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19.凧が飛ぶ午後

 壁の上方にかけられた大型液晶にカラーやモノクロの写真があらわれては消える。外国の街を背景に撮られた印象的なショット。抱きあって再会を喜んでいる男女のそばで犬が首をかしげていたり、ショーウィンドウに映った老人の顔の接写、道端に転がるボール、かしこまってドレスをつまみ、見上げている幼女など。  クレジットには「葉月」とある。佐枝さんの実の親だ。 「ランチはいいの? 二時までだよ」  声に振り向くと、CAFE NUIT(カフェ ニュイ)のマスターが柔らかく微笑んでいる。カフェラテを置くと「キノネの頃のメニューも作ってるよ」といった。  そういえば、彼が以前いたカフェ・キノネのランチは絶品だったのに、たべるんぽにレビューを書いていなかった。 「このあとギャラリーで待ち合わせなんですよ。ランチは次回で」 「そう。ゼロが前にキノネのランチを喜んでたっていってたからさ」 「すごく美味しかったです。あの店はどうなっているんですか?」 「今はギャラリーやライブ利用、撮影会用の貸切がメインになってるよ。少し改装したんだ。喫茶の営業はイベントの時だけで、結婚式の二次会はケータリングを使っているから、僕の出番はもうなし」  マスターは眼をきょろっとさせ、そうするとなんだか可愛くてひょうきんな表情になる。この人は他人に気を許させるのがうまいな、と僕は思う。 「写真展、見た? どう?」 「良かったです。瞬間的にというか、ふりむきざまに撮ったような写真が多い気がしました」 「そうだね。でも、たまたま撮れたのか作りこんだのかわからないのもあるよね? 気に入ったならゼロも喜ぶよ。こんなにたくさんの写真があったなんて知らなかったらしいから」 「そうなんですか?」 「長いこと行方不明だった藤野谷家の人が保管していたんだって」  写真を撮った「葉月」と藤野谷家の関わりについては、僕もマスコミの報道を読んでいた。ということは、写真を持っていたのは葉月が最初に結婚した藤野谷家の長男だろうか? でもマスコミ報道では、葉月はその長男から逃げて、佐枝さんのもうひとりの父親と外国へ駆け落ちしたのではなかったか。 「ゼロのお父さんが亡くなったときに一緒にいたらしいんだ」  僕の疑問を見てとったかのようにマスターは説明を加えた。いつもの通り佐枝さんのことを「ゼロ」と呼ぶ。 「藤野谷家と縁を切って外国で暮らしていたという話で、このギャラリーに写真が来たのも最初は藤野谷家と無関係のルートからでね。その後いろいろ事件が起きてからは、うちがTEN-ZEROの発表会をやったせいで繋がったりもしたけど」 「なんだか運命的ですね」 「何がどう繋がっているかなんてわからないものだよ。ゼロと知り合って何年もたつけど、家族についてはたまに叔父さんの話を聞くくらいで、こんなにややこしい背景を持っていたなんて思わなかった」  またカフェの扉が開く音がきこえ、じゃあね、とうなずいてマスターは厨房の方へに戻った。日曜の昼間なのでテーブル席は埋まっていて、僕が座る壁沿いのデスク席(読書用のライトがついている。ここはブックカフェでもある)も空席は少ない。  僕は腕時計を眺め、そろそろかなと腰を浮かせた。店を出るときに画面に映された写真がちょうど切り替わった。夏空を背景に笑っている男。いい笑顔だ。このひとは何度も葉月の写真に登場する。佐枝さんの動画にも何度も同じ人物が登場したものだった。彼が匿名で発表していた頃のことで、僕をふくめたファンはその人物を「Dandy」というひどいコードネームで呼んでいたのだ。  それにしても家族の話で最初に「叔父さん」が出るのか……と僕は別のことに注意を傾けていた。近さでいえば兄弟や親のようなものかもしれない。僕は長兄の隆光や何かと世話を焼いてくる姉の美晴を思い浮かべる。オメガの「弟」という立ち位置は僕も佐枝さんも変わらないわけだ。願わくば僕が峡さんにとってそんな「弟」でないことを。  カフェからギャラリーのロビーへ出て、写真展の隣で開かれている新人作家の展示を眺めていると、うしろから近づく人の匂いにどきっとした。 「朋晴」  僕はふりむいた。 「お帰りなさい。写真展、見ました?」 「ああ。好評みたいだな。芳名帳もいっぱいだし、よかった」  峡さんは僕の隣に立った。長袖のシャツの袖を折って肘まであげている。 「好きな絵はある?」 「いえ。零さんの絵がこういうところに出たら欲しいですけど」 「そう?」 「もちろん。ファンとしては当然です」  その時ふいに指を握られた。あろうことか僕はびくっと反応してしまい、峡さんははっとしたように手を離した。僕はあわてて彼の肘に指をかける。 「行きませんか?」 「もう見た?」 「峡さんこそ」  彼は首を振り、僕らは外に出た。歩き出すと肘にかけた指が離れてしまい、僕は内心、何をしているこの馬鹿! と自分をののしりたい気分だった。どうしてこんなにぎこちなくなってしまうんだろう。パールグレイの車で峡さんのマンションに向かうあいだも会話は途切れがちだった。  彼は金曜の深夜に帰国したのだが、戻ったという知らせに僕が、日曜にギャラリー・ルクスの写真展に行くつもりと返したらこんな話になったのだ。お土産に新しい調味料を買ったから食べてみる? という文字の下に、まったく読めない文字ラベルが貼られた瓶詰めが映っていた。僕はふたつ返事で承知した。  なのにいざ車に乗ると、心臓がどきどき脈打つのを感じてしまう。例によってシートベルトの金具をはめるのに手間取り、カチャカチャやっていると、峡さんがふとこちらをみる。 「すいません」 「いや。その……何か変えた?」 「え?」 「いや、香りが」峡さんは困ったような顔をして首を振った。「ごめん。気にしないで」 「あ、香水を変えたんですよ。わかります?」僕はあわてていった。 「TEN-ZEROでオーダーしているんですけど、変えた方がいいといわれて。気になります?」 「まさか。いい匂いだ。渡来さんから何かあった?」  まさしく香水のアドバイスはかの人によるものだが、僕は黙っておくことにした。 「ええ、何か――手を回してくれたらしくて。昌行からはその後何もありません」 「他に何かあるのか?」 「いえ、何も。静かになりましたよ」  僕はあわてていったが、百パーセント正しいわけではなかった。というのも、三日前に今度は秀哉から連絡があったからだ。一度は不在着信で、その後またかかってきたので今度は出た。内容はいつものやりとりで、元気かとか、最近どうしているかという、その程度だ。昌行の話は出なかった。  この一度なら「静か」で済んだのだが、困惑したのは翌日も電話がきたことだ。話の中身はどうということもなかった――といいたいところだが、驚いたのは彼が「たべるんぽ」のレビューを知っていたことだ。僕は一度も秀哉に食レポのことを話していないし、アカウントも教えていない。  どうしてわかったのかと聞くと「文章がと思ったからカマをかけたんだ」と彼は笑った。たしかに秀哉にはそういうところがある。とはいえ、なんとなく嫌な感じがした。今度一緒にどこかへ行こうとさりげなく誘われたが、僕は適当にかわして電話を切った。  このことは峡さんにはいいたくなかった。秀哉とはずっと会っていないが、昌行のような決裂には至っていない。第一、これ以上峡さんに心配されるのは嫌だった。彼が佐枝さんを長年心配してきたのと同じように扱われるのも。  マンションについたときは午後二時を回っていた。生垣には以前と同じように蔓がからみつき、オレンジ色の花がぶら下がっていた。リビングの隅にまだスーツケースが置いてあり、キッチンカウンターには包装されたままの箱が並んでいる。  キッチンには僕が知らない秘密兵器(ブレンダーとか、フードプロセッサとか、野菜の水切り器とか、オリーブの種取り器とか)や知っていても実家を離れてから存在を忘れていたもの(ゆで卵をカットする道具ってなんて名前なんだろう?)が仕掛けてあった。計量カップを買ったのがついこの前の僕とは、天国と地獄ほどの差である。  テレビの音をBGMに、僕は峡さんにいわれるまま、野菜を洗ったりフードプロセッサで玉ねぎを刻んだり(あきれるくらい一瞬だった)したが、まるで子供の手伝いみたいだった。キッチンに並んで立っていると次第にぎこちなさが減ってくる。できあがったものはオーブンで焼いたトマトとパプリカのカップ(中に玉ねぎやひき肉が入っている)、ややこしい名前のスパイスが効いたチキンライス、冷たいじゃがいものスープ。 「ビール? ワイン? ワインなら向こうで買ったのがあるが」 「ワイン、いただきたいです」  ぼってりしたガラス製のワイングラスはふちと脚が青く、すこしいびつな形が面白かった。ソファに並んで食べた料理はなじみがない風味なのに、なぜか懐かしい感じがした。  ワインのせいもあったのか、僕も峡さんもだんだん口数が多くなった。とてもゆっくり食べていたような気がする。夏の午後の日差しは窓ガラスで弱められ、エアコンの効いた部屋は快適だった。料理がなくなっても、峡さんが旅行のあいだに買ったお菓子を味見し、飛行機の機内食(ロシアの航空会社では地元の料理が出てくるらしい)、僕が最近書いた食レポ(鷹尾と食べ歩いた夏のパフェ特集)、峡さんが空港で麻薬探知犬を見たという話から、犬はどのくらい人間の食べ物の味がわかるのか、と話題がうつり、気づくとふたりとも黙っていた。  見てもいないテレビがつけっぱなしだ。再放送の時代劇。草の道を歩く浪人を追っ手が襲い、チャンバラがはじまる。その時峡さんの腕が肩にまわり、僕はそのまま抱き寄せられていた。この前一度ここで――似たようなことが――あったのに、また心臓がどきどきする。  顎を持ち上げられてキスをした。峡さんのすこしのびた髭がざらりと触る。赤ワインの渋みと甘み、アルコールの匂い。体の表面が熱かった。ワインのせいだろう。僕も峡さんに腕を回してキスを返す。汗ばんでいるのは僕だけではなかった。舌先が同じくらい熱い粘膜に触れる。  僕は口をあけて峡さんの舌をさがし、絡ませる。こんなに甘いのはワインのせいだろうか。抱きしめられている背中も、いつのまにかしっかりくっついている腰も胸もとても気持ちがいい。ソファの上でキスしているだけなのに。 「んっ……峡さん」  峡さんの唇が喉のところへ降りてくる。たまらず僕はささやく。 「あの、シャワー……浴びさせて……」  喉に降りた舌が今度は右の耳へと近づいている。峡さんの口が触れて離れたところに空気の流れが当たって背筋がぞくぞく震える。 「そう?」かすれた声。 「汗……かいてるし……」  つぶやくと正面から抱きこまれた。峡さんの唇がもう一度重なってきて、唾液を交換するような深いキスになる。唇が離れると峡さんはそっと僕を離した。 「洗面所はあっちの」 「大丈夫です」 「俺も汗が気になる?」 「そんな……」 「一緒に浴びる?」  なんということだ。僕は赤面するのを感じた。どうして僕は峡さんのこういうのにいちいち弱いんだろう? いや、頭をちらっと横切った空想のせいもある。前にこのマンションに来た時に僕は見てしまったのだ。筋肉がぎゅっと締まった峡さんのへそのあたりと、すごく立派な……大きな……  ああっ、この馬鹿! それは三波朋晴、おまえだ!  それでも僕はこくこくとうなずいていた。峡さんは立ち上がり、僕は浴室までの短い距離をついていく。トイレで一度ひとりになって僕は深く呼吸した。落ちつけ。落ちつくんだ。今日のパンツは大丈夫だ。  後で思い出すとこれ自体すでに落ちついていないが、僕がトイレを出るとシャワーの音が聞こえ、脱衣場の峡さんはシャツを脱ぎかけていた。半分ボタンを開けたまま、僕の手をとって引き寄せる。僕らはまたキスをしていて、そのあいだに僕の開襟シャツのボタンも半分以上はずれていた。  もちろんひとりでにこうなったわけじゃない。腕時計の留め金を峡さんの手がはずし、僕はベルトをゆるめ、もがくように服を脱ぐ。浴室は暗い色のタイルに覆われ、照らすライトが金色に見える。湯気で鏡が曇り、その中にもぼんやりと金色がみえる。  シャワーの下で、何度目になるのかわからないキスをした。舌をからめて溢れた唾液がぬるい湯に流れていく。峡さんは触れる肌と湯気の感触にあてられたようになった僕をそっと壁にもたれさせ、泡立てたボディソープを肩から胸に広げる。僕もスポンジを奪おうとしたものの、峡さんがマッサージするように擦るたびに力が抜け、うまくいかない。 「あ…っ」  胸のあたりを撫でるように触れられ、股間がたちまち緊張する。肩、腰、と峡さんの手がゆっくり動いていき、かがみこんで僕の太腿から膝を洗い、股間にそっと手をそえる。いうまでもなくそこは期待でいっぱいで、僕は軽く握りこまれただけで漏れそうになる声をこらえた。 「んっ……あ、あ……ん」  峡さんは何もいわない。吐息が僕の肌をひっきりなしになぞって、ついばむようにあちこちに執拗なキスが落とされていくだけだ。いまの彼の肌には僕の泡が移っている。シャワーのぬるま湯が壁をつたっていく。いまの僕は背中を湯の流れるタイルに押しつけられたまま、耳を嬲る舌と股間をまさぐる手の動きに捕らえられて震えていた。峡さん自身の怒張もさっきから感じているのに、柔らかい愛撫がひたすら続いて終わらないのだ。  こんな愛撫に僕は慣れていない。気分を盛り上げようと耳元で甘ったるい言葉をささやくアルファなら知っている。僕の中に押し入ることしか考えていない連中も。ヒートのあいだは実際どうでもよかったりする。なのに――  ――あ。  腰に回った峡さんの指がうしろの穴をなぞり、僕はほんの一瞬緊張した。でも濡れた体はほとんど拒絶しなかった。入り口を押し開かれながらも峡さんの唇の愛撫は終わらない。僕は眼を閉じたまま中をさぐる指の感触に吐息をもらす。あ……まだ、まだ。そこじゃない……もっと……。  力の抜けた腰と背中を抱えられ、壁の方を向かされた。僕はタイルに手をついて尻を峡さんに突き出している。彼の吐息が肩からさがり、肩甲骨に歯を立てられる。中に入った指の本数が容赦なくふえて奥へ進んだと思うと、内側の一カ所を正確に押された。 「あ、ああんっ、」  声をとめるのは無理だった。しびれるような快感に膝がくだけそうになる。峡さんの腕が腰をささえて、彼の怒張をふたたび皮膚に感じる。自分の唾液が床へ糸をひくのがわかった。あれが欲しかった。指じゃなくて。ゴムも何もなしに、そのまま…… 「峡さん……」  僕はなんとか声を出す。 「お願い……そのまま……欲しくて……」  一瞬ひゅっと息をのむ気配がした。首をねじって背後の男をみあげる。峡さんの前髪からぬるい水が滴り落ち、視線は僕を避けるようにそらされた。僕の中をさぐる指の動きが止まる。  もどかしく腰を振るとうなじを舐めあげられ、僕はまた背筋を震わせた。 「朋晴。いけない」  こんな時に名前を呼ぶなんてズルすぎる。 「前回のヒートのあとに検診もしたし、次もまだ来ないから……」 「だめだ」 「ねえ、お願い……」僕はもう一度峡さんの視線をつかまえようとした。「峡さん、好きです……好き……――あ……!!」  指が抜かれる感触があったと思うと、熱い怒張が割れ目に押しあてられた。腰を抱えられるようにして太い先端が入ってくる。熱くてきつい。僕は息を吐く。ためらう気配のあとに押しあてられたものが離れた。 「待って」  ガチャっと浴室のドアが開き、外の涼しい風が肌を撫でた。僕は眼をとじたまま壁に顔をおしつけ、前髪に流しっぱなしのシャワーを感じている。またドアが閉まる。背中に峡さんの体重がかかり、指が割れ目の奥をたどる。  ぬめりのある液体を感じてあ、と思うまもなく怒張が入り口を押し広げた。さっきよりも楽だ。最初の狭い輪を越えると広げられた僕の内側はするすると峡さんを呑みこむ。大きい――ピンクのローターが僕の頭に浮かんだ。あんなの、くらべものにならない。それがゆっくりと動き、先端が正確に――あまりにも正確にある場所を擦って、とたんに僕の頭の内側で、白い火花が散った。 「あ、ああんっ、ああ―――」 「朋晴」  峡さんの手が僕自身を根元からしごき、敏感な先端に触れる。達した瞬間も僕の中をいっぱいにした怒張はそのままで、手で体を支えるのが精いっぱいだ。解放感も束の間、さらに深く中をうがたれて僕はあえいだ。気持ちよくて喉の奥から変な声が出るが、足ががくがくする。  どのくらいその姿勢のままだったのか、峡さんが荒い息をついたと思うと中の感触がするりと消えた。僕は眼を閉じたままで、一瞬崩れるかと思ったところを抱えられる。正面からぎゅっと抱きしめられ、シャワーの湯と手のひらが優しく頭を撫でる。僕は顔をあげ、眼を閉じたままキスを探した。こたえるように峡さんの唇が重なってくる。  抱きしめられながら僕は気づいた。僕自身は一度満足してせいぜい半勃ちというところだけど、そこへ触れる峡さんのそれはまだまだ…… 「峡さん、」 「上がろう」  絶え間なく続いていた水音が消えた。峡さんがシャワーを止めたのだ。どこからともなくあらわれたバスタオルに髪をくしゃくしゃにされ、首から背中の水滴を拭われる。手を引かれるように連れていかれた先は寝室で、僕はたちまちさらりとしたベッドカバーに押し倒され、正面からキスを受けていた。  脚を曲げて峡さんを受け入れるのはたやすかった。さっきとちがう角度で中を擦られて、また頭の芯が真っ白になる。 「あああああああ!」  レースのカーテンが下がった窓から夕方の光が入ってくる。シャワーとガラス越しの熱でひたいから汗がたれた。峡さんの唇がしずくを追い、僕の瞼のすぐ上を舐める。指がもみあげをさぐり、耳の裏をなぞる。そうしながらも立て続けに中を責められて、一度はおさまったはずの僕自身は汗とはちがうしずくをこぼしている。 「峡さん……峡さ……んっあん」 「ん?」 「いっ……」  その先は声にならなかったし、そうでなければ馬鹿なことをいってしまうところだった。峡さんの眉が寄り、瞼が閉じられる。彼の腕が僕の脚を抱え、何度か激しく打ちつけられた。全身がふわりと投げ出されるような快感が襲ってきて、僕はあえなく屈服した。そのままあっけなく意識を手放したのだ。  目覚めると窓の外は暗かった。  僕は午後ここへ来たんじゃなかったっけ……?  タオルケットをはねのけて起き上がる。寝ていたのはさらっとしたシーツの上だった。扉はほぼ開いていて、キッチンの方から水音が聞こえる。部屋にあるのはベッドのほかには箪笥と小さな棚、クロゼット。ナイトスタンドのスイッチが入っている。僕は積まれた文庫本のタイトルを読む。探偵小説だ。  部屋を照らすのはスタンドの灯りだけで、薄暗かった。箪笥の上に写真立てがいくつか並んでいる。僕はタオルケットをマントのように体にまきつけた格好で(何しろ素っ裸だったのだ。もっとも眠る前の行為の痕跡は、とりあえずはいくつかのキスマークしか見当たらなかった)写真を眺めた。  あきらかに子供の頃の佐枝さんとわかる男の子が若い(二十歳くらいだろうか?)峡さんの隣にいて、反対側に彼の両親だろうか、感じのいい笑顔を浮かべた夫婦と一緒に映っているもの。品のいい銀髪の老人の写真。別の写真には芝生の上に白衣を着た男女が六人並んでいる。右から二番目にいるのが二十代の峡さんだろうか? きっとそうだ。  その写真の表面が不自然にふくらんでいて、不審に思った僕は手をのばした。上から白くはみだしていたのは、表の写真にぴったり重なった別の写真の縁らしい。裏側にもう一枚あるのだ。 「起きた?」  突然峡さんの声が聞こえ、僕はうしろめたいことでもしていたかのようにびくっとした。 「これ、学生の頃の峡さん?」  僕は写真立てを指さす。峡さんはちらっとそちらを見ただけだ。 「悪友どもだよ。いまは年に一度年賀状をやり取りするくらいで、数年おきに同窓会で会ったり会わなかったり……」話しながら棚を指さして「服はそこに置いたから」という。 「晩飯を食べようか。そのあとで送ろう」  畳まれた服の一番上で、腕時計の薔薇の留め金がスタンドの灯りにきらりと光った。

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