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雲と花の生態学
佐枝さんのアトリエの窓は大きい。寝ぼけたような四月の青い空が切り取られ、そこにワタアメのような雲が浮かんでいる。
「峡、もっと自然にしろよ」と佐枝さんがいう。
「どうしたんだ?」
「べつに。普通だろう」
僕の横で峡さんはそう答えるが、佐枝さんは眼をきらっと光らせた。
「普通だって? もしかして緊張してる、叔父さん?」
佐枝さん(ほんとうは峡さんと区別するために零さんというべきなんだろうけど、僕にはやっぱり佐枝さんだ)の声には笑いのような響きがすこし混じっている。最近知ったのだけど、佐枝さんは峡さんをからかいたい時だけ「叔父さん」と呼ぶらしい。この二人のあいだには血縁はなくて、佐枝さんの出生時の事情にまつわる戸籍上の関係があるだけだ。でも佐枝さんが生まれた時から同じ家で暮らしただけあって、近頃の僕には齢の離れた兄弟のようにみえることも多い。
「緊張? まさか。俺にかまわないで準備してくれ」
峡さんはそういったが、佐枝さんは畳みかける。
「いいから自然にして。照れないで三波と手をつないだり肩を組んだりしろよ」
「かまうなといったろう」
峡さんはいささかムスっとした声で返し、佐枝さんは声をあげて笑いながらアトリエの隅へ歩いて行った。僕は何もいえないまま峡さんの横に立っている。ため息のようにふうっと息を吐く気配がする。僕は顔をあげ、すると峡さんと眼があった。
「朋晴……その」
峡さんが左腕をさしだした。僕は右手をかけながら、柄にもなく照れくさい気持ちになっている自分に気づいた。僕でさえ(!)そうなのだ。もしかしたら峡さんは僕以上に照れているのかもしれない。
「そうだな……どうしようか」
ぷっと背後で吹き出すような音が聞こえた。僕と峡さんは同時にふりむく。佐枝さんがニヤニヤしながらこちらをみつめている。
「――零」峡さんがぼそりとわずかに咎めるような声を出す。
「ごめんごめん。そうだな、ふたりで外に出たら?」佐枝さんは窓を指さした。「天気もいいし、庭でも見てリラックスして」
「ああ。そうするか」
あからさまに助かったといった様子で峡さんが返事をした。
僕と峡さんはいったい何をしているのかって?
僕らは夏の終わりに挙式を控えている佐枝さんと藤野谷さん(僕の会社のボス)の家を訪れている。僕は「メガ会」と名付けられた集まりで何度かこの家に来ているのだけど、峡さんと一緒に訪問するのは初めてだ。僕と峡さんは二月の終わりから峡さんのマンションで一緒に暮らしているのだが、昨日ついに――
外に出たとたんくらっとした。春の日差しが明るすぎるせいだろうか。
実は峡さんと同居をはじめてから、僕は時々のぼせるような奇妙な感覚に襲われていた。味覚もすこし変わったようだし、アルコールが欲しいと思わなくなった一方で食欲は以前にもまして旺盛になっている。人生の一大イベントは人体にもこんな影響を及ぼすんだろうか。
「峡、届けは出したんだろ? 式やらなにやらはどうするんだ?」
僕らの斜めうしろから佐枝さんがそんなことを聞く。庭に出た峡さんはさっきより気楽な声で答えた。
「少なくともおまえたちの式が終わってからだ」
「俺や天に遠慮することはないよ」
「遠慮じゃないさ。なにせそっちは名族の挙式披露宴だ、準備も大変だろう。こちらは内輪でひっそりやるつもりだし、あとの方が朋晴の家族も都合がいいらしい」
「三波の?」
「千歳が――次兄が今は海外にいるんです。帰国のタイミングにあわせたいので」
僕はあわてて口をはさむ。
「式なんて――入籍記念に佐枝さんに絵を描いてもらえるだけで十分すぎるくらいですよ」
「そんな大げさなもんじゃない」
佐枝さんは首を振ったが、思い直したように付け加えた。
「でもそうだな、結婚式の前撮りみたいなもんだと思えばいいか。とにかく楽にして。実はどんな方法で描くかまだ決めていないんだ。でも、峡と三波がふたりでいるときの雰囲気をみたいから」
そう、僕と峡さんは昨日ついに入籍したのだ。佐枝さんには以前から入籍祝いに何が欲しいかと聞かれていたのだが、悩んだ僕は贅沢と知りつつ佐枝さんの絵を求めた。何しろ僕は自他ともに認める佐枝さんのファンなのである。断っておくが僕はあくまでも佐枝さんの絵が欲しかっただけで、自分を描いてほしいなんて頼んだわけじゃない。
ところが話はよくわからないうちに、佐枝さんが僕と峡さんのツーショット写真ならぬ肖像画を描くということになってしまった。佐枝さんがほとんど一人合点でそう決めてしまったのだ。
で、僕と峡さんは今ふたりでここにいる。
佐枝さんは僕の横で庭のまんなかあたりを指さしている。
「峡はあまり来ないから、この庭に費やされた俺の努力なんか知らないだろう。あの辺、きれいになったんだ。もうホラー映画の庭じゃない」
「ホラー映画ってなんだ」
峡さんが怪訝な声で聞く。佐枝さんが指さしたところは、以前は伸び放題の木の枝が垂れ下がり、地面には森の一角のように雑草が生い茂っていた。今は枝も刈りこまれ、明るい日が落ちる地面には石で区切られた花壇があるし、ところどころに白や黄色の花が咲いている。
それにしても佐枝さんにもいささか人が悪いところがある。ここに引っ越したばかりの時、僕が何をいったかを覚えているのだ。おまけにそんな僕の気持ちを見透かしたように「そういえば三波はさ」と言葉を続けた。
「この前のメガ会ではおすすめにゾンビ映画、持ってこなかったな」
「佐枝さん、あの時もいいましたけど、僕はいつもゾンビを論じてるわけじゃないです」
「そうか? 俺と鷹尾のあいだではてっきり峡の影響で――」
「俺がどうしたって?」
数歩先で峡さんがいう。彼は明るい一角に植えられた薔薇の木の前にいる。僕は植物には詳しくないが、薔薇は実家の庭にもあるし、棘と蕾があれば見分けられる。
佐枝さんはしらっと「峡とつきあいはじめてから三波がさらに美人になったって話」と答えた。僕は顔に血がのぼるのを感じたが、峡さんはけろりとしている。
「それはもとからだ」
「お、ついにのろけが出た」
峡さんは肩をすくめた。
「せっかくだ。名画を頼むよ」
「調子出てきた? 叔父さん」
佐枝さんはさりげなく僕を峡さんの方へ押しやる。
四月といっても、今日の天気予報は「五月末ごろの気温」だった。ぽかぽかした日差しの下、足元で咲く黄色い花びらのあいだを小さな虫が飛び立つ。
「すこし暑いですね」と僕はつぶやく。僕自身すこし汗ばんでいるし、土や花の匂いにまじってもうすっかり馴染んだ峡さんの汗の匂いもかすかに感じる。オメガは匂いに敏感なのだ。自覚したとたんドキドキしてきた。
「佐枝さん、どんな絵を描いてくれるんだろう」
そういったのは気をそらすためだ。峡さんが僕をみる。視線は柔らかくて優しい。
「零は感覚がちがうんだ。なんでも、音や匂いの感覚と色彩感覚のつながりが強いんだと。だから零の絵には、色のなかに自分が感じた音や匂いも変換されて入ってるようなものらしい」
「そうなんですか? でも僕がネットで知った零さんの作品は――動画でしたけど――モノクロでした」
「あの作風は実家を出てからだな。子供のころに零が描いた絵、母が見せただろう?」
「そういえばあのクレヨンの色――すごかったです」
話しながら僕はしらずしらずのうちに峡さんに寄り添い、肩を触れあわせている。片手が自然に動いて峡さんの手のひらと重なり、おたがいの指と指がからみあう。僕は首をすこし傾け、髪を峡さんの肩に触れさせる。服を着ていてもほのかに峡さんの皮膚のぬくもりを感じるようで、胸の中にほんわかと温かいかたまりが生まれる。
「うちの庭も多少いじるか」と峡さんがいう。
「マンションの?」
「ああ。狭いとはいえテーブルと椅子くらいなら置けるから……」
「ピクニックみたいなことができますね」
「だろう?」
峡さんのマンションは一階で、リビングに面した専用庭がある。この家の庭とくらべると猫のひたいほどではあるが、生垣に囲まれて外からはみえないし、意外に静かなのだ。
「あそこでおいしいものを食べたいな」
そういった僕に峡さんはすかさず「何がいいだろう」というが、僕にたずねているわけではない。一緒に暮らしはじめてわかったのだけど、峡さんは僕の食欲というか、「なにか」を食べたいという漠然とした欲求をクイズのように思っているようだ。クイズ、つまり、ドンピシャリで当たると楽しいもの。
僕は空をみあげる。ふわふわの雲が集まって、何かの形になろうとしている。
「峡さん、ラテアートってあるじゃないですか」
「うん?」
「今度やってみようと思うんですけど。つまようじでこう――」僕は手真似をする。「やり方をみたんですよ。キッチンのマシンでラテ、作れるんですよね?」
「ああ。手で泡立てる道具もあるから……」
話しながら気配を感じてふりむくと、佐枝さんがじっとこちらをみつめていた。猫がなにかに集中しているように、無表情で僕と峡さんをみているのだ。そう思ったらぱっと視線がはずれてうつむく。手がすばやく動いている。この人はいつスケッチブックを持ちだしたのか。そういえば前も同じようなことがあって、どうも佐枝さんはつねに小さなスケッチブックやタブレット――僕のようにネットを見るためじゃなくて、描くための道具として――を持ち歩いているらしい。
何を描いているのかみせてほしいけれど、出来上がったときの楽しみにとっておくべきなのだろう。そんなことを考えたとき、またもくらりとする感覚がやってくる。微熱でもあるんだろうか。
「朋晴?」峡さんが怪訝そうに僕をみる。
「どうしたのかな。このごろずっとぼうっとしてますけど――今日はとくに……」
ふわふわと雲を踏むようなおかしな気分だった。アトリエに戻る僕らのあとを佐枝さんがついてくる。アトリエの中でも勝手に話している僕と峡さんを前に佐枝さんはずっと手を動かしていた。いつのまにか写真もたくさん撮られたようだ。
僕の体温はやはり高めらしい。ヒートの前兆かとも思ったが、あのべたべたする熱ともちがう。不審に思っていると佐枝さんが僕の袖をつついた。
「三波、ちょっと」
峡さんから見えないところへさりげなくひっぱられる。
「大丈夫か?」
本気で心配している眼つきに僕は笑った。
「すみません。大丈夫ですよ。風邪気味なんでしょうか」
「いや、俺がいってるのは――匂いがちがうから。もしかして……」
「え?」
「調べた方がいいんじゃないか」
佐枝さんは峡さんの方をちらっとみて、僕に視線を戻し、とある手つきをした。僕はドキッとした。まさか。
『えええええええ! 嘘! ほんと! ああ~もう、どうしようトモ! とにかくおめでとう! で、何週だって? ええ、もう十週? ぜんぜん気づかなかったの?』
モバイルの向こうの姉の鼻息がすさまじく、僕は気圧されながら「あ、うん……順調だとそういうこともあるって……オメガはとくに……」と答えるのがやっとだった。背後でぱたぱたと鳴っているのは甥の湊人の足音だろうか。
「いまのところ悪阻のようなのもないし――味の好みが変わったとは思ってたけど……」
『入籍とほぼ同時にわかるなんてすごいタイミングね! あーでもちょっと待って、いま十週なら予定日は十一月くらい? じゃあ式はどうするの? ああもう、やっぱり千歳とアレックスには早めに帰ってもらいましょうよ』
「姉さん、あの……」
『とにかくおめでとう! ごめん、お母さんにかわるから待って!』
僕はモバイルを耳にあてたままソファに座っている。自分の体の中にもうひとついのちがあると思うと、とても不思議な気分だった。リビングの窓のむこうに峡さんがみえる。腕を組んで、狭い庭を生垣にそってぐるぐると回っているのだ。これで四周目だろうか。
ガラスの向こうで峡さんが立ちどまる。僕らの眼があい、どちらからともなく微笑がうかぶ。今日の空は煙ったような青色だ。キッチンにある陶器の皿のような色、この皿にのせられる峡さんの料理を僕はいつも楽しみにしている。レースのカーテンのような雲が空の高い場所で、ゆっくり、ゆっくりと模様を変えていく。
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