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22.まばたきの音

 ハウス・デュマーの外観は僕が知っている他のハウスには似ていない。外国の別荘や城館といった言葉が似合う雰囲気で、大きな看板があるわけでもない。入口には慎ましくドアマンが立っている。  受付に用意されていた腕時計を僕はジャケットの内ポケットへしまった。またデュマーのタグと間違えたら嫌だったからだ。予約した個室に入るとほっとした。パジャマが用意されていたのでありがたく着替える。さっそく来てもらった医師は母を思わせる年配の女の人だった。 「いつもはこんな風にはならないんですね?」  他に持病はないか、ヒートの間隔はどのくらいか、苛々するか、といった質問を受ける。ヒートで医者にかかるなんて数年ぶりのことだ。医師は部屋に持ちこんだ機械で簡易的な検査をすませ、やっと緩和剤を出してくれた。僕は銀色のアンプルをみつめた。 「これまで軽くてすんでいたなら、一度も使ったことはないかしら?」 「一度だけありますけど、何年も前で……たしか、二回目か三回目のヒートの時です」 「きっとまだ安定していなかったのね」  銀色の針がちくっと肌を刺す。でも頭はぼうっとしているし、体の内部からじくじくするような感覚に気を取られ、痛いとも思わなかった。 「効き目には個人差があります。体調にも左右されるから睡眠と食事をきちんと取ってください。それから薬は症状を和らげるだけで、ヒートを終わらせてしまうわけではありませんよ。落ちついたと思っても、いつもの軽いヒートと同じ状態だと考えて」  医師は励ますように軽く微笑んで部屋を出て行った。僕はベッドに横になり、モバイルをサイドテーブルに放り出してルームサービスの紙を眺めた。やはりお値段は相当だ。でも飲み物は冷蔵庫に入っているし(ミネラルウォーターはサービスらしい)サンドイッチかピザを取っても罰は当たらないんじゃないか。そんなことを考えているうちに眠くなった。  きっと薬が効いたのだろう。夢も見ずにぐっすり眠って、目覚めると夕方だった。半日寝ていたのだ。  シャワーを浴びて着替え、調子が戻ってくると、いくらヒートだとはいえ、せっかくの平日休暇を浪費しているような気がした。今度こそピザをルームサービスで取り(宅配ピザのたぐいを想像していたら、イタリアの窯から出しました、といった雰囲気のものがワゴンで運ばれてきて反応に困った)テレビを見ながらチーズとアンチョビを堪能する。  館内設備を説明するパンフレットを眺めていると気力と一緒に好奇心も戻ってきた。鷹尾と何度か行ったカフェの隣にレストラン(ここはひとりで入るのはきつそうだ)以前藤野谷さんと来たときにちらっと見物したオーディオルーム。シアタールームは小型貸切映画館といった感じだろうか? そしてバーにダンスフロア。  踊るほどの余裕はなくても音楽を聴きたくなった。バーはダンスフロアの上にあったはずだ。吹き抜けから見下ろすようになっていなかったっけ?  僕は腕時計をはめて自分の服装をチェックした。朝がフラフラだったから、手近にあったものを着ただけでろくな服装ではないけれど、まぁいいだろう。誰と会うわけでもないのだ。一杯飲んだら車を出してもらって、帰ればいい。僕はすっかり忘れていたのだ。デュマーの医者が「薬はヒートを終わらせてしまうわけではない」と注意したことや、アルコールで緩和剤の効き目が薄れてしまうことを。  バーカウンターの横には花ではなく鮮やかな緑の葉のグラデーションが飾られていた。すらりと剣のように立つ葉、丸葉の蔓が絡まる切り株のオブジェ。注文を聞かれて僕は迷った。こんな高級なハウスのバーで、いつものビールももったいない。ダイキリを頼んでダンスフロアが見下ろせるソファに陣取った。  バーにもダンスフロアにも人影はほとんどいない。久しぶりに飲むカクテルはひんやりと甘く、するりと喉を下っていく。頭の底でチリチリと波立っていた苛立ちも薄れた。僕は眼をとじてため息をつく。 「朋晴」  名前を呼ばれたのはその時だった。座ったまま見上げた僕には、逆光になった人の顔がよく見えなかった。眼をこすってもう一度みた。 「――秀哉」  高校のグラウンドを囲むフェンスの隅に、誰かが切って広げたように丸い穴が開いている。 「あそこから猫が入ってくるんだ」と秀哉はいう。 「すごく可愛いんだけど、慣れてくれない」 「ふうん」  僕はうなずきながら、肩に触れるほど近く寄ろうとする秀哉からさりげなく、注意深く半歩離れる。同時にそんなことを気にする自分にいささかうんざりする。そんなことを気にしなければならないこの状況にもだ。秀哉は僕のこのささいな仕草に気づいているのだろうか。  もしかしたらまったく気づいていないのかもしれない。猫が可愛いなんてほざいているが、秀哉にはひなたでくつろいでいる大型の獣のような雰囲気がある。彼の自信や気前のいい雰囲気はのんびりした獣の鈍感さの裏返しで、そこが周囲に慕われるポイントでもあった。この一年でまた背が伸び、肩幅も広くなって、ますますアルファらしくなっている。  三年になって部活を引退しても、体がなまるのが嫌だといって、昌行と一緒にトレーニングしているはずだ。昌行もよく秀哉につきあうものだと僕は思う。彼も秀哉と同じように小学生からの腐れ縁なのだが、高校に入ってから秀哉の「副官」という雰囲気が強くなった。秀哉と息が合っているのか合わせているのか、部活でも副将だったし、試験勉強でも参謀のように戦略を練ったりする。そのくせときおり対抗するように秀哉と張り合ったりもした。  ふたりとも折に触れて後輩や同学年に告白だってされているだろうが、今は誰とも付き合っていない。僕は僕で、恋だなんだとかしましい早熟なオメガの子をしらけて眺めているところがある。もちろん最初のヒートの経験は強烈だったが、恋だとか好きだとかいうのはひどく遠いところにあった。  自分の体と自分の気持ちは別々の場所にあって、うまく重ならないようなのだ。自分のことすらまだよくわからないのに、人のことまでかまっていられるはずもない。  けれど僕ら三人をよく知らない連中は、僕と秀哉が「ペア」だと思っているふしがあった。聞かれればすぐにちがうと答えるのに。 「なあ」と秀哉がいう。「いいかげん教えてくれてもいいんじゃないか」 「何」 「朋晴の進路。北斗にもいってないだろ」 「シャイなんだよ」僕は冗談めかしていう。 「どこがシャイだよ」秀哉は笑う。 「で、どこ?」  彼が期待している回答を僕は知っているが、僕の口から出る言葉はまったくちがうものだ。 「国立の……」僕は学部名を答える。 「面白い教授がいるらしい。千歳がずっと前に教えてくれたんだ」  秀哉の足が一瞬とまる。並んで歩いていた僕は彼より一歩前に出て、立ち止まろうか、どうしようかと迷った。フェンスは僕らの横にずっと続いている。地面には夏の草が枯れてそのままになっていて、わびしい感じがする。でもグラウンドのおかげでこのあたりの空は高くて、だから僕はこの道が好きだった。 「国立か」と秀哉はいう。「全然、違うんだな。方向も……」 「秀哉はあそこだろ」僕は彼の父も通ったという名門私立大の名をあげる。「うちじゃ私大はきついよ」 「そんなの」  秀哉は何かいいかけてやめた。 「朋晴。話があるんだけど」 「何?」  僕はフェンスの横を歩きつづける。秀哉はまた僕の肩に触れるほど近くに寄せてくる。うかつにフェンス側を歩いたのを僕は後悔する。これ以上彼を避けられない。 「何度もいおうと思っていたんだ」 「だから何」  秀哉は僕の腕をひいた。僕らはフェンスの横に立ちどまる。 「おまえが好きだ。卒業したら――俺とつきあって、つがいになってほしい」  秀哉の体が僕の方に迫ってくる。フェンスが僕のうしろにある。唐突に恐怖がわきあがる。彼にこのままのしかかられたら僕は抵抗できないだろう。秀哉は立っているだけだ。でも彼の、アルファの体躯や匂いが僕を圧倒する。  僕は首をふる。 「ごめん」 「朋晴、俺は本気でいってるんだ。ずっとそう思っていた。だから……」 「おまえのことは好きだよ。小学生のころからずっと仲がいい友達なんて、あとは昌行だけだ。大事な友達だと思ってる。でもこれは……違う」 「でも……試しにつきあってみるとか、そんなことも駄目なのか? 誰か好きなやつがいるとか?」 「そんなことじゃないんだ」  僕は自分のいいたいことをなんとか言葉にできないかと考える。 「秀哉はずっと――ずっと友達じゃないか。僕が目立たないただのチビのころから。僕の外見がどうとか、そんなことは関係なくずっと友達だっただろう? 考えられないよ。つがいなんて」 「でも朋晴はオメガだし、俺は」  だからなんだ。急に大声で叫びたくなる気持ちがわきあがって、僕はこらえた。秀哉にはどうしてわからないんだろう? 自分がアルファで僕がオメガだから、僕らはつきあうべきだというのか? つがいになるべきだって? そんな馬鹿なことがあるもんか。  フェンスにスニーカーの踵が当たった。秀哉が僕の方へにじり寄ったせいだ。 「あのなあ、秀哉。僕はおまえが中学の時に夢中だった子のことをいまだに覚えてるよ。僕と昌行にいろいろごたくを並べたのもさ。僕なんかおまえの眼中にもなかっただろう?」 「朋晴」 「いくら僕がオメガ性らしくなったからって、そんな――」  息がとまりそうになった。秀哉の両手が僕をフェンスに押しつけたからだ。 「朋晴」  鞄が地面に落ちる音が鈍く響く。 「離せよ。やめろって」 「俺がどれだけおまえを守ろうとしてきたか、気づいていなかったとはいわせない」 「秀哉」 「みんな――アルファはみんなおまえを見ていたんだ。おまえを狙って――あわよくばって――俺がそんな奴らをどうやって」 「あのな、秀哉。ふざけんな!」  我慢の限界だった。至近距離にある秀哉の顔を手で押しやって、僕は怒鳴った。 「だったらなんなんだ。僕がそんなこといつ頼んだ? ああ、僕は守られていたさ。そんなことは知ってる。でもそれはおまえじゃない。僕を守ってくれたのは僕の家族だ。おまえみたいな勘違い野郎からな!」 「朋晴」 「アルファは僕を見ているさ。。おまえだってそうだ。僕がオメガじゃなかったら、ヒートが来て変わらなかったら、僕なんてただの友達だったんだ。そうだろう? でも僕はおまえが――」  うかつにも鼻の奥がつんとした。熱いものがこみあげてくる。 「」  僕の剣幕にひるんだのか、腕をおさえる秀哉の力が一瞬ゆるんだ。ここぞとばかりに僕は膝を蹴った。格闘ごっこは昔はよくやったものだ。昌行と秀哉はいまだにトレーニングのあいだの遊びとしてこんなことをやっているのかもしれない。  不意を打たれたせいだろう、秀哉の体が揺らぎ、僕はそのすきにフェンスのそばから走り出る。鞄を拾い、そのまま走っていく。走りながら、もうこの道は通れない、という言葉が頭の中をよぎっていく。秀哉と並んでここを歩くなんてもう無理だ。この先もずっと。  帰ってたまたま家にいた千歳に「どうしたんだ」と聞かれたのは覚えているが、なんと返したかは覚えていない。夜になって昌行から電話があった。このときも奇妙なことに、僕は何を話したのかさっぱり覚えていないが、たぶん秀哉のことを相談したのだろう。昌行なら秀哉についてよくわかっているし(少なくとも当時の僕はそう思っていた)ベストな解決方法というか、調停方法をみつけてくれると思ったのだ。  そして翌日、僕と秀哉は仲直りした。けれどあの道を彼とふたりで歩いて帰ることは二度となかった。  秀哉と最後に会ったのはいつだっただろう。電話やメールのやりとりはたまにして、大学四年間のあいだに何度か会った。大学を出て数年。声はモバイルごしに聞いていたし、顔つきはそれほど変わったようには見えない。 「こんなところで会うなんて」  ボタンダウンシャツにスラックス、片手にはグラス。僕の方へかがみこんだ彼の首筋からふわりと香りが漂った。シトラスとアンバーのコンビネーション、それと――僕はぞくっと背筋がふるえるのを感じた。  アルファの匂い。 「リラックスのためにね、ちょっと飲んでいたところ」  僕は冷静な口調を保とうと努力した。リラックスと口ではいったものの、急に出くわしたアルファの幼馴染のおかげで、さっきまで感じていたそれが一気にどこかへ飛び去ってしまったのだ。 「ひとりなのか? 待ち合わせ」 「ひとりだよ。じきに帰るけど」 「横、いいか? デュマーにはよく来る?」  僕は首を振ったが、秀哉はすばやくソファの隣にすべりこんだ。記憶よりも堂々として、ちゃんと社会人をやっていますという雰囲気だ。彼の重みでソファが下がる。また匂いが漂ってくる。さっきよりずっと近い。 「いつもは友達とカフェに来るだけだよ。今日はたまたまだ」 「すごい偶然だな。今日、来ることにしてよかった。まさか朋晴とここで会うとは。元気?」  僕は苦笑した。 「前に電話でもいっただろう。元気だよ」  秀哉はグラスをテーブルに置く。 「変わらないな、朋晴。あいかわらず――」  そこで言葉を切って黙るので、僕は先をつなげた。 「あいかわらず何? おまえも変わってないよ。社会人らしくなったけど」 「なんといっても宮仕え中だからな」  そのまましばらく当たり障りのない世間話をした。会社勤めがどんな感じか、上司や同僚について、高校の頃の同級生の消息について。僕は不思議な気分だった。デュマーのバーのシャンデリアの下で、秀哉と顔をつきあわせてこんな話をしているのは妙に非現実的だったのだ。久しぶりに会えたのは嬉しかった。でも昌行との一件もある。  だんだん話に倦んできて、空のグラスの縁をぽんぽん叩いたときだった。秀哉がいった。 「で、今日はどうしたの? 今のその――朋晴の相手」  僕は首を振った。カクテルのアルコールが回って、体がすこしだるかった。さっきから皮膚の表面が火照っているようだ。 「今日はたまたまここ(デュマー)で休んでいたんだ。もう僕は帰るよ」 「嘘だろう」鋭い声がいった。 「ヒートのパートナーをハウスにひとりにしておくなんて、あるはずない」  ひやりとして僕は隣をみる。秀哉はにこりともしていない。 「朋晴、相手がいるなんて嘘なんじゃないか? 俺が――」 「嘘じゃない」僕はイライラとつぶやいた。「嘘なんかついてどうするんだ。いるよ。好きな人は」 「それならどうして――」 「彼はベータなんだ。ここには来れない」  深く考えてのことではなかった。峡さんについて秀哉に話すつもりは一ミリもなかったからだ。うっかり漏れた言葉を後悔して僕はソファを立とうとした。とたんに体がふらついた。たったカクテル一杯なのに、これはヒートの作用のせいなのか。 「ベータだって?」  秀哉がつぶやいた。 「北斗がいった通り――」  思いがけない名前に僕はまた腰をおろし、口をはさんだ。 「昌行が何かいったのか?」 「ああ」 「おまえ、昌行のことで僕にいろいろいってたくせに、あいつと話していたのか?」 「つい最近あっちから連絡があったんだ。もちろん俺は最初は怒ったさ。例の雑誌の話とか――だけどおまえの話になって……あいつがいろいろ」  僕は腕を上げて秀哉をさえぎった。 「今日は?」自分でも止められないほどの詰問口調になっていた。「今日おまえがここにいるのは偶然?」  秀哉は僕をまじまじとみつめた。 「当たり前だろう。俺はこのバーにはよく来るんだ。それより朋晴、相手がベータっていうのは」 「そんなの僕の勝手だろう」 「どうしてベータなんだ?」  僕はまた立ち上がろうとした。今度はふらつかなかった。なのに肘を秀哉にがっつりつかまえられている。彼は繰り返した。 「どうしてベータなんだ?」  僕は秀哉の手を振り払おうと肩をねじった。 「僕が好きなんだ。それ以外に理由がいるか?」 「例の週刊誌に出ていた男」秀哉は僕を正面からみつめたままいう。「藤野谷家の、あの男ならまだわかる。あのアルファなら――でもベータだって?」 「悪いかよ」  僕は苛立ちを苦労して抑えていた。 「秀哉、離せ。おまえたいして飲んでもないのに酔ってるのか? 僕は帰る。おまえがいったとおりヒートなんだ。帰らないと」 「ヒートなのに、ベータの彼氏をおいてこんなところにいるわけだ」  秀哉は僕の話を聞いているのかいないのか、低い声でつぶやいている。自分の膝に抱えこもうとするかのように僕の腕を引く。僕は背中をそらせて彼を避けようとするのを無視してささやく。 「で、アルファの俺がここにいて? 笑わせるな。朋晴の匂いがするよ。オメガのおまえの……すごくいい匂いが」  彼の息は首筋からうなじに下がり、僕の背筋を泡立たせる。 「ベータの男にこの匂いがわかるのか? 俺を誘惑しているんじゃないのか? 知ってるくせに――俺がまだ朋晴を」  とっさに僕は体をひねった。秀哉は振り払われた腕を伸ばし、立ち上がって僕の両肩を抑えつけようとする。僕は後ろにとびすさった。テーブルがガチャンと音を立て、グラスが倒れた。秀哉は僕を威圧するように見下ろしている。これだからアルファのでかいやつというのは―― 「いい加減にしろ!」怒鳴った反動で声が裏返った。 「何度いったらわかるんだ。おまえがアルファだろうとベータだろうと変わらない。僕がオメガだからおまえを好きになるなんて馬鹿なことがあってたまるか! だいたい秀哉はわかってないんだ。おまえのことを好きだったのは昌行じゃないか! ずっと――おまえの横にいて、おまえのことを気にしていたのは」  秀哉は眼をまたたいた。 「なんだって?」  仲裁が入ったのはそのときだ。 「お客様、おやめください」  バーテンのうしろに無表情のベータの男がふたり、無表情なのに怖い顔で僕らをみつめている。ひとりが秀哉の方へ近寄り、自然な足どりで僕と彼のあいだに入った。 「このハウスではこういったふるまいはやめていただきます。アルファのそちらは――」バーテンは秀哉に眼をやった。「オメガの方にこんな接触をしないように。他にもお客様がいらっしゃいますから、退席していただけますか?」  後半のせりふは僕にいったのだった。僕はうなずいた。知らず知らずのうちに片手がもう一方の手首をさすって、腕時計の存在をたしかめていた。時計はちゃんとそこにあった。お守りのように僕は薔薇の留め金に触れる。 「申し訳ありませんでした。僕は帰ります」 「こちらへどうぞ」  僕はふりむかなかった。秀哉の方向を二度と見なかった。ほかのお客様がいるとバーテンはいったが、バーの客はまったく増えていない。もうひとりのベータの男におとなしくついていくと、レセプションの裏の小さな部屋へ通された。彼は水を出してくれ、一礼して出て行った。僕は小さな応接セットのソファにへたりこむように座った。 『大丈夫ですか? 落ちつくまで休んでいかれて大丈夫ですよ?』  ふいにスピーカーから声が聞こえる。コミュニケーションAIのサムだ。妙に人間臭い口調に僕は吹き出しそうになった。まだ興奮していたのだ。感情がうまくコントロールできないのは、秀哉を怒鳴りつけたばかりだから。秀哉がベータがどうのこうのとかいったから。僕があいつを誘惑しているとかなんとか――  僕は息を吸った。動転していたおかげでさっきは感じなかった怒りが、急にわきあがってくる。 「ありがとう。すぐに落ち着くから。帰ります」 『お車を手配いたしましょうか? それともご自分でお迎えを呼ばれますか?』  ハウス・デュマーは贅沢で至れり尽くせりでありがたい施設だ。僕は車を用意してもらって帰ればいい。帰って、アパートの一人の部屋で、残りのヒートをやり過ごせばいい。  みじめな気分が僕を包んだ。ヒートが問題なのだ。なんて面倒なんだろう。僕はこれまでこんな風に思ったことはなかった。いっそ素直に峡さんに会いたいといえばよかったのでは? でも峡さんはベータだから…… (ベータの男にこれがわかるのか?)  ポケットから取り出したモバイルを僕はしばらく眺めていた。迷いがあったのかなかったのか、どうしてその番号をタップしたのか、それでよかったのか。自分でも心もとなかった。  僕はすこし話がしたかっただけなのだ。僕とおなじオメガの誰かと。 『三波?』  ためらうようなコールのあとに声が聞こえた。優しくて、すこしぽやっとした雰囲気の声だ。 「佐枝さん」  僕はモバイルを耳に押しあて、つぶやいた。不覚にも眼の奥が熱くなる。 『どうしたの三波。電話なんて珍しいな』  柔らかく、すこしからかうような口調にどっと安堵があふれた。 「佐枝さん。すみません。僕――」 『三波? どうかしたの?』  止めるまもなく涙がこぼれおちた。喉がつまりそうになる。僕はどうにか声を押しだそうとして失敗した。「ちょっと――」 『大丈夫? 何かあった?』 「大丈夫なんですが……」僕はつばをのみこむ。しゃっくりが出そうになる。 「……すみません、大丈夫じゃないみたいで」 『おい、落ちつけよ。いまどこにいるんだ?』  まったくなんてざまだ、三波朋晴。僕はモバイルを握りしめたままうなだれた。 「ハウス・デュマーです。佐枝さん」

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