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第1話

 机の端に自分のマグカップが置かれたのを俺は目の端で捉えた。 「ちょっと」  去って行こうとする女子社員を呼び止める。  経理担当の渋谷 公子(シブヤ キミコ)が小首を傾げながら振り返った。 「何ですか?」 「これ、何?」  カップの方に顎をしゃくりながら尋ねると、渋谷さんの顔に困惑の表情が広がった。 「えっと、コーヒーですけど。私も飲みたかったので、ついでに皆さんの分もいれたんです」 「そういうことは今後しなくていいから」  かけている銀縁眼鏡のブリッジに触れ、顔を上げると、唖然とした顔の渋谷さんと目が合う。 「君はお茶くみをするためにこの会社に入社したのか?違うだろ。お茶は各自自分でいれる決まりなんだから、君が変な気を使う必要はない」 「はい。すみませんでした」  渋谷さんが声を震わせながら俺に頭を下げる。  職場内の空気が静まりかえった。 「ああ。くみちゃんのいれるコーヒーは本っ当に美味いよなあ」  不自然なくらい明るい声のした方に視線をやると、営業の大賀 剛士(タイガ タケシ)が自分のコーヒーカップを持ちあげて、乾杯をするようなしぐさをしている。 「自分でやると、どうしても泥水みたいな味になっちゃってさ。くみちゃん、いつもありがとうな」 「剛士さん。いえ、そんな」  先ほどまでの暗い表情を一変させ、渋谷さんは頬をバラ色に染めると、笑顔を浮かべた。  俺はそのやりとりを無表情で眺めると、立ち上がった。 「大賀。先週の出張の領収書、今日までだから。過ぎると自費になるぞ」 「分かってますよ、成澤課長」  課長の部分を強調され、俺は顔を顰めた。  俺はそのまま部署のある部屋から足早にでると、休憩スペースにむかう。

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