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釣った魚は逃さない
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本編完結後、12月くらいのエピソード。
*
「湊人 ……ちょっと重いんだけど……」
「………」
「そんなホラー映画みたいな顔で睨まないで」
「………」
「ほらほら、ミニカーで遊ぼ? ね?」
「………」
「ブロックもあるよ?――あ、そこひっぱらないで!」
シャツをぎゅっと握った小さな手がさらに袖のボタンをぐいっと引き、僕は思わず叫んだ。
「湊人、だめよ!」
こたつ台を拭きながら姉の美晴も叫んだが、甥の湊人(三歳)は僕の膝に乗っかったままへらへらと笑う。
「こら湊人、糸をひっぱらない! ボタンもだめ! 今はただバオバブの木みたいにトモにしがみついてなさい」
バオバブだって?
「姉さん」僕は袖をガードしながら姉に文句をつけた。
「バオバブってなにさ。コアラならともかく、意味がわからない」
「なんでそこにこだわるの? カンガルーでもいいわよ?」姉はしれっと陽気な声でいう。
「今日はほんとトモから離れないわねえ。まあ、じつはけっこう助かってるんだけど。トモが湊人をくっつけてると私は楽~」
「僕らそろそろ帰るんだけど」
「しっ。帰るときは忍者のように帰って!」
「姉さんあのね……」
「これってあれかなぁ、やっぱり独占欲のあらわれかな。釣りそこねて悔しいというやつかな」
ふいに戸口に影がさし、かすれた低めの声が響く。
「朋晴、そろそろ失礼しようか」
「峡さん、そうですね――そうなんですけど」
僕は声の方をみあげるが、湊人は逆にあさっての方向へ顔をそらした。美晴が声をあげて笑い、峡さんは苦笑する。
「俺、嫌われてる?」
僕はもごもごと答える。
「いやたぶん、人見知りしてるだけだと……もともと人見知りなんで……」
「朋晴をとったって思われてる?」
湊人は僕にしがみついたままだ。やれやれ、と僕は片手で彼を膝に抱えなおす。
「我が息子ながらあきらめが悪いわね」
美晴がにやにやしながらそういった。
惚れた欲目があるのは承知の上で、峡さんのスーツ姿はよいものだ。と僕はつねづね思っている。だが休日はたいていラフなスタイルだから、最近はあまり彼のスーツをみない。そんな峡さんが今日はスーツで、僕はすこし嬉しかった。ちなみに僕もスーツだ。今日の峡さんは僕の実家へ――なんてこった――僕の両親に挨拶に(!)来るというので――つまり僕らは一緒に峡さんの車に乗って来たのだった。
前の週、電話で母に訪問を伝えたとき、彼女は何もいわなかったものの、佐枝の名前に驚いていたのはたしかだった。そして今日僕と峡さんが玄関に立ったときは、彼を見たとたん父と母と美晴と義兄の四人がそろって「おおっ?」という顔になったのも僕は見逃さなかった。
しかし峡さんは落ちついたものだった。思えば彼は佐井家の付人として名族の間で場数を踏んでいるのだから、ただの庶民のベータでしかない僕の実家など、ものの数ではないはずだ。
「はじめまして。佐枝峡と申します」
彼の声を聞いて妙にどぎまぎした顔になったのは母さんと美晴だった。そうだ。僕は知っている。このふたりはこういう声に弱いのだ。僕と好みが似て。一方父と義兄はとくに表情も出さず、ごくふつうの挨拶をし、みんな神妙な顔をして座敷にすわり、僕は手土産の菓子折りを出した。そのときだった。
「トモ、トモーーーっ」
美晴の家の方から(座敷を中心につながった二世帯住宅なのである)走ってきた湊人が僕の背中に突撃した。
「湊人!」
美晴が叫び、両親はすこしあわてた顔をし、義兄はにやっと笑って、峡さんはにっこりした。一気に場がゆるんだ。
「あ、すみません。息子の湊人です」
美晴がそういったが、湊人は僕の背中にすがりついている。
「湊人、お行儀悪いわよ? 出てきて佐枝さんに『こんにちは』をいいなさい」
湊人はううん、と曖昧な声を発した。ぱっと顔をあげ、僕を指さす。次にその口から出た言葉はこれだ。
「……トモだ」
軽く咳きこむような音がして、横を向くと峡さんが口元に手をあてていた。
「そう、トモよ~それはわかってます」
美晴の声がすこし高くなるが、湊人は僕の脇腹にくっつくようにして座った。そういえば僕がこの家に来たとき、湊人はまずそこに座るのだ。
「こんにちは」
僕をはさんで湊人の反対側に座っている峡さんが、頭をかがめるようにしていった。湊人は僕の顔をみつめ、峡さんの方へ首をのばし、また僕の顔をみた。
「………」
僕は湊人の腕をつつく。
「湊人、峡さんだよ。あいさつして?」
「………こんにちは」
「不満そうだな」義兄がつぶやいた。
「いつもはもっとちゃんと挨拶するだろう?」
「トモのお相手なのを察してるのよ」美晴がいった。
「予約してたから」
「姉さん!」
僕はあわてて口を挟んだが遅かった。峡さんが不思議そうな表情になる。
「予約って?」
「あ」
美晴は一瞬しまったといいたげな表情になったものの、めげなかった。
「湊人は朋晴がお気に入りで、大きくなったらお嫁さんにするっていってたんです。すみません」
峡さんの眉が動き、口元に微笑がうかんだ。
「それは――申し訳ない。湊人くん?」
「………」
「朋晴は私が先にもらいました。ごめんなさい」
「………?」
湊人はあいかわらずきょとんとしたまなざしのまま、僕のシャツをぎゅっと握った。
それからというもの、湊人は僕にまとわりついて離れようとしなかった。僕をかくれんぼに誘い、いつもなら飽きて美晴や母のところへ行くところが、今日は延々と僕に新しいおもちゃのプレゼン大会を続け、やっとすこし疲れたのか膝に乗って――で、今にいたったのだ。
他の家族はというと、最初こそ緊張した様子もあったものの、湊人のせいか昼食にとった寿司とビールのせいか、早々にくつろいでしまった。峡さんの趣味が料理と聞くなり両親はそろって彼をキッチンへ連行し(この家を建てる前から漬けている梅酒を自慢したいのだろう)美晴は美晴で彼らがいなくなるなり僕の背中をバシバシ叩いて笑いころげるしまつである。姉の反応はいまひとつよくわからなかったが、義兄は穏やかに「良さそうな人でよかったな」といった。
「自分より年上とは思わなかったけど」
「ええ、まあ、それは……」
「一緒に住むって、どこに?」と姉が口をはさむ。
「峡さんのマンションに僕が引っ越す予定」
「広いの?」
「3LDKだよ」
「あの年齢だと落ちついているわぁ。ヒロがはじめて挨拶に来た時とは雲泥の差」
姉は義兄に向かってにやにや笑う。
「それ今いうか?」
「兄さんと千歳がどんな顔するか見ものだわ。籍いついれるの? 式は?」
「あの……そういう話はまだ先……」
「式やるよね? ぜったいやろうね? ふたりともタキシード着て! トモはドレスもいけるかもしれないけどここはタキシードで! あ、でも燕尾もいいわねぇ。トモはベールをかぶるのよ! 湊人にベールの裾を持たせるの!」
「美晴、舞い上がるな。湊人もトモ君も趣味につきあわなくていい」
「いいじゃない、夢見る年頃なんだから。まあ、ほんとに式あげるなら千歳がこっちに帰ってるといいわねえ。アレックスも喜ぶわよ。日本の結婚式を見たいっていってたもの」
途中で義兄は煙草を吸いに外へ行ったが、美晴はかまわず話し続けた。彼女自身が話し好きというのもあるが、僕は家族の中でこの姉といちばんよく話をしているような気がする。それにしても峡さんはいったい何をしているのだろう? そうこうするうちに午後は過ぎていき、湊人は遊び疲れてもまだ僕の膝に乗っていたのだった。
両親のキッチンに戻った峡さんが暇をつげるのが聞こえた。美晴は今日何度目かのにやにや顔を僕に向ける。
「母としては息子の失恋は残念だけど。そろそろ剥がすか」
「剥がすって、シールじゃないんだから」
「でも湊人はトモのくっつき虫なんだもんね~ほら、剥がしちゃうよ~」
美晴は僕の膝にいる息子の背中を両手でぐいっとひきよせる。すばやく自分の方を向かせると、ひょいと抱いて立ち上がった。慣れたものだ。
「今日はありがとねトモ。我が息子、残念ながらトモは他の釣り糸にかかっちゃったから、今回はあきらめなさい」
「ちょ、姉さん、ひとを魚みたいに」
「人生はぱっぷぱっぷぱ~だからね!」
「ぱっぷぱっぷぱ~」
姉の言葉をくりかえして、何がおかしいのか湊人がけたけたと笑った。僕はそっと肩に触れる手を感じてふりむく。峡さんが僕のスーツの上着をさしだしている。僕は湊人のおかげでずりあがったシャツを直し、ひっぱられた袖のボタンをたしかめて上着を着る。峡さんの眼がふと細くなり、僕の肩から糸くずを拾った。
美晴の腕の中で湊人がぽかんとした顔をしていた。
「今のうちに行っちゃってください」
美晴がいった。「たぶんあとで大泣きするから。トモが帰るといつもそうなの」
峡さんはうなずいて微笑んだ。僕らは一緒に出て、車に乗る。窓から外に手を振ると門の前で家族全員が手をふりかえした。
車の中は静かだ。かん高い湊人の声や美晴のおしゃべりを聞いていたせいか、いつもより静かに感じる。峡さんは黙ってハンドルを握っている。
「あの――どうでした?」
思わずそうたずねたのは、彼の声を聞きたくなったからだ。
峡さんはちらっと僕をみて、視線を戻した。
「楽しかったよ。でも」
「でも?」
「あんな小さな子に予約されていたとは知らなかったな」
「え?」
「朋晴、俺が知らないところで他にも予約されてない?」
「峡さん――もう」
からかわれているのは承知していた。なのに僕は気のきいた言葉を返しそこね、狭い空間に峡さんの軽い笑い声が響く。道はゆるやかな下り坂だ。前を行く車のテイルランプが赤く光った。
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