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チョコレイトラプソディ(前編)

「これは……オレンジピール?」  たずねた僕に「いや、甘夏だ」と峡さんがささやく。 「好き?」  僕は答えられなかった。峡さんの指が僕の顎に触れる。僕はその指に促されるように唇に咥えたチョコレート菓子を噛む。表面にまぶされたココアパウダーが一瞬で溶け、ダークチョコ、洋酒の苦み、柑橘の爽やかな香りが鼻にぬける。僕の中で、この一口をゆっくり味わいたいという欲求と、もっとたくさん欲しいという欲求がせめぎあい、葛藤する。  僕は眼をあげる。峡さんが自分の指を舐めている。たちまち僕の皮膚のしたでべつの欲望がうごめき、体の芯であぶられた熱が表面までのぼってくる。僕はたまらずに息を吐く。峡さんはもちろん――もちろんわかっている。なのに恥ずかしい。僕ひとりだけ、こんなに熱くなって…… 「朋晴」  峡さんがささやく。 「こっちにおいで」  彼は僕の肩を抱いただけだ。なのに両足のあいだに体液がこぼれおち、背筋をぞくぞくと熱がのぼっていく。僕はまた息を吐き、ヒートの熱に屈服する。    * 「で、今の進行はどうなってるの?」  鷹尾は新作ケーキもそっちのけで僕へ向かってフォークを振る。いつもお嬢様めいた上品な仕草を忘れない彼女には珍しい仕草だ。ふたりでスイーツ探検をするのは毎月のことだから、ケーキを前にするとふたりそろって冷静になるのが常なのに、今日の鷹尾はどうかしてる。というわけで、僕は冷静に――そう、あくまでも冷静に美しく盛りつけられたクリームをすくう。 「進行って、なにが」 「いつ入籍するの?」 「え? ――え?」 「あ、ごめん。同棲が先なのよね。お正月はどうだった?」  ちょっと待て! ちょっと待て鷹尾! 単刀直入にそれはない! 僕は甘いクリームをあわてて飲みこみながらも(しかしろくに味わえなかった)ゆっくり紅茶のカップをもちあげた。何食わぬ顔(成功したはずだ)で一口すすってから「お正月?」と聞き返す。 「ご挨拶に行ったんでしょ?」 「何でそんなの、いちいち聞きたがるんだよ」 「だって面白いんだもの。三波の恋路は私の娯楽なの」  まったく、姉の美晴のようなことをいう。実際、鷹尾は僕と同い年のはずなのに、どこか姉を連想するところがある。外見も性格も似ていないのにどういうわけなんだろう。  というわけで、僕はしぶしぶ白状する。 「ご挨拶なら……行ったよ」 「うわあ」鷹尾は上品な仕草で口元を覆う。 「もう、やだ」 「人にいわせといて、なにが『やだ』だよ」 「ごめんごめん。なんだか照れちゃって」 「だからなんで鷹尾が照れるの!」 「だって仕方ないじゃない! あの三波が殊勝な顔で恋人の親御さんにご挨拶なんて――」  これが照れなくてどうするの、と鷹尾はつづけて菩薩のような表情で微笑み、僕は文字通り毒気を抜かれて黙った。まったく、ペースが狂う。たしかにお正月に決行された佐枝家訪問は僕の人生における一大事業といえなくもないし、無事クリアできたのは嬉しいかぎりだ。というわけで僕は落ちついて答える。 「大丈夫だった。ご両親とも感じのいい方だったし――たぶんこっちも悪くなかったし」 「いつ引っ越すの?」 「予定は来月末」  ふうん、と眼でうなずいた鷹尾は、またも菩薩の微笑をうかべながら特大のミサイルを放った。 「だったらその前にバレンタインが来るわね」  バレンタイン! 「そういえば――そうだね」  僕は澄ました顔でそういってみたものの、内心は動揺しまくっていた。バレンタイン! そうだ、バレンタインが来るじゃないか!  いや、本当は鷹尾のおかげで気づいたわけじゃない。成人の日の連休も明け、新年気分も薄らいだ街で最近やたらと眼につくのはチョコレート色とピンクのハートだ。バレンタイン商戦である。だが僕は昨年までのように、自分にとって重要なイベントではないと心のどこかで思いこもうとしていたのかもしれない。  実際のところ、世間ではアルファとオメガのカップル――いや、カップル未満の関係でも、バレンタインは「きっかけイベント」である。あちこちのハウス(アルファとオメガ専用の娯楽場で、デートの場でも出会いの場でもある)で特別イベントが開かれるだけでなく、結婚式場までぐるになって特別感を盛り上げる。だが僕は何年も、特定のアルファと特別な関係になったことはなかったし、短いあいだ、ボス――藤野谷さんと付き合っていた時ですら、バレンタインはそんなものではなかった。  鷹尾はそんな僕の動揺を見透かしたようだった。 「さすがに今年はこれまでとはちがうんじゃない」 「え? う、うん。そうだね……何か考えないと」 「チョコとかプレゼントとか、どうするの?」 「あ、え? どうするって……」僕は不覚にも口ごもった。 「鷹尾はどうしてる?」  彼女はまたまたニッコリした。いや、ニッコリというより、楽しみをみつけた猫のように眼を細めてニヤっとした感じだった。 「私のことは私の秘密」 「なんだよ、ケチ」 「三波もやっと年貢の納め時ってことじゃない。これまでひとをもてあそんだツケが回ってきたと思って、可愛く悩みなさいよ」 「もてあそぶってなにさ。僕はそんなうかつなことはしないよ」 「あら、そうなの?」 「そりゃそうだよ」僕はフォークを持ったまま片手をふる。「真剣なバレンタインなんて無縁だったんだ」 「あら、ほんとに?」 「しらばっくれてさ。知ってるだろう。バレンタインにアルファにうっかりOKなんて出そうものなら、ろくなことにならない。例外は……一度あったけど、結局あれだけだし……」  僕は藤野谷さんのことを思い浮かべた。バレンタインは結局、別れるきっかけにしかならなかった。 「なるほど、ではこれが三波の初バレンタインというわけ」  鷹尾はエラそうに腕を組む。 「だったらここはやはり、試行錯誤がいちばんよね。いろんな選択肢があるわよ。プレゼントもチョコレートも。手作りするか、高級品を買うか、相手の好みは何かとか、リサーチは得意でしょ?」 「先生、コツを教えてください」  僕は冗談めかしながらなかば本気でそういった。鷹尾に何年もつきあっている誰かがいるのは知っている。僕は直接紹介されたこともないし、結婚するという話も聞かないが、ということは彼女はこれまで、バレンタインやクリスマスのようなイベントをこなしてきたはずだ!  しかし鷹尾は即座に真顔になって「だめです。コツは自分で体得しないと」という。 「どうして急にそんなサドになるのさ」  「サドじゃなくてスパルタなの」  きっと僕は情けない顔をしていたはずだ。しかし鷹尾は無情にいいはなち、ゆっくりとケーキの最後の一切れを口にはこんだ。  まったく、世の中には行事が多すぎる。クリスマスとお正月イベントをこなしたと思ったら、今度はバレンタインとは。昨年までの僕ならここで思考をとめていただろう。しかし今年はそうはいかなかった。何しろ今年は――今年は峡さんがいる。  というわけで、その夜、僕はネットを検索しながら悶々としていた。鷹尾にはあの後もさんざんからかわれたが、こんなに早くバレンタインの存在を思い出させてくれた彼女に逆に感謝することにしよう、と考える。準備の時間がたくさんとれるということじゃないか。  準備。  つまりチョコを手配して、プレゼントを考えて……しかしプレゼントといえば、クリスマス前にさんざん悩んだばかりじゃないか!  だいたい峡さんはこれまでバレンタインって何かあったんだろうか? 僕よりずっと年上のあの人はきっと今までも――という想像が頭をよぎったが、僕は思考を無理やり切り替えた。こんなことは気にしても仕方ないのだ。それにまだ一月だ。  僕は検索窓に「チョコレート バレンタイン」「チョコレート プレゼント」「バレンタイン 四十代男性」等々と入れてみる。手と眼を忙しく動かしながらも、だんだんインターネットはあまりヒントにならないような気がしてきた。もっと別の方向で考えよう。そう、今の僕は週末をほとんど峡さんのマンションで過ごしているから、彼の好みはだいたいわかっている(と思う)。彼は甘いものは嫌いじゃない。お酒も嫌いじゃない――時々僕より強いのではないかと思うときもある。チョコレートは洋酒に合うから、ここはすごく良いチョコレートをリサーチして、洋酒とセットで大人っぽくさらっと渡し――それとももっとイベントを強調した方がいいのだろうか。高級チョコなんて上をみたらキリがない――  頭の中で自問自答をくりかえしていたとき、モバイルが鳴った。峡さんだ。 『起きてた?』 「あ」僕は時計をみる。いつもなら横になっている時間だ。 「夜更かししてました。あの、峡さん――」 『ん?』  どんなチョコレートが好きですか、なんて間抜けな質問をしそうになって、僕はあわてて別の言葉をさがす。 「友達と今日、恒例のスイーツ会に行ったんです」 『美味しかった?』  そのまま鷹尾と食べたケーキの話をしながらも、僕の頭のなかではいくつかの問いがぐるぐる回っていたが、僕はうっかり口に出さないように気をつけた。だってさ、三波朋晴! まだ一月なんだから、バレンタインの話なんて早すぎる。でも話はいつのまにか鷹尾の手作りマフィンのことになっていて、そのついでにひとつだけ、僕はたずねたのだった。 「あの、峡さん。スイーツの手作りってどう思います?」  峡さんは一瞬黙り、それから僕の質問の意図とはちがうことを答えた。 『俺はどっちかというと苦手だな。料理とお菓子は別物でね、うまくできたためしがない。でも母が作るお菓子は好きだったよ。パティシエとコックはちがう才能らしい』  相槌を打ちながらも僕の頭の中はまた混乱した。峡さん、いったい僕はどんなチ・ョ・コ・レ・イ・トを用意すればいいんでしょうか? 『手作りって――豆から?』  それから数日後、佐枝さんに「手作りチョコレートってどう思います?」とたずねると、戻ってきたのはこんな斜め上の返事だった。さすが佐枝零、僕の大好きなアーティストは回答も一味ちがう。  いろいろ比較検討したあげく「手作り」を試みたくなった僕は、結局彼に連絡したのだった。いささか間抜けだとは思ったが、峡さんは佐枝さんのもっとも近い縁者だし、佐枝さんはアーティストだけあって手先も器用だし、料理も得意だ。鷹尾と一緒に何度か佐枝さんの家にはお邪魔しているが、出されるつまみの類はみな美味しい。彼に相談することには気恥ずかしさもあったが、どうせ僕と峡さんのことは知られているのだから、ここは開き直ろうと思ったのである。  実際チョコの話を持ち出すと、すぐに意図を察せられてからかわれてしまった。しかし予想外だったのは、佐枝さんはボスとこれまでバレンタインチョコの渡しっこをやっていないという話だった。正直いって僕は呆れた。ボスは十代のころから佐枝さんに執着していて、昨年やっとのことで思いをとげたというのは重々わかっている。わかっているが、これまで一度もバレンタインチョコを渡していないだって?  ともあれその隙につけこんで、僕は佐枝さんに手作りチョコの特訓を申しこみ、ボスが不在の休日に達成した。  特訓はだいたいうまくいったと思う。めずらしく都内でも雪の降った寒い日で、僕は事前に教えてもらった道具とエプロンと数種類のチョコレートを持参でお邪魔した。佐枝さんの育てのお母さん(つまり峡さんのお母さんということだが)が教えてくれたレシピで、数種類のチョコを溶かしたりケーキを焼いたりした。冷蔵庫でチョコを固めるあいだは映画を見た。  映画の選択はちょっとまずかったかもしれない。エプロンについたチョコの茶色い染みが、乾いた血を連想させてしかたなくなったからだ。ええい、三波朋晴、これはバレンタインのためだぞ! もっとロマンチックなことを想像しろよ! 「それにしても、やっぱり意外なんだけど」  佐枝さんはゾンビの頭が飛び散るのをみつめながらのんびりした口調でいう。この人はあんがい、ホラーやスプラッタも平気なのだ。 「何がです?」 「三波ってその――こういうイベントには慣れてると思ってた。モテるにきまってるし」  僕は肩をすくめる。 「イケイケアルファは好みじゃなかったんで」  とたんに佐枝さんはにやにやした。 「だから峡なのか」 「やめてくださいよ」  鷹尾ならここですかさず突っこんできそうだが、ありがたくも佐枝さんはそれ以上追求してこなかった。まったく、僕はこの人が大好きだ。  こうして準備はいろいろと進んだはずである。  ところが二月に入っていざ本番の用意をしようと思った途端、僕はまた迷いの泥沼に踏みこんでしまった。やっぱり高級チョコを買ったほうがいいのでは? と思い始めたのだ。佐枝さんの家で特訓したレシピは峡さんのお母さん直伝だから、それがバレちゃったら気まずくないか、などと考えてしまったり、一大決心で決めたプレゼントに手作りチョコが釣り合わないかもとか……。  あーもう! 僕にはよくわかっていた。これははたからみればどうでもいいような悩みだ。そのときふと気づいた。僕はどうして、世間が決めたイベントひとつにこんなにこだわっているんだろう?  答えはすぐに出た。それは僕がこれまで、バレンタインの告白や贈り物のやりとりをすべて、本気にとらないようにしてきたからだ。理由のひとつは明らかだった。幼なじみふたりとの関係のせいなのだ。  ヒートがはじまってから数年のあいだ、僕にとってバレンタインというイベントは「何とかうまくやりすごす」ものに他ならなかった。イベントにかこつけて告白されるのも、イベントにかこつけて真意をごまかされるのも嫌だった。そのあとも自分が強く惹かれる相手に出会わなかった僕は、ずっとバレンタインを醒めた眼でみていたと思う。  なのに今の僕はどうも、そんな過去の自分に追いつめられているらしいのだ。いや、馬鹿にされている気もする。 「悩みがつきないみたいね」  ついに二月十四日の前日になって、ランチタイムの鷹尾はあいもかわらず菩薩の表情を浮かべている。もっとも僕はもうだまされない。この菩薩の中身はスパルタ軍団なのだ。 「三波が楽しそうで、もう可愛くてたまらない」 「何? 何それ?」 「明日はどうするの?」 「会社帰りに行くことになってる」  週末に会えないときがあっても、峡さんとは毎日の日課のように寝る前にモバイルで話をしていた。最近の話題はバレンタインではなく引越である(引越もいくらか悩みの種であることをつけたしておこう。僕の服と靴の数は標準よりかなり多い)。  しかし明日の約束はすんなり決まっていた。峡さんは特にバレンタインを強調したりはしなかったし、僕もこういっただけだ。 「二月十四日だから、夜、峡さんのところへ行きたいです」 『おいで。待ってる』  モバイルから聞こえる峡さんの声は少しかすれて、セクシーだった。

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