23 / 33

23.蜂蜜の蓋

 佐枝さんは僕の支離滅裂で混乱した話を黙って聞いてくれた。  支離滅裂だったのは、頭に浮かんだことから喋ったからだし、全部を話していないからだ。デュマーで昔の友人の秀哉と再会したこと。同じく友人だった昌行はいまでは僕を憎んでいること。僕が好きな人は本当に僕を求めているのか自信がないこと。ヒートがいつもよりつらくてどうしようもないこと。アルファの気配だけで体が勝手に反応すること――  とりとめない話を機関銃のように喋ったせいで息が切れた。隙を狙うかのように佐枝さんがいった。 『なあ、三波。いまは峡は一緒じゃないんだな?』  驚いて僕は沈黙した。 『三波、聞こえてる? デュマーにひとりでいるんだな? 峡は』 「どうして……峡さんが出てくるんですか」 『だって、三波の好きな人って、峡だろ? つきあってるんだろう?』  僕は佐枝さんに話したっけ? 頭がすっかり混乱しているのはヒートのせいだ。そういえば引越の日に、勘づかれてもしかたがないようなことは尋ねている。けれど「つきあっている」とはいわなかったはずだ。断じてそれはない。 「峡さんが話したんですか?」 『まさか』佐枝さんの声は真剣だった。 『峡は俺にそんな話はしない。自分の話なんかちっともしないんだ、昔から』 「じゃあ、どうして」 『そんなの』今度は笑いまじりだった。『なんとなくわかったよ。俺の引越の時は峡が三波を連れてきたしさ』  僕は思わずぶつぶついった。 「つきあうっていっても……最初は僕が頼んだんです。その――さっき話した昔の友人が――マスコミにリークしたやつが、ストーカーみたいになっていたから、もののはずみで」 『三波。峡はたしかに面倒見がいいけど、もののはずみでデートの相手を作るほどいい加減じゃないぞ』  ぴしゃりといわれて僕はひるむ。 「すみません」 『――あ、いや、そこでへこむなって。三波については峡も変だったからさ。すごくきれいな子だって連呼してたし、いくら俺の知り合いだからって、お返しを口実にプレゼント預けてくるし、あの時は三波も挙動不審だったし』 「どうせ僕はゾンビなみに挙動不審ですよ……」 『ゾンビはいいから、で、峡はそこにいないのか?』  どうして峡さんがここに?  足元がすっと冷えるような気がした。反対に胸の奥は熱くなって、また眼の奥から涙がもりあがる。僕はそんな自分自身にあきれた。 「佐枝さん。僕が峡さんとつきあってたって――ここに峡さんがいるわけないじゃないですか。あの人はベータだ。ベータだから……」 『ベータだから何?』 「僕がヒートになっても何にも影響されないし……峡さんには必要がない。ここはハウスなんですよ?」  ハウスはアルファとオメガが出会う場所だ。ベータはいつも埒外だ。空調の音が急に耳につきはじめた。モバイルの向こうが急に静かになったのだ。  と、前触れもなく佐枝さんはいった。 『三波、迎えに行くから』 「はい?」 『今はひとりでいちゃいけない。待っていろよ』 「え、いや」僕は焦った。「ちがうんです。僕はちょっと――ちょっと話がしたかっただけで。すみません、迷惑をかけるつもりじゃなくて、だからそんなこと」 『わかるよ』  佐枝さんの声はやさしかった。『俺も三波に慰められただろう?』  僕はこの人に何かしてあげたことがあったっけ?  またも混乱した僕の耳に入ってきたのはモバイルの向こう側の物音だった。カシャカシャと紙をまるめるような音が鳴り響いたあとで『サエ?』と呼ぶ声がきこえる。よく知っている声なのに妙に聞きなれない気がするのは、その響きがやたらと甘ったるいからだ。ふだんは威勢よく尖った声で命令ばかりしているくせに、今は蜜のように丸く甘い。 『ああ、ちょっと。三波から電話……』 『ん? 問題でも?』  藤野谷さん――ボスの声が繰り返す。僕は突然思い出した。この二人は休暇――実質的に新婚旅行の真っ最中じゃなかったか? 「佐枝さん!」僕はあわててモバイルに叫んだ。 「すみません。ほんとうにいいです。僕は大丈夫です。ごめんなさい、邪魔して。ボスにもそう」 『いいから!』  佐枝さんもモバイルの向こうで怒鳴っていた。 『とにかく三波、迎えは行くから。行くまで動くな』 「でも……」 『一度切る。またかける』  どうしよう。  僕はソファに膝をかかえて座りこんだ。体全体が熱くて、なのにふるえがのぼってきた。下肢の中心でじくじくする欲望で頭が霞む。僕は吐息をつき、両手で自分の胸を抱きしめた。緩和剤の作用はもう切れてしまったのだろうか。  欲望はいくら息を吐いてもおさまらない。怖くて自分で触れることもできない。触れてもこれが消えなかったら僕はいったいどうしたらいいんだろう? この部屋を出て誰かをさがすのか? この熱を消してくれるものを、誰だっていいから、とにかく今だけ―― 『お迎えが来ましたよ』  スピーカーからAIのサムの声が響いた。  僕はびくっとして体を起こした。どのくらい時間がたったのだろう? 僕は居眠りしていたのだろうか? 『おひとりで外へ出られますか? ああいや、そのご様子なら、迎えの方に入っていただいた方がいいでしょう』  AIのはずなのにやはり妙に人間臭い口調だ。ソファにうずくまったまま、霞のかかった頭で僕はそんなことを思う。そのせいか扉が開いたのに気づかなかった。呼ぶ声でやっと気づいた。 「朋晴」  僕は顔をあげた。峡さんがそこに立っていた。  まだ頭はぼうっとしていた。変だなぁと思った。どうして峡さんがここにいるんだろう?  モバイルが鳴った。はじかれたように意識が戻って、僕はあわてて電話を取った。手がふるえて画面をうまくタップできない。やっと成功したとたん、佐枝さんの声が聞こえてくる。 『三波、峡はそっちについたか?』 「佐枝さん」僕は何をたずねる準備も、答える準備もなかった。 「峡さん――は」 『三波。峡は対処法を知ってる。叔父の専門はオメガの生理現象だ。峡がいなかったら俺はヒートを乗り越えられなかった』  僕はなんと答えればいいのかわからなかった。ふいにふるえっぱなしの指が暖かい手のひらに包まれた。手のひらだけでなく、頭も、肩も。  峡さんはソファにうずくまった僕を抱きしめるようにして、静かにモバイルを取り上げた。 「零、俺だ。朋晴は連れて帰る。大丈夫だ」  パールグレーの車がデュマーの前につけてある。峡さんは片腕を僕に絡ませ、もう片腕で腰を抱くようにして助手席へ連れて行く。その間も僕はぶつぶついっていた。大丈夫ですからとか、ひとりで帰れますからとか。後者は大嘘だと自分でもわかっていた。下肢が熱くのぼせるようで、足元が定まらない。  峡さんは助手席に僕を座らせると、覆いかぶさるようにしてシートベルトを締めてくれた。彼の吐息――ため息のように聞こえた――が耳元から首筋に触れていく。背筋がふるえたが、アルファが近づいたときの独特の感覚は起きないし、峡さんは心配そうに眉をひそめて僕をみつめただけだ。  慰めるようにひたいに置かれた手がさらりと乾いて気持ちがよかった。熱が出た子どもを落ちつかせているような仕草だ。僕はなぜかがっかりした。峡さんは僕が無事座席におさまったとわかると、ドアをしめて運転席に回る。彼の手が離れたとたん、さらに落胆がおそってくる。もっと触ってほしかった。もっと強く抱きしめてほしい。あんな子どもを慰めるような感じでなく、もっと激しく――  胸の奥の欲求が形になったとたん、うしろが濡れた。股間も緊張しはじめている。車はどこへ向かっているんだろう。何か話さなければという切羽詰まった気持ちにかられ、僕は口をひらいた。 「すみません……忙しいのに。アパートまで送ってもらえればいいですから」  峡さんは僕をちらりとみて、信号に注意を戻した。 「いや」 「零さんの連絡を聞いて来てくれたんですよね? 僕は――僕は大丈夫なので、帰ります」 「だめだ。ひとりで置いておけない。俺のマンションに連れて行くから」  とたんにまたうしろが濡れたのがわかった。体が勝手に期待して、準備しているみたいに。  僕は助手席の窓の方を向いて息を吐いた。峡さんに知られたくない。なのに自然に頭が彼の方に近づこうとする。運転席でハンドルを握った峡さんの匂いを嗅ぎたくてたまらなかった。アルファの匂いじゃない、峡さんの匂い。これにもっと包まれたい。  欲求のおかげで息苦しいくらいだ。でも峡さんはそんな僕に気づいた様子はなく、落ちついてハンドルを切る。まだ夜中というには早い時刻で、帰宅の車が列をなしている。  車がとまり、動き出す。運転する峡さんのささいな動作のたびに、彼の匂いがふわっと流れた。僕は泣きたいような気持でいっぱいだった。彼はアルファじゃないのに、どうして僕はこんなにこの人が好きなんだろう? 腰をすこしずらしただけでシートまで濡れてしまいそうだ。  車の中はきっと自分の匂い――ヒートと欲情の匂いでいっぱいにちがいないし、峡さんがおかしくならないのはありがたいことにちがいない。彼はベータだから。アルファならこの車を運転なんてできっこない。彼はベータだから、僕がこんなになってもわからないし、何も知らない。僕が―― 「朋晴」  峡さんが呼んだ。 「はい」  反射的に僕は答えた。 「辛かったらいいなさい。俺は大丈夫だから」  ちらりと僕をみた眸の色は暗く、表情はわからなかった。頭のすみにチリチリと苛立ちがわきあがるのを感じる。我ながら理不尽な、すこし怒りに近いものだった。俺は大丈夫というのはいったいどんな意味なんだろう? たぶん峡さんは僕を守ってくれるつもりなのだ。オメガのヒートに反応するアルファや、ひょっとしたらヒートそれ自体の暗い情熱から。それとも逆で、彼は僕がアルファを欲しがっていると思っているのだろうか? この一時の――一時の反応を満たすために……  僕が欲しいのは峡さんだけなのに。  頭の芯の方がぐるぐる回り、僕は何もいえなかった。下肢がだるく、尻と腰の奥に感じる甘いうずきがだんだん強くなって、欲望に全身を犯されていくようだ。ごくふつうの車の振動すら僕のヒートに一役買いそうなありさまで、ようやく車が停まったとき、僕は安堵の息をついた。  峡さんは何もいわずに運転席から身を乗り出し、僕のシートベルトをはずした。峡さんの腕と首筋が僕の眼の前を行ったり来たりするだけで、ぞくっと鳥肌が立った。峡さんはのろのろと車を出た僕の手を引くようにして玄関へ連れて行った。リビングではなくベッドルームのドアを開け、カバーをひらいてシーツをむきだしにする。 「横になりなさい」そういってキッチンの方へ消えた。  僕はおとなしく従った。どのみち立っているのはつらかった。横になっても服は邪魔で、体はほてりっぱなし、下着は濡れっぱなしだ。みっともないな、とふと思う。峡さんは――峡さんは抱いてくれないんだろうか? アルファだったらこんな面倒な手間はかけない。こんな――ヒート真っ最中で濡れているオメガがいればすぐにでも押し倒すのが連中というものだし、僕だって今はそうしてほしい。  峡さんは嫌なんだろうか? ヒートのオメガは? だったらどうしてここに連れてきたんだろう。  まぶたの上に腕をのせていると、ぎしっとマットレスがきしんで、頭を撫でられた。 「朋晴。つらい?」 「緩和剤は……打ったんです。デュマーで」 「あそこの医師はよく知ってる。間違いのない人だ」 「効き目には個人差があるって」 「ああ。零にはあまり効かなかった」  唐突に思いあたることがあった。彼はこんな風に佐枝さんの面倒をみてきたのだろうか。  思い浮かんだのは、暗い照明の下で佐枝さんを心配して憔悴していた彼の姿だ。あれは五月だった。今は九月。いつから僕はこの人が好きだったんだろう?  僕は視界をふさいだ腕をはずしてベッド端に座る峡さんをみた。ひとつの質問が心に浮かぶ。峡さんにたずねたかった。でも、もしかしたらこれを聞いてしまうことで、全部終わってしまうのかもしれない。  それでも彼にたずねたいだろうか。僕は自問する。 「峡さん」 「ん?」  僕はゆっくり体を起こす。マットレスが弾んで、どくっと脈打った腰の奥からまた熱い液体がほとばしり出た。小さく息を吸う。緊張で喉からなにかが飛び出しそうな気がする。 「僕は、あなたの恋人になれますか?」  峡さんは眉をひそめて僕をみた。「朋晴?」  マットレスの端に峡さんの片手が置かれている。僕は彼の手の甲を押さえ、指に自分の指をかさねあわせる。 「僕は……ちゃんとした恋人にはなれませんか。あなたに……迎えに来てもらったり、助けてもらったり、慰められてるだけですか。僕は……オメガだけど……」  峡さんと最初に会ったのは新製品発表会の時だった。彼は電気ショックでも与えたように僕を刺激したのだ。こんなに歳の離れた、ろくに知らない人だったのに。  あのときすでに僕は峡さんを気にしていた。そして佐枝さんの事件のあと、会話を重ねていくうちに、僕は峡さんに恋をした。何年知っていてもこんな風に好きになれなかった幼馴染をさしおいて、恋をした。  僕は恋をしたけれど、この人は…… 「僕はあなたの甥や弟になりたいんじゃない。守ってほしいのでもない。あなたと恋人になりたいんです。あなたは僕が――僕が……歳が離れすぎてると思ってるかもしれないけど、僕は……」  峡さんは黙って僕をみつめていた。ふっと息をついた。 「たしかに歳は離れすぎかもしれないな」 「そうですか」  僕は息を吐く。落胆で肩が落ちそうになる。  と、手のひらの下で、押さえていた彼の指がぐいっと反転した。そのまま僕はマットレスに倒されて、下半身に峡さんの重みがかさなってくる。触れたところから腰がどくっと甘い響きを体じゅうに伝えていく。 「ごめん」  峡さんの吐息は荒かった。 「峡さん」 「恋人とは……いえるのかどうか」  今度は僕は息をのむ。峡さんの声は低く僕のうえに落ちてくる。 「俺はアルファじゃない。朋晴がどれだけ望んでも……つがいにはできない」  細く長いため息が僕のひたいから眼元へと触れる。僕の肩の横に手をついて見下ろす彼のまなざしは暗かった。  僕は上体を起こそうともがき、結局起き上がれないまま峡さんの首に腕を回した。背中をもちあげるようにして、彼の顎に自分の首筋をなすりつける。すこし伸びたヒゲがちくちくとあたる。 「そんなの、どうでもいいです。僕があなたが――あなただから好きなんだ。アルファじゃなくても。ベータでなくたって」  皮膚に触れるほどの距離でささやいても、峡さんの声は暗い響きのままだ。 「つがいの絆もないのに、朋晴を俺のものにしたいといっても? 俺はしつこい性格でね。いつか朋晴が――こんな年寄りは嫌だなんていっても、離さないかもしれない」  しつこい性格だって?  思わず僕はつぶやいていた。「峡さんの馬鹿」  彼の腰が僕の上に重なっている。ぴったりくっついた場所が布越しに堅く大きくなり、僕自身を刺激している。この熱を感じている僕のうしろは激しくうずいているというのに。どうしてこんな――こんな…… 「朋晴」 「ねえ、あなたを欲しいのは僕だよ!」  笑いたいような泣きたいような、わけのわからない気分で僕は口走った。 「僕を欲しがってよ! 僕が欲しいのと同じくらい、あなたが僕を欲しがってくれたら……あなたは僕のものだ。僕だって離さない。あなたが嫌だといっても離さない」  うるんだ眼から涙がこぼれるのを止められなかった。峡さんの指が僕の目尻をたどった。人差し指がこぼれた涙に触れ、僕の唇に触れる。  そしてこじあけるように中へさしこまれる。  僕は峡さんをまっすぐみつめたまま、指をしゃぶった。爪を噛み、第一関節の奥まで含む。もう一本指がさしこまれて、僕はそれもしゃぶる。僕の口の中をぞろりと指が動いた。その感覚に足先まで刺激が走って、僕は思わず眼を閉じる。唾液があふれて唇から垂れ、唐突に指が引き抜かれる。  峡さんの顔が近づいてきた。こぼれたしずくを追うように舌が僕の顎を舐め、喉のほうへ下っていく。そうしながら髪を指でかきまわされる。舌はそれ自体生き物のように、喉から顎をのぼって僕の唇の中へ侵入した。  あいだをへだてる布がどうしようもなく邪魔だし、キスはどうしようもなく甘かった。強く吸われると下半身まで甘い衝撃が走り、僕は足を峡さんのそれに絡ませる。峡さんの舌は僕の口の中を探索し、秘密の場所をひとつひとつなぞり、こじあけていく。こじあけられたところから何かが溢れて、止まらなくなる。 「……峡さん」  やっと解放された自分の唇で、峡さんの視線をとらえながら、僕は懇願する。 「お願い、抱いて……」  鎖骨のあたりにツキンと痛みを感じた。痛いのに歓びそのものだった。骨に響くようなささやきに僕の全身が反応する。 「俺が朋晴をもらうよ」 「ねえ、全部……全部して……」 「全部もらう」

ともだちにシェアしよう!