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18.水遊びの雀

 いったい僕は峡さんに近づいているのか、それとも彼の境界に自分からぶち当たりに行ったのか。  うっとりするような気持ちのいい夢をみて眼を覚ましたにもかかわらず(下着がどうなっていたかはご想像あれ)翌朝になって僕が最初に考えたのはそんなことだった。 「三波」  その日は不吉な兆候ではじまった。出社したとたん、廊下で藤野谷さんにつかまったのだ。  TEN-ZEROのボスは重役出勤という言葉とは無縁だ。とはいえ朝から晩まで会社にいることは少ないし、最近は顔をみることもめったにない。  サプライズパーティの後もボスの雰囲気は大変快活である。彼とよく接触する社員の噂によると、昼に壁の方を向いてモバイルで話しながら(もちろん相手は佐枝さんだろう)デレデレとニヤついていることも多いのだとか。まったくごちそうさまというものだ。  だからって羨ましくなんかないぞと僕は無意味な対抗心を燃やしたが、もちろん彼がそんなことを知るはずもない。あっさりと「ちょうどよかった。渡来さんから三波に話がある」といい、その向こうから貫禄のある紳士があらわれて、僕はひえっと思った。  渡来さんはTEN-ZEROの役員で肩書は顧問だが、ボスの個人的なアドバイザー――いってみれば藤野谷家のお目付け役だ。TEN-ZEROはまだ若い会社なので、入社数年のぺーぺーでも社長以下の役員とどこかで接点を持つ機会がそこそこある。しかし渡来さんは特別で、僕は彼が苦手だった。理由は単純で、彼に呼び出されるのはまずい状況の時と決まっているからだ。 「立ち話もなんだから」というボスに渡来さんは顎でうなずき、僕はそのまま役員室が並ぶ区画へ連行される。渡来さんは取調室を連想させる狭いミーティングルームのドアを開けた。うながされて僕が中に入ると、ボスは「よろしく」といって、僕と渡来さんを残して外から扉を閉めた。  うわあ、なんてこった。怖い教師とふたりきりで閉じこめられた気分で僕は内心びくついたが、神妙な顔をして小さな丸テーブルにつく。 「佐枝峡氏に事情を聴いた」  渡来さんは単刀直入にそういうとノートパソコンを操作した。 「ストーカーはこの人物で間違いないね?」  僕は液晶画面をみつめる。昌行だった。荒い画像が何枚もあった。服装もスーツだったり、カジュアルだったり。どこで撮ったのだろう? 「防犯カメラの映像だ」  渡来さんはこちらをじっとみつめながら見透かすように告げる。僕はうなずいた。 「はい。そうです」 「名前も間違いない?」  画面に文字があらわれる。北斗昌行。ベータ、男。勤務先。住所。経歴。家族構成。 「春の藤野谷家報道に関係した人物にはみな調査をいれている。きみの記事を書いたライターも調べていたから、その先も苦労はなかった」  僕の顔には思ったことがそのまま書いてあるに違いない。昨日の今日でここまで調べられるのかと不思議に感じたとたんにこれだ。 「佐枝氏の話では以前からの知り合いだそうだが」 「友人です――」僕はいいなおした。「友人でした。高校の頃」 「恋人? つきあっていた?」  僕は首を振った。 「迫られていたことは?」 「どちらもありません。トラブルはありましたが。その――もうひとり親しい友人がいて」 「それも男性? ベータ? アルファ? それとも」 「アルファです」 「そうか」  渡来さんは僕の顔をしげしげとみつめる。 「ストーカーがベータだと警察へ保護を申し立てるには少し弱いな」 「僕はそこまで――」 「会社としては社員に向けられた脅威を放置するわけにはいかないし、藤野谷家はこの件も春の拉致事件と接続していると思っている。この人物がきみに近寄らないようこちらで手を打つが、当面は少しでも異変を感じたら私か佐枝峡さんに連絡しなさい」  峡さんの名前を聞いたとたん、胸の奥がきりっと痛むような気がした。テーブルに名刺が置かれた。TEN-ZEROの名刺ではなく、藤野谷家の紋が入っている。  渡来さんはまだ僕をじっと見ていた。ひどく居心地が悪く、僕は思わず鼻をこすった。すると渡来さんは唐突に「ずっと香水を変えていないね?」といった。 「え?」 「今使っているのはテスト用のサンプル? シンギュラリティの」 『Singularity』はTEN-ZEROが今年の春に発表したフルオーダーメイドの香水だ。使用者の皮膚ガスを測定し、その結果と心理テストから「必要で最適な香り」を制作する。開発段階でも発表段階でもいろいろあったが、現在の売れ行きは絶好調。僕がつけているのは渡来さんがいったとおり、テスト用のサンプルだった。もちろんオーダーメイドである。 「はい。そうですが……」 「調合を変えるべきだ。社の福利厚生を使っていい。できるだけ早く」 「なぜです?」 「自分では気づいてない?」  僕はまばたきをした。話がみえない。渡来さんは僕の困惑を見てとったようだった。 「今年の春頃、佐枝零さんを見て気づいたことはないか?」  はっとして僕は渡来さんを見返した。あの頃佐枝さんは急激に雰囲気がなり、同時に匂いも変わった――なんというか、ほのかな色香を感じさせる匂いに。それは彼とはじめてあった頃には感じなかったもので、四月の新製品発表会で佐枝さんに会った時はなんだかどぎまぎしたものだ。 「立ち入ったことは聞かないが、オメガの場合、心理的な変化がホルモン分泌に影響して、外見や匂いに出ることも多いからね」 「ベータなのにわかるんですか?」  僕は思わず口走ったが、直後、年長の上役に失礼だったかと不安に思った。ありがたいことに渡来さんは眉も上げなかった。こういって面談をしめくくっただけだ。 「私は藤野谷家に仕えて長いから観察を積んでいるんだ。セクハラと取らないでほしい。社割で申請して早めに再調合するんだね。関係部署に話は通しておく」  八月は都心のオフィス街から人が減る。  僕は渡来さん(と藤野谷家)がどんな手を打ったのかを聞かなかった。アルファの名族というのはベータの庶民感覚には想像もつかないところがあって、いささか怖かったのだ。ともあれ、昌行が会社の外で待っているなんてことはもう起きなかった。メールも来なくなったし、周辺は奇妙に落ちついた。  いや、落ちついたというのとはきっとちがった。あれからすぐ峡さんが出張で海外へ行ってしまったのが大きな原因だった。国外だと、メッセージアプリのやり取りはあっても通信状態が良いとは限らず、おまけに時差もある。  そこへタイミングよく熱波がやってきて気温は連日三五度を記録し、暑すぎて虫も鳴かない気候では人間もぐったりだ。そんな中で峡さんと交わすメッセージは短い上に時間は合わず、声も聞けない。  いつでも元気にご飯が食べられるのが最大の取り柄である僕が、いまさら食欲不振を感じていたのは、たぶんここに原因があったにちがいない。いや、これは食欲不振ではなく消化不良感というべきなのかもしれない。  正直にいえば、僕はがっかりしていたのだ。どうして峡さんはあの時最後まで抱いてくれなかったんだろう? すぐに海外出張に行くのならなおさらだ。僕はそもそも楽観的な性格のはずなのに、ここ数日、ひそかに恐れていたことがともすれば頭の中をよぎってしまう。  ほんとうは――彼は僕じゃダメなのかもしれない。オメガの男なんてお呼びじゃないのかもしれない。キス以上は望まないのかも。彼はベータだ。僕は昌行の一件で同情されただけだったのかも……。最初につきあいましょうといったのは僕だし、あのときも昌行が絡んでいるのだ。  うだうだと思い悩んでいるうちにお盆が来て、僕は実家に帰った。  実家といっても数年前に建てたばかりの二世帯住宅で、僕も姉以外の兄弟も、土地にも家にもまったくなじみがない。庭に囲まれた一戸建ては、都心の下町にある古い家で生まれ育った母の憧れだったという。姉夫婦と両親の世帯は玄関も違うが、双方のキッチンに隣り合う広い座敷でつながっていて、たまに帰るとそこが全員の集合場所になる。  猛暑が一段落して待ち望んだ雨が降っていた。門扉をあけると湊人の金切り声が響き、黄色いレインコ―トが僕に突進する。 「トモーーーーーー!」  座敷の縁側で姉が苦笑していた。 「おい、我が息子。おまえの人見知りはどこへいった」  座敷にあがると前日から泊っている長兄の隆光が義兄と高校野球を論じていて、次兄の千歳がマンガ(姉のものだろう)を片手に誰かと喋っているが、聞こえた言葉は日本語ではなかった。僕は千歳の隣で膝を折り曲げて座る人に自然に眼を惹かれた。  黒い髪をドレッドに編んだ女の人は一度しか会ったことがない彼の奥さんだ。僕を見て二人同時に立ち上がったが、そうするとベータの標準より背が高いはずの千歳が小さく見える。僕の方はいうまでもない。 「こんにちは」 「こんにちは。えっと……アレックス」  つかえながら思い出した名前をいうと、浅黒い肌のなかに真っ白い歯がこぼれた。 「トモ。おぼえています。前に会った時よりもずっときれいです」  ところどころ風変りに上がったり下がったりする外国のイントネーションでいきなり真正面から褒められて、僕は返事に困った。 「弟をナンパしないでくださいよ」と次兄がいう。 「ナンパなんてしていません。きれいになったって褒めたんです。これはこの地方の礼儀に反しますか?」 「そうではありませんが」  千歳は早口の外国語で何かいいはじめたが、僕は彼をさえぎって「ありがとうございます」といった。理由はわからないが、日本語で話すときこのふたりはたがいに敬語を使うらしい。数年前、結婚した時にそう聞いたのだ。  アレックスは眼をきらきらさせて僕をみていたし、僕も好奇心でいっぱいだったが(何しろ千歳にも彼女にも会うのは久しぶりだった)母と美晴と湊人が同時にあらわれて全員の注意を引いたため、話は中断された。三歳児は無敵である。  みんなで手巻き寿司と冷やし中華を食べて、美晴は久しぶりに飲んだというビールが回って昼寝にいった。隆光と父と母と義兄は麻雀をはじめたので、僕は小雨のなか外へ遊びに行きたいとぐずる湊人をつれて近所の公園へ行くことにした。黄色いレインコートを着せていると千歳とアレックスもついて来るという。  湊人は僕らのやり取りも知らない様子で長靴が嫌だと文句をいったが、アレックスがひょいと抱き上げたとたんドレッドヘアに夢中になった。だがそれもすぐに水たまりを踏む興味に取って代わる。  公園はすぐ近くだ。足元がもこもこした感触のやわらかい舗装におおわれている。雨が降っても泥だらけにならないのは救いだが、蒸し暑いことに変わりない。元気よく進む小さな黄色いレインコートを今度は千歳が先導している。そういえば次兄夫婦には子供がいない。 「あれは何というのですか?」とアレックスがいう。指さす先にはピンク色のタコがいる。正確にはタコ型のすべり台で、タコの胴体に階段が隠されている。湊人はパタパタとそちらへ走っていく。 「あの……オクトパス型スライダーですか?」と僕は聞く。 「はい」 「何っていったかな……僕らはタコ入道と呼んでいた気がします」 「タコニュウドウ。それはどういう意味ですか」 「入道というのはお坊さんのことです」僕は慎重に言葉を選んだ。「お坊さんというのは頭を剃っていて」 「頭をソル」アレックスはくりかえした。「それはハゲということですね」 「そうです。人工的にハゲにすることです」 「ハゲた頭がタコに似ているから『タコニュウドウ』ですか?」 「そうです。たぶん」  湊人の姿が見えなくなったと思ったら、階段を上っているらしい。タコの頭の下で「トモーーー!!」と叫ぶ声が響く。 「ミナトはトモが大好きだとミハルがいいましたが、ほんとうですね」  アレックスがいった。 「ヨヤクズミだと聞かされました。トモをオヨメサンにするのだと」 「三歳だから」僕は笑った。 「大きくなったら忘れます。彼は変わるだろうし」  そう口に出してはっとした。 「どうかしましたか?」アレックスがたずねた。 「いえ。僕は……今かなり年上の人とつきあっていて。同じように思われていたら嫌だなと、思ったものだから」 「私もチトセよりかなり年上です」 「あ……すみません」 「いいえ?」アレックスはニコっと笑った。「私とチトセは十二歳ちがう。私はお兄さんのタカミツサンより年上なのです。トモのそのひとは?」 「二十歳上です」 「おや、負けました」  空の一方が明るくなっていた。重なった雲の切れ目から光がさしている。僕は傘をかたむける。雨はほとんどやんでいた。雨雲の周囲が金色に染まっている。同時に傘を放棄した千歳は、びしょぬれのすべり台を湊人に実験させまいと必死のようだ。  手を貸さなければと思いながらも誘惑に逆らえなかった。今を逃せば、アレックスとこんな話は二度とできないような気がした。僕はたずねた。 「千歳に最初に会った時、どう思いました?」  ドレッドヘアの下でアレックスの眼がきらっと光った。 「とても若い人だと思いました。とても元気で、陽気で、時間がある」  息継ぎをするような小さな間があった。 「私が彼と会う前に使い切ったものを、彼は持っている。私はそう思いました。でも千歳はそう考えませんでした。彼は、私は自分と同じ長さの時間を持っていると断言しました。時間は必要なだけのびるのだから、心配はいらないと」 「千歳がそんなことをいったんですか? なんて答えたんです?」 「あなたは頭がおかしい」  僕は笑い出した。アレックスも笑った。 「湊人! ほらこっちだ!」 「トモ!トモ!トモ!」  いつの間にか千歳と湊人は水を跳ね飛ばしながら追いかけっこをしていた。呼び声にこたえて僕もそこへ加わった。公園に湊人の笑い声が響きわたる。黄色いレインコートはなかばずれおち、彼が走るたびに水滴が飛び散った。

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