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チョコレイトラプソディ(中編)
ところが二月十四日の明け方、あれがやってきた。
その晩の僕は横になってもなかなか眠れなかった。小さな音や匂いが気に障って、夜中に何度も翌日の準備――靴とか服とか持ち物とか――を確認するために起きてしまうしまつだ。遠足の前の子供みたいだと自嘲したものの、あとで思うとその時すでに前兆はあった。てっきり緊張しているせいだと思っていたのだが。
朝は怪物に追い立てられるような夢でうなされながら眼を覚ました。アラームを消して起き上がろうとした途端、体がくらりと揺れた。肌が熱く、さむけのようなものが背筋をはしる。そのときやっとヒートだと自覚した。
僕はあわてて日数を数えた。前回はクリスマスのすこし前で、あまり意識することもなく一日であっさり終わった。とするとそろそろ来てもおかしくはない。いつもなら覚えていたにちがいない。忘れていたのはイベントが多すぎたせいだろう。だいたい僕のヒートなんて、そんな大げさなことではなくて……
そう思ったのに立ち上がれなかった。腰の中心からどくどくと血がわきたつのを感じる。よりによって今日くるなんて――僕の体は馬鹿か?
息を吐き、這うようにしてまずは洗面所へ行った。ペットボトルの水を片手にベッドに戻り、枕もとをさぐってモバイルを探す。メールを打つ指がふるえて、誤変換をいくつも直さなければならなかった。ボトルの水の冷たさは気持ちいいが、肌の下でうごめく熱にはあまり効かない。もちろん会社は休めばいい。オメガの特権で、このまま週末まで休暇がとれる。
無事会社に連絡は入れられたものの、問題は今夜だった。僕は枕にうつぶせになり、モバイルの画面をみつめたまま、考えがまとまらない頭を落ちつかせようとする。汗に濡れた前髪が冷たく、気持ち悪かった。
どうしよう? ヒートのあいだは絶対に電車に乗れない。アルファに接触するわけにはいかないからだ。峡さんのマンションへ行くにしても、タクシーを呼ばなければ。
いったんそう考えたが、指も手もさらに震えた。いやだな、と僕は思った。今回はどうも様子がちがうんじゃないか? 前々回のヒートがこんな感じだった。あの時はデュマーへ行って、そのあと峡さんが迎えに来て――
ああ。困ったな。僕は頭を抱えた。あの時は……いろいろあって、結局峡さんに仕事を休ませることになって、迷惑もかけた気がする。いや、でも今日はとにかく、夕方までに何とかなればいいのだ。でなければ今夜はひとまずキャンセルして、週末に伸ばしてもらうとか――ほんとは嫌だけど、でも……
肌に触れるパジャマの布地がうっとうしかった。皮膚の内側から何かが表に漏れてきそうだ。頭はあいかわらず、いやもっとぼうっとしてきて、どのくらい僕はその姿勢のままでいたのだろう。いつのまにか指が勝手にモバイルをいじっていた。気がついたときには峡さんの番号をタップしている。コール音を繰り返しても峡さんは出なかった。
僕は時間をみてはっとする。朝の九時すぎ。いつの間にこんな時間になったのだろう。出ないなんてあたりまえだ。仕事中に決まってる。電話じゃなくて、メッセージを送らないと。
メッセージアプリを開くと、つい二日前に峡さんと交わしたやりとりがあらわれ、最後は彼のお気に入りの子熊のスタンプだった。みつめたとたん、僕は何を伝えたいのかがわからなくなった。頭に血が上ったように何も考えられないし、首から胸のあたりが熱くてたまらない。いつのまにかモバイルはどこかへ落ちてしまっていた。僕の両手は勝手にパジャマの中にもぐりこみ、胸や太ももをさすっている。乳首の先に指が触れたとたん、峡さんの唇の感触がよみがえった。
ああ、がまんできない。
僕はパジャマを脱ぎ捨て、下着をずらした。ペニスはとっくに立ち上がっているし、動いたとたんに後ろも濡れて、股のあいだに垂れてくる。ベッドわきの棚をさぐるとアレがみつかった。ピンクのローター、それにローション。
馬鹿、そんなことをしてる場合か? 峡さんに連絡しろって。
頭のどこかで理性らしきものがそうささやいたが、僕の九十九%は聞く耳を持たなかった。うつ伏せになってシーツに肌をこすりつけても、欲望は耐えがたいほどつのってくる。僕は起き上がって壁にもたれ、後ろの穴に指を入れた。すでにぐちょぐちょに濡れている。使い慣れたローターをいいところまで押しこみ、リモコンのスイッチを入れる。いつもなら苦手だと思う振動音もいまは気にならなかった。甘い震えが背中からうなじへあがるのを感じながら、右手で股間をまさぐる。
「んっ、あ……」
声を出さないようにしないと、という程度の理性はまだ残っていた。アパートの壁は薄いのだ。ローターの振動がもたらす疼きは気持ちいいのにもどかしく、眼をとじてペニスをしごきながら僕は飢えていた。峡さんの顔が脳裏をちらつく。こんなのじゃなくて……峡さんがいい。峡さんの手で……
「あ、あ……」
彼の舌が肌をなぞるのをありありと想像したとたん、突き上げる衝動にやっと僕は達した。息を吐いて自分の体をみおろす。なんだかみじめな気持ちになった。ローターの振動は僕の下半身をぐずぐずに甘く溶かしている。心臓がどくどくと打つのがわかり、全身がだるいのに欲求はまだおさまらない。こんなのじゃ――ぜんぜん足りない。これじゃ……
何が苦しいのかもよくわからないのに苦しかった。僕はまた眼を閉じている。涙が勝手に出てくるし、ほてった肌の熱は消えてくれない。水を飲み、とろとろと眠り、また目覚める。やがてローターの電池が切れてしまい、夢うつつに何度か自慰を繰り返しても、もっと、もっとという渇望は消え去らなかった。耐えられないまま僕はベッドの上で寝返りをうち、湿ったシーツに肌を押しつけ、うめいた。何か――必要なのだ。何か。
ぼうっとした意識の遠くでブーッ、ブーッと何かが鳴っていた。うるさくてたまらない。僕はうすく眼をひらく。カーテンを閉じたままの部屋は暗く、引越用の段ボールが視界の一部をふさいでいる。すると、トントンと何度か繰り返された音のあと、ガチャリと別の音が鳴った。
「朋晴?」
玄関とこちら側を仕切る薄いガラス戸の向こうで、聞きなれた声が響いた。低めで、すこしかすれている。
峡さん……の声だ。
そう思ったとたん、僕は飛び起きていた。
「――峡さん?」
「勝手に鍵をあけてしまったが――電話しても出ないし、連絡もないから心配に……」
「あ……待って――」
僕はあわてて周りを見回し、くしゃくしゃのパジャマをひっつかんだ。さっきまでろくに動けもしなかったのに。思うにこんなだらしない格好を見せられないという見栄がヒートに打ち勝ったのだろう。どこかへ行ってしまったパンツはあきらめてパジャマのズボンに足をつっこみ、上に袖を通しながらガラス戸をあける。ボタンはひとつしか止められていないし、髪はくしゃくしゃだし、ベッドも部屋も見られたものじゃないけれど、峡さんがそこにいると思うと足も手も止まらなかった。
「――もう時間?」
僕は間抜けな質問を口にして即座に後悔した。とっくに約束の時間は過ぎているのだろう。だってこんなに暗いし、なにより峡さんがここまで来ているのだから。
「朋晴――大丈夫か? 入っていい?」
以前合鍵を渡したのに、この人は何をいってるんだろう。僕はふいに泣きそうになる。これもヒートのせいにちがいない。やっとつけた明かりのしたで、峡さんは眉をひそめている。僕はやっと口をひらく。
「ごめんなさい。ヒートなんです。今朝から……起きあがれなくて……」
ものすごく恥ずかしかった。大事な約束を守れなかったうえに、こんなみっともない姿で峡さんの前に立っていることが。でも峡さんは僕の言葉に緊張をゆるめ、ほっとした表情になった。
「そうか。だから朝電話をくれたんだな。出られなくて悪かった。昼にかけなおして、さっきもかけたんだが、出ないから――何かあったかと思った」
あっ、と思う。電話! モバイルはどこへ行ったんだろう? 僕はあわてて弁解する。
「電話も――気がつかなくて……」
「メッセージもくれただろう?」
「え?」
「ほら」
峡さんはコートのポケットからモバイルを取り出した。みせてくれた画面はたしかに僕からの送信だが、並んでいるのは意味不明の文字列だ。頬がぱっと熱くなる。
「それ……送ろうとしたわけじゃなくて、間違って送られたんだと思います」
「何かの暗号かと思ったよ。出なければ事故か……事件でもあったんじゃないかと」
峡さんは小さく笑い、そっと手を差し出す。汗で湿った僕のひたいに彼の指がふれる。やさしく眉をなぞられたとたん、背筋をふるえが駆け抜けた。僕は峡さんの匂いをそっと吸いこむ。
「朋晴?」峡さんは僕の眼をのぞきこんだ。
「大丈夫か? 今日はやめておこうか。また……」
「嫌です」
自分でもびっくりするほど大きな声が出た。ひやっとして僕はアパートの壁をみつめ、声をひそめる。
「ほんとうに――ごめんなさい。すぐ用意するので……今から峡さんのところへ行ってもいいですか?」
「ああ」
峡さんはそう答えたものの、僕の顔から首筋へと視線を落とした。自分がパジャマをひっかけただけの姿だと思い出したとたんまた羞恥がもどってきて、僕はあわてて口走る。
「着替えてきます。中で……待ってて」
僕は浴室に駆けこんでシャワーをひねった。頭から熱いお湯をかぶり、髪からつま先まで急いで洗った。着るものは昨夜のうちに一式ハンガーにかけてあった。そう、僕は準備万端だったはずなのだ。なのにどうしてこんなことになってるんだろう? 中で待ってといったはいいが、テーブルの置いてあるキッチン周りは少しましとしても、ベッドなんかを見られたらもう終わってる――終わってる! そういえばローターはどこへ行ったっけ?
あーもう! わけのわからない恥ずかしさでどうにかなりそうだ。これもヒートのせいなんだろうか? 超特急で体を拭きながら僕はぼんやりと考えた。峡さんとはつきあって半年くらいにはなるし、この先のことだっていろいろ――いろいろ決めているのに、どうしてヒートの自分を見られるのがこんなに恥ずかしいんだろう。誰ともつきあわない代わり、ヒートが来ればハウスへ行って適当にやりすごすのが僕の流儀だったはずだ。それを恥ずかしいなんて思ったことはない。
ひょっとして、峡さんがベータだから?
ふとそんな考えが頭をかすめた。峡さんは僕がヒートのときも、アルファのように|反応《ラット》しないから? 僕ひとりがヒートで……こうなって……でも、一緒に暮らしたらこんなのはずっとくるわけで……
おいおい、三波朋晴。おまえは今月末、あっちに引っ越すんだろう?
自分で自分に入れたツッコミに僕は思わずうわぁ、と声をあげそうになった。ああ、どうしよう。どうしよう僕。
ぐるぐるになった頭のまま洗面所を出ると、峡さんはシンクのそばに座って、引越用の段ボールをみていた。
「大丈夫?」
「うん。ほんと、ごめんなさい」
「謝ることじゃない」
峡さんは笑って立ち上がったが、僕は視界のすみにピンク色をみつけてドキッとする。鞄を取りに行くふりをして足で蹴飛ばすと、ローターは僕にも見えないところへ転がっていった。
ヒートの最中はいつもにもまして匂いに敏感になる。峡さんの車のドアを開けた瞬間、知らない匂いに鼻が反応したのもそのせいだろう。僕は眉をひそめて助手席に座り、シートベルトを締めた。峡さんが隣に座って後部座席をみたときに匂いのもとがわかった。見慣れないグレーのマフラーが鎮座している。そこから漂ってくるのは知らない人の匂いだ。ただし、アルファの。
腰から背中に熱が上るのを僕は自覚する。シャワーで一度洗い流したはずの熱。これはいったいどういうわけだろう。
「朋晴?」
峡さんは僕の視線を追っていた。
「あのマフラー、峡さんのじゃない……ですよね」
「忘れ物だよ。先週末、銀星をたずねて鷲尾崎家の当主と息子が来たから最後に空港へ送ったんだが、どうもその時忘れたらしい」
鷲尾崎家といえば、僕でも名前をみたことのある名族のひとつだし、首に巻くスカーフやマフラーには匂いがつきやすい。そうだとしても僕はショックを受けていた。たかがマフラーだ。いくらヒートだからって、誰とも知らないアルファの持ち物の匂いで?
「朋晴? 寒い?」
僕はあわてて首をふった。なのに峡さんは脱いだばかりの自分のコートを僕に押しつける。
「羽織っていなさい」
寒くはなかったけれど、顎の下にひろげたコートからは峡さんの匂いがした。僕は麻薬のようにそれを吸いこみ、すこしほっとした。スラックスの足元には昨夜用意した鞄がちゃんとおさまっている。峡さんはいつもの通り静かで落ちついた運転をした。彼のコートに包まれながら軽い揺れを感じるうちに、また僕の頭はぼうっと霞みはじめていた。今着ているシャツはお気に入りのブランドで、とっておきのものだ。布のなめらかな肌触りはいつしか甘い感覚に変化し、腰の奥がひくひくとうずく。シートベルトの圧迫すら妖しい感覚を呼びおこし、僕はわずかに尻をずらす。
ああ――まずい。僕はそっと運転席の峡さんに視線を流す。彼の耳から顎にかけての線をみつめたとたん、また欲望がつのってくる。頭の中で馬鹿なサルがわめきたてた。これじゃただの淫乱だろ、三波朋晴! 昼間あれだけひとりでやってたくせに!
「お腹が空いてるだろう」
ハンドルを握ったまま、ふいに峡さんがいった。
「あ……はい」
「外へ食べに行こうかと思っていたが、うちで夕食にしよう」
峡さんのマンションに一歩入ると、中は知っている匂いだけだった。僕は彼のコートを腕にかけたまま心の底から安心していた。車の中で呼び覚まされた熱で頭はくらくらしているが、いつのまにかここは僕のアパート以上に落ちつける場所になったみたいだ。僕は峡さんの背中にすがりつきたい気持ちをこらえる。いくらヒートだからって、それはダメ――いくら峡さんが承知でも、ダメだと思う。ちゃんとしていないと……
リビングは間接照明でぼんやり照らされている。電気をつけようとした峡さんに僕は思わず「そのままでいいです」と声をかける。
「そう?」
僕はうなずく。本音をいうと明るい光の下でいまの僕を見られたくなかった。きっとひどい顔をしているにちがいない。体の奥がひくひく疼いて、ささいなきっかけであふれだしそうだ。
「食べるものを用意するから、その前にこれでもつまんでいなさい」
ソファの前のテーブルを峡さんは指さした。細長い皿に不揃いなスティックがならんでいる。峡さんはひとつをつまんで僕の口元にさしだした。ふわりとチョコレートが香った。
「これは……オレンジピール?」
くわえたままモゴモゴとたずねた僕に「いや、甘夏だ」と峡さんがささやく。
「好き?」
僕はうなずくのがやっとだった。峡さんの指が顎に触れたからだ。舌の上で溶けたチョコは甘すぎず、洋酒の苦みをまとった柑橘の香りと絡みあう。僕は峡さんを見上げた。彼は指についたココアパウダーを舐めている。どくどくと耳の奥で血が鳴った。ああ、馬鹿三波。もうダメだ。僕は涙目で峡さんをみつめる。彼は僕がヒートだってわかってる。でも、いったいどこまでわかっているんだろう?
「朋晴。こっちにおいで」
そのとき峡さんがささやいた。両肩を抱きしめられて僕は息を吐く。耳たぶにかすれた吐息が触れた。
「我慢しなくていい」
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