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チョコレイトラプソディ(後編)

 ぜんぜん悲しいわけじゃない。なのに僕は泣き出しそうだ。そんな自分がよくわからない。  混乱している僕に峡さんがキスをする。ソファの背に僕をもたれさせ、唇は優しく押し当てられるだけだ。でも僕は我慢できない。口をあけ、舌をさしだしてもっとたくさん求める。峡さんはそんな僕に応えてキスを深くする。舌のうえに残る柑橘とチョコレートの香りに峡さんの匂いが混ざる。僕はたまらない気持ちになる。 「……ごめんなさい……」  唇が離れたすきに僕はなぜかそんな言葉をつぶやいている。峡さんが僕の顎に手をかけ、怪訝な眼つきでみつめた。 「朋晴? どうして?」 「バレンタインだから……準備したのに…」  いったい僕は何をいおうとしたんだろう。峡さんの腕の温度に肌の熱はますます上がっていくようだし、頭の芯は抑えがたい欲求で朦朧としていた。峡さんがふっと吐息をもらす。涙のにじむ僕の眼には微笑んだとも呆れたともわからなかった。 「準備?」  耳元でささやかれた峡さんの声に背筋が震える。 「わかってる」  また唇が落ちてくる。峡さんは口づけしながら僕の背中に腕をまわし、腰をささえて立ち上がらせた。ベッドルームへ連れて行こうとしているのだ。僕は峡さんの首に腕をまわし、よろめく足をなんとか動かした。やっとベッドに腰を落として見上げると、峡さんは車を運転していたときと同じように静かで落ちついた雰囲気だった。僕のシャツのボタンに手をかけ、ゆっくり外していく。僕はベッドの上でされるがままになる。  峡さんは僕の前に立ったまま、まず僕の胸をむきだしにし、ついで手首をとって袖のボタンを外した。ほてった肌にふれる指はさらりとして、熱くも冷たくもない。手首、首筋、鎖骨と触れていく指は的確に――あまりにも的確に僕の肌をなぞり、たったそれだけのことに僕は声をあげそうになる。 「峡さん……」  峡さんはひざまずいて僕のベルトをゆるめ、スラックスを下げている。僕の足元に布が落ち、ついで濡れた下着が下げられる。峡さんは僕の足首をもちあげて邪魔な布をひきぬきながら応えた。 「なに?」  その声の響きに僕の胸は狂おしく悶える。なにって――なにって! 「峡さんが……欲しいです……」  峡さんは答えず、僕の靴下をずらして足首にキスをした。舌にかかとをなぞられたとたん腰が勝手にうごめいて、僕は背中をベッドに落として声をこらえる。腕をやみくもに伸ばして峡さんに触れようとしたら手首を捕まえられてしまった。そのまま彼は上にのしかかってくる。両腕を押さえつけられたまま、今度は舌で胸の突起を片方ずつ弄られる。峡さんのシャツの前もいつのまにか開いていて、重なった肌と舌の感触に腰の奥がひくひくと震えた。  焦らされてたまらず、僕は腰をよじって彼にもっと密着しようとする。濡れたペニスが峡さんの服を汚すのも気にしていられない。服が擦れる音とベルトが外れる音がきこえるが、そのあいだも峡さんの舌は僕の体のあちこちを――あちこちを這っていく。まるでいやらしい生き物みたいに。  快感に僕は首をそらし、うめき、眼をあける。峡さんは僕のうえで裸体をさらしている。股間で立ち上がった雄はそれ自体が生き物のようだ。僕の口に唾がわき、意識したとたんにうしろが濡れた。ああ、もう……もうダメ…… 「峡さん――峡さん……お願い……」 「ん?」  峡さんの顔が近づいてきて、またキスをする。とても優しいキスだ。ひどすぎる。さんざん焦らして、こんなに優しいキスなんて。僕は腰をくねらせ、いつの間にか解放されていた腕を峡さんの背中に回す。濡れた尖端が擦れては離れ、快感ともどかしさにどうにかなってしまいそうだ。 「お願い……なか――なかに」 「そう?」 「そのまま――お願い――つけないで……いつもみたいに……」  ふいに峡さんのまなざしが真剣になった。僕を真正面からみつめている。 「朋晴……」 「だって――僕たち――」 「いいのか?」 「峡さんは僕のでしょう……」  僕はその先を続けられなかったが、峡さんにはわかったようだ。僕は眼を閉じた。両足をひろげられ、もちあげられるのを感じる。ヒートの熱で開いて濡れそぼった後口に熱いものが押しあてられる。次の瞬間、僕のなかに侵入した堅い肉棒が蕩けた襞を甘く貫いた。 「んっあ、あん」  待ち望んでいた快楽に僕の意識はあっけなく陥落する。肉棒は僕の中の敏感な場所を何度もえぐった。そのたびにまぶたの裏にしろい火花が飛ぶ。 「あ、ああっ、あ―――や――あ」  つながったまま峡さんは僕の腰をひきよせ、抱えあげるような姿勢でさらに奥の秘密の場所をこじあけ、揺さぶった。口の端から唾液が勝手にあふれ、顎から首へとおちていく。僕の中に峡さんがいるのか峡さんの中に僕がいるのか、もうよくわからない。僕はこのまま溶けて消えてしまうんじゃないだろうか。 「ん――朋晴……」  峡さんの声が切羽詰まったように降ってくる。何度も奥に彼の熱さを打ちつけられ、僕の中にまた激しい快感の波がうちよせる。  眼を開けたとき、僕は絶頂の甘い余韻にまだぼうっとしていた。峡さんが濡らしたタオルで僕の体をぬぐっている。大切なもののように扱われる感覚が嬉しくて、僕はまた眼を閉じる。峡さんは僕のもの。僕の……彼の吐息がひたいにかかり、はえぎわを撫でられた。セックスの最中の快感とはちがう気持ちよさに満たされ、眠くなる。  眼を覚ましたときは途方もなくお腹が空いていた。  僕はベッドの上に起き上がった。峡さんはいなくて、僕はきちんとパジャマを着ていた。開いたドアの向こうから料理のいい匂いがする。犬のように匂いをたどってリビングへ行った。テレビの上のデジタル時計は夜中の一時。峡さんはチェックのフランネルの部屋着姿でキッチンに立っている。包丁がまな板を叩く小気味よい音が聞こえる。 「峡さん」 「起きたね」  僕はキッチンのテーブルをみつめる。二人分の食卓が準備されていた。瑠璃色と深紅のランチョンマットの上にワイングラスと、ナイフにフォーク、折りたたまれたナプキン。 「何か食べたいだろうと思ったんだ。正解?」 「はい。大正解……です」  僕は椅子をひいて腰をおろしたが、頭はまだぼうっとしていた。暖かい部屋もその中に漂う料理の匂いも峡さんの匂いも、ランチョンマットの色や食器のきらめきも、なんだかすべて非現実的で、気持ちのいい夢のなかにいるような気分だった。思うにまだヒートが続いていたのだ。  峡さんはオーブンからパイ皮に覆われた丸いうつわを取り出し、注意深く食卓に並べた。サラダの皿がその隣にあらわれる。真っ赤のビーツが濃い緑のハーブに埋もれている。 「デザートもある。焼き林檎だ」 「なんだか……」僕はぼうっとしたままテーブルをみつめ、口走った。 「童話のディナーみたいです」 「へえ?」 「峡さんは魔法を使うから」  峡さんは僕が面白いことでもいったように笑った。僕らは向かい合って食べはじめたが、実際僕はとほうもなく飢えていて、峡さんのポットパイも半分もらって食べてしまった。あまり話はしなかった。峡さんはゆっくりワインを飲んでいる。最後に出てきた林檎のデザートには軽いクリームが添えられていた。 「ソファで食べようか?」  峡さんがたずねた。僕はこくりとうなずいた。リビングのテーブルにはまだ甘夏のチョコレートが置きっぱなしだ。もっとも林檎のデザートを食べた僕は心の底から満足していた。僕のすぐ隣に峡さんが座って、まだワインを飲んでいる。彼は僕のもの。何度もそんなことを思う。僕は彼の肩にもたれ、腕をからめ、それで飽き足らずに顔を袖に押しつけた。彼の背中に腕をまわして首筋の匂いをかぎ、ワイングラスを持つ手を揺らす。峡さんが笑った。 「こら」  いたずらにあきらめたように、峡さんはワイングラスをテーブルに置いた。僕はその手をとり、指を絡め、親指を立てて指相撲を仕掛ける。峡さんはすばやく応戦してきた。 「俺は強いよ」  たしかに峡さんの方がすこし手が大きく、指相撲だと僕は不利だ。そのせいではないけれど、仕掛けたのは自分のくせに思いつきで僕は答える。 「これは指相撲じゃないです」 「じゃあ何」 「親指あいさつ競争」  峡さんが吹き出した。その隙に僕は峡さんの親指を押さえつけるが、すぐに振り払われてしまう。握った手が熱く、触れる親指の感覚に僕の肌はまた熱くなり、興奮が戻ってくる。僕は本能的にまた頬を彼にすりよせていた。いつのまにか親指の競争など頭から消し飛んでいる。彼は僕のもの。僕のもの…… 「朋晴」  ふいに峡さんが耳元でささやいた。 「なんです?」 「ひとりでいるときどうしてるの?」 「え?」  僕は峡さんをみつめる。まぶたのしたにうっすらと影がおちている。眼つきが妙に意味深で、エロティックだ。背筋がぞくぞくした。 「ひとりって……」 「俺がいないとき。ひとりでしてる?」  ぱっと顔が熱くなった。頭に自分のアパートに転がっているローターが浮かぶ。峡さんはあれを見たのだろうか。僕は顔をそらそうとしたが、峡さんはすかさず腕をまわして僕の顎を固定した。 「峡さん……や……」 「どうやってるの?」 「……やです」 「みせて」  僕は首をふったが、峡さんの視線からは逃れられなかった。昼間のこと――アパートでひとりでいた時のことが頭をよぎる。峡さんは僕の唇を指でこじあけた。 「俺にもみせて?」  腰の奥をツキンと甘い疼きがつらぬき、どろっとうしろが濡れた。ああ、もう、このひとは――このひとは!  僕をどれだけ魔法にかけたら気が済むんだろう。僕は小さく首をふるが、指は勝手に動きだして、パジャマのボタンをはずそうとしている。峡さんは僕から手を離し、ただ僕をみつめている。  視線だけで犯されているような気持ちになって、僕の体の中心はひくひくと震えはじめた。僕はパジャマのズボンを膝までさげ、背中の方から下着に手を入れる。峡さんの眼がわずかに動き、ささやいた。 「いつもそうしてる?」  羞恥と快感が同時にやってきて、自分の顔が真っ赤になったのがわかった。 「よくみせて」 「……や……」 「どうして?」 「恥ずかしいです」 「俺がみてるから?」  僕はこくこくとうなずく。突然峡さんの腕が動いて僕を抱き寄せ、中途半端にずれている下着をぐいっと下げる。彼の視線に僕の指の行く先があらわになる。前もうしろも――見られていると意識するだけでこんな風になってしまうのはヒートのせいだ。それに峡さんのせい!  ああ……でも――たまらない。これって……  僕は指で自分の中を弄り、上体をくねらせた。上目づかいで峡さんを睨んでも、彼は僕をみつめて動じない。僕はついに声に出す。 「――峡さん……」 「ん?」 「僕……だめ……足りなくて……」 「なにが?」  答えた声は意地悪だった。僕が何をいいたいかなんて全部わかっているくせに。ひどい。僕は首をふる。 「峡さんの……大きいの……まだ――」 「ほしい?」  僕はまたうなずく。峡さんの胸に顔をすりつけると、顎をつかまれて上を向かせられる。またキスが降ってきて、同時に僕の中に入ってくる峡さんの指を感じた。  彼の親指はもうあいさつなんかしない――いや、僕の中であいさつしてる? 朦朧とした頭で僕はそんなことを思っている。峡さんの舌は僕の肌をまさぐりながらいやらしい音を立て、僕は腰をもちあげてまた彼を受け入れ、律動に翻弄されるまま意識を手放す。  結局、僕の鞄は翌日の昼まで忘れ去られていた。あれだけ悩んだチョコレートとプレゼントを中に入れたまま! 「峡さん、仕事は?」 「今日は休み」  ブランチどころか完全に昼食の時間だった。やっとヒートが去って、僕の頭のはたらきはいくらかましになっている。少なくともそう思いたかった。峡さんは皿の上で薄い小さなパンケーキの三枚目を重ねている。そば粉を使った本格的なもので、層のあいだからバターとシロップが贅沢に垂れている。僕はコーヒーとパンケーキの皿を一人分ずつリビングのテーブルに並べた。それからごそごそ鞄をさぐって、ラッピングされた包みをふたつ取り出した。 「ほんとうは昨日渡すはずだったんです」 「俺に? 開けていい?」  僕はうなずく。ひとつめの箱の包み紙は水色と濃茶のストライプだ。小さなボックスにおさめられているのはチョコレートのコグマが七匹。両手をあげたり寝転んだりしている。峡さんの口もとに微笑みがうかぶ。 「これ、どうしたの?」 「作ったんです――型に流しただけですけど」  峡さんはコグマを一匹つまみ、また元に戻しながら「いいね」といった。僕の胸のうちで誇らしい気分が風船のようにふくらむ。峡さんは続けてもうひとつの箱の包み紙を剥がし、黒い箱のふたを開けた。 「――朋晴」  驚いたような声だった。 「これでおそろいですね」  僕は澄ました顔でいう。でもうまくいえただろうか。  峡さんの手の中に銀色の腕時計がある。文字盤は黒で、針は銀色。黒革のバンドがしっとりした光沢を放っている。留め金は僕の持っている時計と同じ、薔薇のかたちだ。

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