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蜜柑とかるた
一月三日。峡さんが育った家の飾り棚にはガラス製の鏡餅が飾られていた。細かな気泡が渦を巻く無垢ガラスでつくられたお餅が重なり、てっぺんにはちみつ色の蜜柑がのっている。その上にガラスで作られた小さな葉っぱ。
「すごい、綺麗ですね。ガラスの鏡餅なんて初めて見ました」
僕は透きとおった蜜柑をつつこうとする指をあわててひっこめる。行儀! 行儀が悪いぞ僕の指!
しかし佐枝家の奥方――峡さんのお母さんは横でにこにこ笑っていた。小柄で髪は短いおかっぱ頭で、年齢は失礼だから聞いていないけれど、とても可愛らしくみえる。
「家族でこっちに住んでいた時は佐井の本家の分とあわせてお鏡をついていたんだけど、今は私たちも母屋にいるからね。これは友人のガラス作家が作ったのよ」
「そうなんですか」
「触っていいわよ」
僕の指の行儀悪さは彼女にちゃんとみられていたようだ。
「す、すみません」
「壊れないから大丈夫。あ、トモ君、峡の小さい頃の写真みたい?」
ひきつづき僕の心臓は唐突な誘いに飛び上がった。落ちつけ、落ちつけってば。そもそも峡さんの実家にいる時点でドキドキものなのに、写真だって?
「はいっ、見たいですっ」
「離れにしまってあるからちょうどよかった。赤ちゃんの時のお正月写真がすごいのよ。お鏡の横に峡がいるんだけど、顔がね……待って、持ってくるから」
その時うしろから肘を軽くつかまれた。僕の首のうしろで声が響く。
「お母さん」
「峡。なに?」
「写真って」
「トモ君が退屈しないようにと思って」
まうしろに立つ峡さんの声は不満げだった。
「俺の写真でしょ?」
「ただの写真よ。何十年も前のね」
「見せるなとはいいませんけど――」
「いいじゃないのトモ君なら」
「朋晴」首のうしろで峡さんがささやく。「この人につきあってるときりがないから、こっちへおいで」
「え…でも」
「俺が楽しくないから」
腕をとられ、引っ張られる。お母さんはふふっと笑った。内緒話をするように「あとでね」というとひらひらと手をふり玄関へ向かう。母屋に戻るらしい。
僕は峡さんに片腕をつかまれたまま、もう片手で飾り棚の鏡餅を指さした。
「あれ、いいですね」
峡さんは蜜柑を指でつついた。僕より手が早い。なんだかずるい。
「そう? じゃ、来年はうちに貰って飾る?」
それは素敵だな、と一瞬思ったものの、僕の口は考えに追いつかなかった。それでうっかりこんなことをいってしまうのだ。
「僕は鏡開きでお汁粉を食べたいです」
峡さんが吹き出し、僕はしまったと思う。
「了解」
佐枝家の年末年始は、一家が長年付人として仕えている本家、佐井家の用事があり、ふつうはなにかと忙しいらしい。ところが今年は様子がちがい、そうでもないと峡さんはいった。というわけで、僕は彼に同行してここに来ているのだ。そう、初めての――彼氏の実家ご挨拶である!
当然のことながら僕は緊張しまくっていた。峡さんの車で昼前に到着して、僕はまず峡さんのご両親に、ついで佐井家の現当主である佐井銀星氏(こみいったいきさつがあるらしいが、彼は佐枝零さんの実の祖父だという)に年始と初対面の挨拶をしたのだが、緊張したおかげで自分が何を喋ったのかもよく覚えていないしまつだ。
今日の話はあとで実家の姉にネチネチ聞かれるにちがいないのに、覚えていないのはまずい。言い訳を考えなくては――などと馬鹿なことを思ったのもつかの間、峡さんのお父さんが作ったという立派な料理をいただき(峡さんいわく、お父さんは――峡さんと同様に――料理が趣味らしいのだが、出された食事は僕にとっては「趣味」の域を完全に超えたものだった)今夜は離れに泊まっていってねとお母さんにいわれ、そして母屋と同じ敷地にある二階建ての家に案内されたというわけである。
今でこそ佐枝のご両親は佐井家の母屋で生活しているが、本家に人がたくさんいたころはずっとこの家で生活していたのだという。つまり子供時代の峡さんが育ったのはこの家なのだ。僕の昔の実家を思い出させるような木造の家で、畳のへりやガラス障子の模様はどこか懐かしく、ほのかに古い木の匂いがした。
「零さんもこの家に住んでいたんですか?」
壁に飾られた風景画を見上げながら僕はたずねる。僕が第一のファンを自認するアーティスト、佐枝零さんは峡さんと血のつながりはない(戸籍上は甥ということになっている)が、佐枝家にひきとられたあと、峡さんの兄弟のように育ったと聞いている。この絵も彼が描いたのかもしれない。
「ああ。子供部屋、見たい? 俺が家を出たあとは零がしばらく使っていた」
峡さんがそんなことをいってくるのは、僕が佐枝零のファンだと知っているせいだろうか。
「見たいです!」
尻尾があれば思い切り振っているぞと思いながら返事をすると、峡さんは先へ立って二階へ向かった。狭い階段にも僕の昔の実家を思わせるところがあって、僕は感無量だった。好きなアーティストの子供部屋を見られるなんてファン冥利につきる。そこに錯覚でもなんでも、自分と重なるようなところをみつけられればなおさらだ。
小学校から中学を卒業するまで佐枝さんの勉強部屋だったという和室には、まだ子供用の学習机が置いてあった。学校の課題で作ったらしい手の彫刻が飾ってある。僕はキャスターのついた椅子に座り、壁に貼られた別の絵を眺めた。
「あれ、零さんの絵ですよね?」
「朋晴は零の絵が本当に好きだな」
峡さんの口調には小さな笑いがまじっていた。
「ええ、もちろんです」
「子供の頃に零が描いた絵、母に聞いたら喜んで見せてくれるよ」
「そうだ、写真があるっていってましたよね?」
思い出してたずねた僕に、峡さんはこんどは苦笑いでこたえる。
「俺の写真はいいよ」
「ずるいです。僕の子供の頃の頭ぼさぼさの写真、先月実家で見たくせに」
「あれは朋晴のだから」
「何いってるんですか」
もうっと口を尖らせたとき、廊下の方から小さく「峡~集まって~」と呼ぶ声が聞こえた。お母さんの声だ。
「お年玉つかみ大会やるよ~」
「お年玉つかみ大会?」
僕はオウム返しにつぶやき、峡さんはまた苦笑いを返した。
「うちの恒例なんだ。俺はたまにしか加わらないけど」
「何ですか?」
「行けばわかる」
『お年玉つかみ大会』は文字通りのイベントだった。大きなガラス瓶に入れられた小銭を片手でつかみだすのである。
佐井家の母屋の座敷で神妙な顔でガラス瓶を囲んで座っているのは、僕、峡さん、峡さんのお父さん、佐井家の当主の銀星氏(!)そして小学生くらいの男の子がふたり。お母さんは特に説明もせず、僕と峡さんに向かって彼らを「あっくんとトムよ」と紹介しただけだ。親戚なのだろうか。
「毎年やっている人は知っていると思いますが、ルールを説明します。簡単です。この瓶に片手をつっこんで、中を見ずにいちばんたくさんお金をつかめた人が勝ち! 手を入れる前に観察タイムがあります。瓶の外から三十秒、眺めてよろしい。でもそのとき瓶を触ったり、揺らすのは禁止です。中に入ってる小銭は一円、十円、五円、五十円、五百円、そしてラッキーコインです」
佐枝のお母さんが陽気な声で解説する。
「零と天君がいないのは残念だけど、あっくんたちがいるからまあ、いいわね。いちばんたくさんつかめた人が勝者、ただしラッキーコインをつかんだ人は今年のラッキーマン。では順番をきめます!」
音を絞ったテレビには駅伝が映っているが、小学生ふたりの瓶を睨む眼つきは真剣そのものだし、驚いたことに佐井銀星の視線も鋭かった。
というわけで僕もしげしげと瓶を観察する。透明なガラス瓶の三分の二ほどの位置にまで銀色と銅色のお金が入っている。ちらりと見える金色のコインは本物のお金ではないが「ラッキーコイン」とお母さんが呼んだもの。
この日のために小銭を貯めているんだ、と峡さんがまた苦笑いしながら小声で説明を足してくれた。参加者は七名。佐枝さんと彼のパートナーである藤野谷天藍(僕のボス)も今日ここへ訪問するかもしれないという話だったのだが、どうやらそれはなくなったらしい。
佐枝さんに会えないのは残念だが、負けず嫌いのアルファであるボスにこんなことをさせたらいったいどうなるか。それを思えば来なくてよかった、などと僕は勝手なことを考えた。だいたい、峡さんと一緒にいるところをボスに見られるのも気が進まない。照れるやら気恥ずかしいやらでゲームどころじゃなくなりそうだ。
「はい! 行きますよっ。じゃんけーん」
さて、威勢よくはじまったお年玉つかみ大会、なんと峡さんは下から二番目の六位だった。子供の頃からやってるから……と余裕をみせていたのに、本人も「あれ?」という顔で、僕は思わず吹き出してしまった。お母さんは「驕れる者は久しからず…手が大きいことに頼るからよ」とあっけらかんとした顔でいう。あっくんとトムが「驕れる者は久しからず」と繰り返す。
ちなみに最下位は峡さんのお父さんだったが、彼はちゃっかりラッキーコインを捕まえていた。一位は十一歳のあっくん、僕は二位で、どちらも勝因は五百円玉をたくさんつかんだため。同じく十一歳のトムが三位、お母さんは四位、銀星氏は五位だが、僕のみるところ銀星氏は手を抜いたのではないか。
ともあれ、ガラス瓶を観察するところから(僕も含めて)ワイワイキャーキャーと大変な盛り上がりだった。小銭を貯めなくてはいけないけれど、実家の姉にも今度教えてあげよう、と僕は決意する。実家では正月も盆も、大人が集まるとすぐ麻雀をはじめるのだが、甥の湊人をあれに加えるわけにもいかない。
お年玉つかみのあとは百人一首。お父さんがいい声で札を読んだが、今度は峡さんと銀星氏の一騎打ちのような趣になった。僕とあっくんとトムは三人とも蚊帳の外で、まったく取らせてもらえない。しかし峡さんも銀星氏も子供相手だからと手を抜くつもりはないらしい。あっくんとトムは飽きてしまって読み終わった絵札で遊びはじめ、僕は僕で思いがけない峡さんの特技に呆れていた。断言するが、みとれていたのではない。
「ゲームって本性が出るのよねえ」
お母さんがのんびりといった。
「峡はかるたでは絶対譲らないのよ。零は札がどこにいるのかわかってるときも、手を出すのが一瞬遅くなるの。来年は零と天君も一緒にやりたいわね」
もしボスがこのゲームに加わったら大変なことになりそうだ。いや、逆に佐枝さんに取らせてやるかも……などと想像し、僕は内心にやにやしていた。でも来年もしこの場に佐枝さんとボスがいて、みんなでゲームなんてことになったら、僕は遠くから見守りたいような気もする。
百人一首を終えたころにはテレビの駅伝もゴールしていた。お父さんが蜜柑のカゴを運んできたが、銀星氏はいつのまにかいなくなっている。
「朋晴、蜜柑は?」
「ください」
峡さんにそう答えると、ひとつぽんと投げてくれるのかと思いきや、外皮をきれいに剥いてから渡してくれた。自分で剥くのに……と一瞬思ったものの、白い筋も丁寧にとってあるのをみて僕は妙にこそばゆい気分になり、ありがたくいただくことにした。
僕は蜜柑の筋をきれいにとったりせず、いいかげんに食べるのだけど、峡さんはちがうのだ。視線を感じてふと眼をあげるとお母さんと眼があった。僕らはふたりで何となくふふふ、と笑った。
「そうだ、トモ君。峡と零の写真、みる?」
「もちろん!」
「待って、持ってくる。そうそう、小学生の峡の『あのね帳』も見せてあげようか。先生との連絡日記。面白いのよ~」
「……お母さん」
峡さんが蜜柑を剥く手をとめ、呆れたような声をあげる。でも佐枝のお母さんはもう立ち上がっていた。僕は笑いながら峡さんの手の中の蜜柑を取り上げた。
「峡さんの分は僕が剥きます」
畳の上に蜜柑の香りが漂った。おやつを食べ飽きたあっくんとトムが障子をあけて廊下を駆けていき、お父さんは立ち上がってのびをする。窓の外の空は晴れやかなお正月の色だった。午後の日差しが畳に座る峡さんと僕をまっすぐに照らしている。
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