食べたのは僕だが)別れ際にプレゼントまで貰った。峡さんが僕宛に置いていったというのだ。これではどっちが見舞いに行ったのかわからない。  せっかくなので晩ごはんも食べて帰らないかと鷹尾を誘うと、彼女はあっさり「ごめんね、約束があるの」という。 「なんだ。デートか」  僕は残念に思いながら引き下がった。鷹尾は上品な仕草でワンピースの襟についた埃をはらい、微笑んだ。  彼女も僕と同様にシングルだが、つきあっている相手がいないわけではない。アルファとオメガがつがいになるのは略式結婚のような側面があるから、カップルになってもタイミングをみるのはよくあることだ。おかげでクリスマスやバレンタインといった行事には特別なニュアンスがつく。 「そういえば三波って自炊ができないんだよね」  駅までの道を歩く途中で、鷹尾はおっとり、かつずばりと指摘する。空気はすこし湿っていた。昼間はさわやかに晴れていたのに、南から雲が迫りつつあった。じきに雨の季節が来る。 「苦手なだけだ。できないわけじゃない」と僕はいう。 「食いしん坊なのにね。夜は毎日何を食べてるの?」 「最近は近所の自然食コンビニを制覇してる。……そろそろ飽きてきたなぁ」  鷹尾は優美に眉をあげる。また呆れているのだ。ちなみに僕はこの表情を友情のあらわれだと受け取っている。 「そんなきれいな顔でコンビニご飯って、どうかしてない?」 「はっきりいうね。一人だと外食はいろいろ面倒くさいんだよ」僕はぶつぶついった。「ハウスで適当なアルファを食事相手につかまえたって、どうかするともっと面倒になるしさ」 「三波と同じくらい食いしん坊のアルファだって世の中にはいそうなものだけど」 「ハウスじゃどこでも、やたらとギラギラしたアルファばっかり声をかけてくるんだ。年齢のせいかもしれない。つがいを探している連中にいわせると僕は適齢期なんだよ。で、他のオメガは僕を競争相手だと思っていて、ただの飯になんかつきあってくれない」 「それならまた誰かとつきあいなさいよ。独身主義じゃないんでしょ?」 「僕より背が高すぎなくて、偉そうに指図しなくて、黙って勝手に話を進めないタイプと?」  鷹尾は笑い出した。 「ハウスでギラギラしてるアルファにはたいていあてはまらないわね」 「せいぜい自分でまずい飯でも作るさ」  僕はため息をついた。鷹尾はまた笑った。 「三波はみかけによらず面倒見もいいし、意外に空気も読むのに、どうしてこんなに出会い運がないの?」 「そんなの知らないよ」 「本当はおせっかいなアルファに世話を焼かれるより、何かしてあげる方が好きなんでしょ。ひと助けが好きよね」 「褒めても何も出ないよ」 「ほら、佐枝さんの叔父さんからお礼って、何か渡されていたじゃない。何をしてあげたの?」 「……別に」  不意打ちに僕は途惑った。 「たいしたことじゃない。事件の時に藤野谷さんが招集をかけたのは僕だけじゃないし……車で送ったくらいだよ。ほっておけない感じがして……前に佐枝さんが直接僕のことを紹介してくれて、初対面じゃなかったしね。例のメディア報道がはじまったころに偶然会ったこともある」 「私も製品発表のとき佐枝さんに紹介されて少し話をしたけど、感じがいい人よね。落ち着いているし」  鷹尾は屈託なくいう。 「アルファにはいないタイプよ。一緒にご飯を食べるなら理想じゃない?」  理想。たしかに理想かもしれない。峡さんはともかく、僕にとっては。  結局コンビニで買った食材とレトルトを駆使して夕食をつくり、ビールをあけて、僕は佐枝さんに渡された包みを開いた。水色の包装紙できっちり包まれた箱には濃い茶色のリボンが巻かれ、薔薇をかたどったような金具がついている。中身はシンプルな盤面の腕時計で、銀色の薔薇がひっそりとベルトに留められていた。パッケージの金具と同じデザインだった。  ビール片手だったのもあって、僕は反射的にネットで検索をかけた。贈り物の値段など調べない方がいいのかもしれないが、知らないブランドのファッション小物を前にして誘惑を断ち切るのは難しい。僕が靴と帽子とカバンに眼がない、かなり偏ったファッションオタクだという話はしていたっけ? 腕時計についてはそれほど興味を持たないようにしているけれど、その理由は時計に狂ったら最後、破産するのが眼に見えているからだ。  薔薇の時計の値段は驚くようなものではなかった。でもこのブランドはまだ日本に来たばかりで、簡単に手に入る品物でもなかった。直営店が都内に一店舗のみ、ほとんどの商品は予約制だ。  儀礼的に貰う品物にしては手がかかりすぎている気はする。いや、でも峡さんはふだんからこういう風に贈り物をする人なのかも。なにしろ佐枝さんの叔父なのだから。いやいや、僕は峡さんにこれを貰ったからって期待できることなんてないはずだ。アルファならともかく――峡さんはベータだし……  きっと彼に他意はない。これはただの礼なのだ。余計なことを考えるのは失礼だ。第一僕は峡さんのことなんて何も知らないし、彼はすごく年上で――たしか佐枝さんと十五歳ちがいだから、下手すると僕より二十歳上じゃないか?  僕は反射的に甥の湊人を思い浮かべた。とすると僕のことはただの子供か、せいぜい弟か甥……  そう考えたとたん僕はチキンサラダのレタスを喉につまらせ、盛大にむせた。 (一緒にご飯を食べるなら理想じゃない?)  鷹尾め。罪なことをいいやがって。何が理想だよ。  僕はあわててビールを飲む。まったく、変に意識させるから――いや意識していたのはそもそも僕の方で、なぜかといえば峡さんが記憶の中のあの人に似ていて……  僕はビールをもう一缶あけた。さらにもう一缶。  酔っぱらうと世間は気楽なものに思えるし、くよくよ深読みする必要もない気がした。考えてみろ、三波朋晴――と、僕は自分に語りかけた。何にしたって、たいした意味はない。僕は十五歳の自分が助けられたように、峡さんに何かできればいいと思っただけだ。峡さんはあの講師ではないけれど、よく似ていたから。そして峡さんは――大人だから――いい感じでお返しをくれただけだ。  だから逆にいえば、ちょっと僕から声をかけたって別になんとも思わないんじゃないか? 嫌だったら遠ざけるだろうし、そうでなければ適当に合わせてくれるんじゃないか。  いや――でも、三波朋晴。それは相手が大人だってことにつけこんでるんじゃないか? ハウスで出くわすアルファならほいほい返事をくれるだろうが、峡さんはそんなことをする必要や――意味はもたないだろう。せいぜい救いはおまえが嫌われていないというだけで……それもこれまで会った時のめぐりあわせで、たまたまそうだったのかもしれないし――  馬鹿だなあ。こんな時くらい自分の顔を信じろよ。ベータだからって、オメガに声をかけられて嫌な気分になるわけじゃないさ。  ――そうかな?  ――そうだろう?  ――ほんとに?  窓の外を通りすぎる車のタイヤが濡れたアスファルトをこすっている。いつ雨が降り出したのだろう。僕はビールの缶をつぶし、箱に入れたままの腕時計を見た。金具の薔薇が鈍く光った。

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