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20.透明な定規
「三波、大丈夫?」
「ん?」
僕はフォークを持った手を皿の上で宙ぶらりんにしていたことに気づいて、あわてて下ろした。
「どうしたの? 心ここにあらず、って感じじゃない」
ハウス・デュマーの中庭を囲むカフェは「デザートの店」としては僕が知るうちでいちばん高級で、それに見合うだけ美味しい。城館を連想させるどっしりした外観、絨毯だの壁紙だの、高級感はあるが凝りすぎない内装、テーブルには白と臙脂色のクロスが重ねてあって、ナプキンは花の形に畳まれている。
そもそもデュマーというハウスが高級なのだ。ここはそのへんの庶民のハウスと違って紹介制だし、ID登録も手間がかかる。そのかわり名族のアルファがたくさん落ちているともっぱらの噂だ(オメガの下世話な噂話はダンジョンの攻略法に似ている)。ここのIDは名族の玉の輿を狙う一部のオメガにとっては一種のステータスらしい。僕は藤野谷さんの紹介でIDを作ったが、彼と来たのは二回だけだった。その後も鷹尾に誘われた時以外は足を踏み入れていない。
そう、鷹尾もここのIDを持っているのだ。AIエージェントやカフェの給仕(ウエイターではなく給仕という雰囲気なのである、わかってほしい)と話す様子や、椅子を引かれたときの所作も慣れたもので(僕は何度経験しても慣れない。なんといっても下町出身のこちらは、椅子を引いてくれるようなレストランにそれほど頻繁に行かない)彼女はきっと本物のお嬢様なんだろうなあ……とたまに思うのだが、詳しく聞いたことはない。
このカフェはランチとディナーの間にアフタヌーンティを出す。九月になってメニューが変わったから行きましょう、と鷹尾に誘われたのは今日の朝だった。
今週の僕はどうも調子が出ず、体調が悪いというわけでもないのに集中が途切れがちだった。月曜火曜とあやうい失敗をしそうになったり、単純だが重要なことを忘れていたりした。彼女は昨日の午後、すれちがった僕がそれをこぼしたのを覚えていたのかもしれないし、単に恒例行事を思い出したのかもしれない(鷹尾とのデザートの食べ歩き歴は長いのだ)。ともあれ新作デザートへのお誘いを断る理由はなく、僕はふたつ返事で承知した。
――で、承知したのにこの有様である。
「失敗を気に病むなんて三波らしくないじゃない?」
「ん? いや。そんなことないよ」
「じゃあ本当に調子悪いの? あれが近い?」
「いや?」僕は頭の中で計算した。ヒートは……
「二週間くらい先のはずなんだけど。ちょっと疲れているのかも」
「あら。三波が疲れるようなことって何」
僕は首を振ってフォークに刺したプチタルトを頬張る。
「たいしたことじゃないよ」
本当は「たいしたことじゃない」なんてものではなかった。だけど、日曜の峡さんとの時間を思い浮かべてむずむずしていたなんて鷹尾にいえるはずがない。
しかし少なくとも月曜は(会社ですら)そうだったのだ。火曜はさすがに落ちついたのだが、頭の奥がすこしぼうっとしていた。たしかにヒートの前兆に似ていなくもないが、早すぎる。季節の変わり目だし、風邪でもひきかけているのかもしれない。
頬張ったタルトはサクサクの皮とこくのある甘いフィリングが絶妙だ。その甘さに日曜の峡さんを連想して、僕は意識して顔をひきしめる。なのに背中から足先まで疼くような感覚を思い出してしまう。ひとりで盛り上がっても仕方ないのに!
日曜に彼のマンションに行ってわかったことがある。僕が恐れていたのと真逆で、峡さんは男――オメガとのセックスには抵抗がないだけでなく、あきらかに慣れていた。もちろんあの年齢なんだから、そうであっても不思議はない。佐枝さんはここ何年かは恋人もいなかったというけど、その前はきっと……
胸にツキンと痛みのようなものを感じた。僕はフォークを置く。そりゃそうだ。いたにきまってる。だって彼の抱き方はすごく……すごく丁寧で、長くて……よく知ってて……
きっとこれまでもあんな風に誰かを抱いてきたにきまってる。それに、僕は何度もいかされたのに峡さんはなかなか達しなかった。大丈夫だったんだろうか。僕は……僕はすごく良かったけど、峡さんはそんなに……
「三波。ほら、飛ばないで。戻ってきて」
鷹尾の声に僕は我に返った。
「やっぱり調子悪いんじゃない? 三波の口数が少ないと私の調子も狂うんだから」
鷹尾の口調は慰めているのだか楽しんでいるのだかわからない様子だったので、僕は「なんだよ、それ」と返した。
「だって三波が話してくれるから、私が楽できるんじゃない」
「そんなもの?」
「悩みがあるなら特別サービスで聞いてあげる」
さすが鷹尾大観音、それとも鷹尾大明神だ。ふと僕は思い出した。
「悩み――ってほどのものじゃないけど」と切り出す。「昔の友達から電話が来るんだ」
「それが問題なの?」
「幼馴染みたいなもんだけど、昔ちょっと色々あってあまり関わらなくなっていたのが、例の報道で僕のことを思い出したらしくてさ。最近また僕をかまってくるようになって」
「アルファ?」
うなずくと鷹尾は「モテるじゃない」と冗談めかした口調でいったが、顔つきにふざけた様子はなかった。
「そのアルファの子、アプローチしてくるの?」
「いや。また昔のように楽しくやろうぜって感じなんだけど」
そう、秀哉はまた電話をかけてきたのだった。日曜の夜も、寝る前に峡さんにメッセージを送った直後にモバイルが鳴った。出なければよかったのだ。なのに僕は出てしまった。峡さんと過ごした午後のおかげでくたびれて、同時にふわっとした幸福な気分だったせいだろうか。その気分は秀哉にも伝わったらしい。
『ご機嫌だな。いいことでもあったのか?』
「べつに」
『今の相手とうまくいってる?』
僕は思わずにやけてしまったが、口では「ほっとけよ」といった。
「秀哉はどうなのさ。ここ何日か電話が多いけど、僕で暇をつぶすなよ」
『暇をつぶしているわけじゃない』秀哉の声はすこしくぐもって聞き取りにくかった。『……また、昔のようになりたいんだ。楽しかったよな』
「やけに感傷的だな。おじさん元気? おばさんも」
『両親はあいかわらずだ。妹は今度結婚する』
「へえ。それはおめでとう。おまえの妹ってオメガだったよね」
『ああ。もと同級生のアルファとつがいになったんだ。覚えているか? 妹がジャングルジムから降りられなくなったときに、ひとりで登っていった小さいの』
「ああ」
僕は青いジャングルジムを思い浮かべた。昔の実家は都会のど真ん中にあって、ブランコとジャングルジムとすべり台が三種の神器のようにならぶ公園でよく遊んだのだ。もっとも公園で遊んでいたのは小学生の頃だから、秀哉の話もその頃のことだ。
彼の妹はたしか三歳くらい離れていた。勇ましい性格の女の子で、兄が止めるのも聞かずどんどんジャングルジムを登っていったのだ。秀哉はしまいに腹を立て、僕と昌行と遊びはじめ、じき妹のことを忘れてしまった。てっぺんから降りられなくなって泣きべそをかいた彼女を迎えにいったのは、彼女と同じくらい小柄な男の子だった。
『なんと就職先で再会したらしい』と秀哉がいう。
「マンガみたいだね。良かったじゃないか」
『ああ。そうだな』
秀哉はすこし黙って、それから突然『あれ、楽しかったよな。中学三年の元旦』といった。
『覚えているか? みんなで自転車で海まで行っただろう。初日の出を見に』
「そうだね」
僕は小さくあくびをした。今日は盛りだくさんの一日だったし、眠気が忍び寄っていたので、話の内容にはあまり注意を払っていなかった。
記憶の底に海へのびる広い道路が浮かび上がる。その先に海があるのはわかっているが、どのくらいの距離なのかは誰もしらない。自転車をこぐ息が白く凍るし、横を走る昌行と秀哉も前から吹く風で耳が真っ赤だ。日の出がいつなのかも誰もしらなかった。
「海に行けば見えるんじゃないかって、時間もたしかめずに出たんだよな」
『時間どころか地図もなかった』
「うっすら明るい方向が東だろうとか、適当なことをいってさ。途中でパンクしたの、昌行のタイヤだったっけ?」
『交代で押したよな。腹は減るし、ひどかった』
「誰だよ、あんなひどいこと考えたの」
『バカ』秀哉はふふっと笑った。『おまえだよ。朋晴』
彼はまた何かいったが、ふたたびあくびに襲われた僕はよく聞いていなかった。
「秀哉、眠いんだ。もう寝る」
『そうか。じゃあまた』
「――その友達がどうしたの?」
鷹尾がたずねた。僕はまたすこしぼうっとしていたようだ。この感じはやはりヒートの前兆だろうか。
「あのさ、子供の頃から仲が良かったやつとずっと親しくいられるとは限らないよね?」
「そのアルファの子とつきあってたことあるの?」
「いいや。それに向こうは僕にその気はないと知ってる。単に友達でいるのはかまわないんだけど、僕はそれどころじゃなくてさ。だから鬱陶しいのかも」
「ふうん。なるほどね」
鷹尾は僕の話をどこまで真剣に聞いていたのか、にっこり笑ってせりふをくりかえした。
「『僕はそれどころじゃない』って」
「なに?」
「私としてはそっちのほうのお悩みを聞きたいんだけどなあ。ジャマーを撃退してからどうなったのか」
「やだよ」
「すこしくらい教えても減らないわよ」
「減るよ! 減りますから!」
首を振って抵抗すると、鷹尾はくつろいだ猫のような眼つきで眺めた。ネズミのオモチャでどう遊ぼうかと考えているみたいだった。
ハウス・デュマーでは、施設に入った時にコミュニケーションタグを渡される。これで建物を管理するAIエージェントと連絡が取れるし、会計もここに記録され、決済はすべて後だ。現金は不要だし割り勘も可能。そしてカフェの優雅なケーキは無事に僕らのお腹におさまった。
何度も鷹尾に大丈夫かと聞かれ、そのたびに大丈夫と答えただけあって、その日僕はやはりふだんの体調ではなかったのだろう。カフェの外に出ても、デュマーの空調は完璧なのに皮膚が火照るし、意味もなくそわそわしていた。だから仕事でもポカミスが多かったのだ。
鷹尾が化粧室に行っているあいだ、僕もトイレの洗面台で肘まで手を洗った。ついでに顔にも水をかけて首に垂れたしずくをぬぐう。広げたシャツの襟もとにぽつんと斑点が浮かんでいた。鎖骨の上あたりに峡さんがつけたキスマークがあるのだ。
彼のキス……ここに……背中から肩にも……熱い舌が這って……
トイレの方で物音が鳴った。
僕はあわてて襟のボタンをとめた。鏡をみつめてぼうっとするなんて、童話の王妃さまじゃあるまいし。デュマーのタグを手首に戻すと急ぎ足で外に出た。
やっぱりヒートだ。でも早すぎる。
鷹尾と別れて無事アパートに帰りつく間は、ぼんやりしているだけですんだ。会社帰りの遅いアフタヌーンティにはスコーンやサンドイッチもついているからお腹もいっぱい。代金は相応だが、美味い食べ物に払うのなら文句はない。
しかし今の僕は体温計をみながらためいきをついている。ヒートの期間が心理的な要因で前後するのは常識だし、このごろの僕の「心理」ときたら上がり下がりが稲妻状態だから、多少早まってもおかしくはないのだが。
ひとつ気になることがあった。ハウス・デュマーからの帰り道、僕は薬局で検査薬を買った。
試験紙に唾液をのせる。薬を垂らして、三分待つ。
ベッドの上で横になり、僕はしばらく息をとめていた。タイマーの音が鳴った時は跳ねあがりそうになる。幸いにというか当然というか、試験紙の色は変わらなかった。
もちろんそうでなくちゃいけない。男のオメガに妊娠可能性があるのはヒートのあいだだけなのだ。でもいま来るなら万が一ということもある。第一……峡さんに、大丈夫だからナマで入れてなんて懇願したのは僕だ。
ああ――あんなこといっちゃったんだよなもう!! 馬鹿! 馬鹿三波!
僕は思わずベッドの上で足をばたつかせる。峡さんはあのときは――あのときは引かなかったけど、でも後になって思い出して、僕がそんなこといっちゃう人間だと警戒しなかっただろうか。彼はすごく……すごく抱くのに慣れていたけど、オメガのヒートをどう思ってるのかはわからない。
ベータ男性には、オメガ男性のヒートに生理的な嫌悪を抱く人がそれなりの割合でいるという。アルファにはそんなことはまずない。オメガのヒートこそが彼らの|発情《ラット》を誘発するのだから。でもベータの場合はちがう。
僕は思い返した。そういえば峡さんに抱かれていたとき、首のうしろ、うなじのあたりがムズムズする感じが全然起きなかった。どんなにセックスが下手くそなアルファでも、そこがオメガの弱点だと知っている。アルファに対してだけ反応する弱点。
けれど峡さんは僕の背中を噛んだ。
月曜の朝、シャワーを浴びた後にアパートの洗面台で首をねじって背中をみたときの驚きは忘れられない。いたるところに痕があって……赤や紫の花が咲いたように、肩の骨のあたりから腰まで、彼の舌が這ったところ……
ぞくっと背筋に寒気が走った。それが甘いしびれに変わる。うわぁ、本当にヒートだ。しかもこれはひょっとすると、けっこうキツイ――かもしれない。
僕はモバイルを取った。至急で休暇の申請をする。まだ今週は二日も残っているが、仕方ない。ヒートのまま出勤するわけにはいかないのだ。アルファがいる場所にいけば何が起きるかわからない。来週になれば終わっているだろう。
鷹尾にも「ヒートが早くきちゃったよ」とメッセージを送り、子グマがふざけているスタンプを追伸で流した。冷静なうちに連絡ができてよかった、そんなことを考えるあいだも熱のこもった眠気がおちてくる。
嫌だな、と思う。こんなに急なヒートなんて何年ぶりだろう。それでも眠れるなら悪くない。いや、眠れるなら寝てしまおう。寝てやりすごせるなら……。
もぞもぞとシャツを脱ぎ、スラックスをベッドの下に落として、僕はタオルケットの下にもぐりこんだ。ぼやけた頭のすみに最後に浮かんだのは、峡さんに連絡しないと、という考えだった。ヒートのあいだ……どうしよう、峡さんに会えたら……でも……
ふわっとした熱い霞に囚われるような気がした。最後まで考えを追えないまま、僕はいつのまにか眠りにおちた。
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