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第1話 白い手の出会い―葉月

〈運命のつがい〉について、世の中にはたくさんの物語がある。  たくさんの馬鹿げた物語だ。運命の相手とのたった一度の出会いによって世界の在り方が変わってしまう、物語にはそんなことが書かれている。一瞬で世界がバラ色になるとか、何もかもが輝いてみえるとか、甘い気持ちで体じゅうがわきたつとか。  もちろんこれはベータの連中がこしらえた夢物語だ。彼らが運命と呼んでいるのは、オメガの発情という生理現象と、それに応じるアルファの反応をロマンチックにいいかえたものにすぎない。  ――と、こう書かれた記事を僕はどこで読んだのだったか。藤野谷家の書庫か、実家の書棚か、学校の図書室かもしれない。  ベータの人たちには申し訳ないが、僕は完全に同意する。逃れたくても不可能な発情期の苦痛もベータにはロマンチックにみえるらしいから、こんな勘違いが起きるのだろう。世界の在り方が変わるような運命の出会いなんて存在しない。あるのはただ、生まれ持った体に備わる自動的な反応だけだ。  十九歳のあの日まで僕はそう信じていた。    * 「葉月、どこへ行く?」  水面に向かって一歩踏み出したとたん、うしろから藍閃の声がかかる。  聞かれるのは予想していたから、僕は半歩足を引いて藍閃の方をふりむく。いかにもアルファらしい長身がそこにいて、彼の匂いがふわりと届く。彼らアルファの匂いはいつも、放物線を描いて僕の上に降りかかるようだ。網にかかる、そんな言葉が頭にうかぶ。皮肉にしても比喩にしても、そんなにずれていないだろう。オメガはいつだってアルファの網にかかる。そうなるようにできているのだ。 「岸に近いところ。写真を撮りたいんだ」  僕は短く答えて、斜めうしろあたりでガヤガヤしている、忙しそうな人々の方へ頭をふった。 「そろそろはじまる。遠くには行くな」  言葉は命令口調だけど、父親の天青ならもっと怖ろしい声で、僕を押さえつけるようないい方をするだろう。藍閃にそんなところはない。  でも僕の中にはほんの少し反発心がわきあがる。どうしてなのか、自分でもよくわからない。藍閃は優しいのに。  昔から僕は彼をよく知っている。四つ年上で、小学校にもあがらないころから知っているアルファで、名族の直系。それなのに優しくて気遣ってくれるなんて、いいね。とある場所でちょっと話しただけのオメガにそういわれたこともある。 「すぐそこだよ」  僕はカメラのストラップをつかんでみせた。 「準備が終わるまで、藍閃も忙しいんでしょう?」  藍閃は視線を一瞬横に流した。かすかな懸念、とまではいかないが、何かを案じている気配を僕は嗅ぎとる。そうはいっても、これはいつものこと。藍閃はいつも何かを心配している。僕がどこにいるのか、何をしようとしているのか。  僕のことだけじゃない。父親や藤野谷家のこと。藍閃はいつも、ここにあるのとは別の何かを気にしていて、うわの空だ。  だから今だって、案じているのはきっと、僕のことじゃない。第一名族のアルファにとって、蓮の会――今日の行事の名だ――はただの暇つぶしじゃないのだ。「藤野谷家次期当主の婚約者」にすぎない僕はテーブルのおまけだが、藍閃はここに集まる人たちにそれなりの用事がある。たぶん根回しとか顔つなぎとか――僕にはよくわからないけれど。 「そうだな。まさか、葉月も水に落ちはしないだろうし」 「まったく。子供扱いしないでよ」  藍閃は小さく笑った。僕の肩に腕をまわし、短く抱擁して離れる。彼の匂いに包まれても僕の体には何の反応も起きなかった。もちろん、抑制剤を飲んでいるからだろう。藤野谷系列の製薬会社が開発した薬は、僕の不安定で激しいヒートを抑えるには有効だった。副作用があるために長期の服用はできないが、アルファに出会うたびにびくびくしなくて済むのはありがたかった。  さすがに、婚約者に肩を抱かれても「何も感じない」のはどうかと思うこともある。でも僕は事実上藤野谷家のもので、あと半年で正式に籍をいれてつがいになるのだし、つがいになればヒートの苦痛も落ちつくのだ。  昼ドラに登場するアルファとオメガのカップルなら、婚約していようがいまいが、籍を入れる前に衝動に負け、簡単につがいになってしまう(その結果さまざまな昼ドラ的トラブルに巻きこまれる)のだが、現実はそんなものではない。  僕は岸辺へと遊歩道を下った。水は池と呼ぶには広すぎるし、湖というには小さい、いや、小さく感じる水面だった。  毎年この時期になると一族で訪れるのに、僕はこの水の本当の広さを知らない。見た目で決めつけるなら「池」だと思う。でも佐井の一族も藤野谷家の人たちも、みんなここを「湖」と呼ぶ。水面が狭いのは岸辺から中央にかけて生長した蓮に覆われているためだし、向かい側の岸から立ち上がる低い山の向こうにはべつの湖があるから、この池もまとめて「湖」でいいのかも。  そうだ、たしかに子供の頃、僕はこの水辺で泥に足をとられて、落っこちそうになったことがある。藍閃はどうしてこんなことまで覚えているのだろう。  どうでもいいことを考えながら柵に区切られた道を歩いた。新しいカメラのシャッターチャンスを探す。遊歩道は一族が集まる小高い場所から岸辺まで下り、ぐるりと水を一周している。ちらりとふりむくとあずまやのあいだにテーブルが並べられているのがみえた。ちかちかと光を反射するのは銀器だろう。名族が開催する「蓮の会」は庶民の花見とは格がちがう。  何を撮ればいいだろう。中央のひらけた水面は薄曇りの空を映している。蓮に覆われた岸辺では、緑のあいだから立ち上がるようにのびた茎の先に淡いピンクの花が開く。僕は手すりに肘をかけ、たわむれにカメラを構えてファインダーを覗く。放射状にひらいた花はピンクから白のグラデーションがほとんどだが、濃い紅色のものもある。  僕は紅色の花を中心におき、四角の枠で世界を切り取ってみた。シャッターに指をかけてみるものの、押すつもりはなかった。  このカメラは僕が藍閃との婚約式をすませ、藤野谷家の離れで暮らしはじめたあとの最初のデートで、藍閃が買ってくれたものだ。僕の小遣いではもちろん買えない値段で、父の銀星ならおろそかに買い与えるはずのない高価なレンズも一緒だった。どういうわけか藍閃には僕が欲しい機種がわかっていた。  あれから半年以上経っても、僕はまだこのカメラの重みや手触りに慣れていない。僕にはこれを使いこなせる腕がない。本気で欲しかったわけではなく、何となく憧れていただけの物にすぎなかったのかもしれない。  それでもカメラを手に入れた瞬間は嬉しかった。藍閃がすこし強引な様子で、僕のためらいを押しのけるように高価なカメラとレンズ一式を買ってくれた様子も悪くなかった。もちろん店員は下にも置かない扱いで、店内にいた他の客も羨望のまなざしでみていた。  あの日の「デート」は藤野谷家の社交行事ではなく、他の一族が誰もいないプライベートな時間で、藍閃の意識もいつもとちがったのかもしれない。もちろんすこし離れたところに護衛をかねた付き人がいたから、天青はきっと逐一報告を聞いたにちがいなけれど。  藍閃のふるまいはいかにも名族のアルファらしいものだったし、僕が子供のころから藍閃に懐いていた理由はどちらかというと、藍閃がそんなアルファっぽい押しつけがましさを出さないところだった。  それでもあの日、僕は藍閃をすごく格好いいと感じた。藤野谷の本家では、藍閃は父親の天青の影に覆われてしまうようなところがあった。実力を出し切れていない、とでもいえばいいのか。そんな彼にアルファらしく先頭を切っていく感じを見せられて、なぜか僕もちょっとした優越感をもったのだ。  くだらない優越感だと今は思う。本当は何も持っていないオメガの優越感なんて、偽物にすぎない。もう誰かのものになり、競争の渦中にいないオメガの優越感。  それでも名族に嫁ぐオメガとしては最高のものかもしれなかった。僕と藍閃の婚約は佐井家と藤野谷家の当主のあいだで十年以上前に決められたことだったけれど、藤野谷家の都合であっさり覆される可能性はいつでもあった。佐井の当主は藤野谷家のいいなりだが、僕の父の銀星は天青を毛嫌いしていたから、父には僕が望まなければ無理に進めない、ともいわれていた。  しかし佐井の当主は、父がもしそんな決定をしたら猛反対しただろう。佐井家の費用は長いあいだ藤野谷家によって賄われていたし、今は僕の抑制剤のこともある。オメガ系に生まれた者が生涯に必要とする薬剤費、医療費――どれも安くはない上に、公的保障を受けるハードルはとても高い。  僕は蓮の花を置いた構図をいくつか試して、絞りを調整してみたが、結局シャッターは押さなかった。カメラを肩から下げて遊歩道をひきかえす。じきに呼ばれるだろうから、遠くまで行って、ぎりぎりで慌てるのも嫌だった。  藍閃はともかく、父親の天青は僕がひとりでいるのを嫌い、うかつなことをすれば怒り狂う。この頃はオメガを束縛するなんて流行らないという話もきくが、藤野谷家では関係がない。  僕は道をのぼり、その時やっと、あずまやからぶんぶんと振られる手に気がついた。 「葉月、いい写真撮れた?」 「ナミさん」  佐枝ナミ、彼女は家ぐるみで佐井家に仕えている「家来筋」の佐枝家の人だ。でも僕には年の離れた友人、あるいはいとこのような存在でもある。ナミさんはあずまやの突き出たひさしの下にいた。僕は手を振り返しながら足を速め、彼女の隣にならぶ。 「そのカメラ、見たことない。どうしたの?」 「藍閃が買ってくれたんだ」 「あら、素敵じゃない」 「まあね。でもいい被写体がみあたらない」 「私を撮ってよ」 「知ってるくせに。僕はヒトは撮らないの」 「知っているけど、どうしてよ」 「魂を抜かれるから」  カメラは僕の腰にあたっている。人間を被写体にしないのは嘘じゃない。僕は四角く切り取られた構図の中に人間を置くのが苦手だ。苦手なことはしたくないから撮らないと決めている。ナミさんはまったくしょうがないなあ、という表情になったが、何もいわなかった。 「峡は?」 「クラブ活動があるっていうから、そっちへ行かせたの――」  ナミさんは言葉を切り、あわてた表情になった。 「ああ、ごめんなさい。葉月に会えるんだもの、連れて来ればよかったわね」 「あ、ううん」  僕もあわてて首をふる。 「そうじゃないよ。いや、峡に会いたかったわけじゃないってわけじゃなくて――」  あわてたせいか、自分がわけのわからないことをいっているのに気づいて思わず笑う。峡はナミさんの息子で、今年十二歳だったか。僕が中学生くらいの頃は佐井家の母屋まで時々遊びに来ていた。ここ何年かはそれほど顔をあわせなくなって、最後に会ったのは僕の婚約式の前だ。 「蓮の会なんて退屈だよ。僕も子供の時はつまらなかった」 「今はいいの?」 「今も退屈だけど、僕は藤野谷になるわけだし、義務だ」  ナミさんの表情がすうっと消える。 「葉月、あっちの家、どんな感じ? 大丈夫?」 「あっち……ね。どうってことも……ないけど」  あっちとはむろん、僕が暮らしている藤野谷家のこと――僕がひとりで寝起きしているのは離れだが。オメガの嫁は正式に婚姻するまで、つがいの相手と同じ建物では寝起きしないのが名族のしきたりだ。  僕も彼女にあわせて声を低める。うしろめたいことがあるわけじゃないが、藤野谷家の誰かに聞かれたくはなかった。 「まあ、僕は家事なんかできないしね。今は単に暇なだけかな。いや、暇でもないんだけど、藤野谷家のあれこれを覚えろっていわれているから……」 「色々気にしていたじゃない。料理することになったらどうしようって。あれは?」 「使用人がやるんだ。藍閃が跡を継げばいずれ家政は僕の責任になる――ってことらしいけど、藍閃が当主になるなんてずっと先の話だしね。僕はどうせ、子供を産むまでは半人前だから。とにかくアルファをひとり産めば、藤野谷家の立派な嫁ですって感じになるのかな」 「葉月」  ナミさんの目がすこし怖い感じになった。 「ねえ、ほんとに大丈夫?」 「何が? いじめられているなんて思ってる、もしかして? ドラマじゃあるまいし」  僕は昼ドラを思い出して笑った。本当に暇だから、最近よく見るのだ。藤野谷家のような名族に嫁いだオメガがいじめにあうのは昼ドラの黄金パターンで、虐げられたオメガの前に運命のつがいがあらわれるのが王道展開だ。 「本当にただ暇なだけ。家事なんかろくにできないとわかって放っておかれてるしね。暇つぶしに庭の写真を撮ってる。藍閃は忙しいから顔を見ない日もあるけど、まあ……婚約したとはいっても子供のころから知ってる相手だから、ドラマみたいなときめきは今さらないし」 「そんな――感じなの?」 「うん、まあね。でもほら、僕はいま抑制剤を飲んでいるからさ。どんなアルファにもドキドキなんかしないわけ。正式に結婚してつがいになればうまくやっていけると思う」  僕は場をごまかすように笑いをうかべたが、ナミさんは真顔のままだった。 「葉月」 「ん?」 「幸せになるのよ?」 「ああ、うん」  ナミさんの言葉にどう返せばいいのか、僕はよくわからなかった。オメガ系の佐井家でオメガとして生まれた以上、いずれどこかの名族に嫁ぐことになる。佐井家の系図はいくつかのアルファの名族とつながっている。近親婚にならないよう、その一方でオメガ系が途絶えないよう、血統は慎重に複数の名族によって管理されてきた。でも、先代の佐井当主が医薬に強いという理由で藤野谷家を贔屓してからそのバランスは崩れて、僕が藤野谷家に嫁ぐことはずっと規定路線だった。  ただし、仮に天青に嫁がなければならない、なんて決まっていたら僕は逃げ出していたかもしれないけれど。藍閃は彼とはちがうし、つがいになればオメガ系のやっかいな発情期もきっと、我慢できるようになる。  誰にも話していないけれど、最初のヒートがはじまってから僕の希望はずっとそこにあった。藤野谷家にいれば高価な抑制剤だっておまけについてくる。唐突に襲ってくる発情期の苦痛や制御不能から逃れられるなら、それは十分幸せなことじゃないか?  ヒートがはじまったころから、僕は自分の気持ちを周りに話したり、表に出さないようにしていた。ナミさんや佐枝の人たちのことは好きだけれど、彼らはベータだ。オメガの事情が彼らに本当の意味でわかることはない。  不安なこともたくさんあった。僕がいずれ担わなければならない家政とやらにはいまだに興味が持てないし、父の銀星が天青を嫌う理由はよくわかる。  ナミさんは小首をかしげ、僕は彼女に笑いかける。あずまやから見える蓮の水面は額縁のなかの絵画のようで、小さく閉じられた世界だ。それなのに、わからないこと、伝わらないこと、伝えられないことばかりあるなんて、どういうわけだろう。 「まだはじまらないのかな」 「高速で事故があって、到着が遅れている方がいるらしいの」  それなら急がなくてもよかっただろうか。今日の会の名目は蓮の花の鑑賞だが、集まる人たちの目的はちがう。蓮の花を見たいだけならこんな会に来なくてもいい。 「もう少しのんびりすればよかったな」 「湖の写真を撮ればいいんじゃない?」 「ずっとひとりでいると怒られるからさ」  ナミさんの眉が一瞬寄り、すぐ元に戻った。 「大丈夫よ。私がここで見ているから、一緒にいることになる」 「そう?」  僕はナミさんと目をあわせ、僕らはそろって共犯者の微笑みをうかべた。  あずまやを背にしてひとりで道をくだると、ちらりと白いものが視界の端をかすめた。白鷺が大きく翼をひろげて飛んでいくところだ。近くでみるとこんなに大きな鳥なのか。  僕は思わず小走りになり、水辺に沿ったせまい道を駆け下りる。片側は伸びすぎた蓮の葉がしげり、もう片側はあまり手入れされていない樹がならぶ。樹と水に囲まれたせいか、急に人の声も気配も感じなくなり、湿ってむっとした緑の匂いが鼻をつき、突然、僕は純白の花びらの前にいた。  道の行き止まりは泉になっていた。真っ白の蓮の花が水面を覆っている。流れるかすかな水の音が歌うように響く。湧き水?   僕は魅入られたように泉に近づいた。泉の岸は彫刻されたような大きな岩でかためられ、申し訳程度の低い柵が泉と道を仕切るように立っていた。僕は柵の隙間を通って岩の上に立ち、水面を見下ろした。いつのまにか雲は晴れ、蓮に囲まれた泉の中央は空を映して青く、その周囲はびっしりと白い花に囲まれている。  まるで、ここだけ他の場所から切り離されたような、閉じこめられたような場所だった。何か動いたと思ったら、蓮の葉そっくりの色をしたカエルが水の中を泳いでいる。  はっとして僕はカメラを構え、ろくに考えもせずにシャッターを何度も押した。フィルムが残り少ないのに気づいて、やっと手を止めたとき、その気配に気がついた。  うしろに誰かいる。  うしろ?  急に心臓がどくどく鳴った。耳のうしろの毛がふわっと立ち、首筋から背中の中心をぞくっと甘い感触が下った。  へんだ、と思った。急におかしくなった。  どうして? 「すまない、邪魔をしたらしい」  声が響いた。低いがはっきり聴こえる声は穏やかで、それなのにその声に僕はびくっと――文字通りびくっとした。  怖かったからではなく、逆だった。僕の体は勝手に動いて声の方を向いた。おかしな引力でも働いているような気がした。  すぐそこに立っていたのは僕がまったく知らない人だった。  その人も柵の内側にいたが、僕から二メートルは離れていた。少し困ったような表情をしている。一度も会ったことがないアルファの男だ。長身でがっしりして、顔は日に焼けている。日光が彼の上にふりそそぎ、日を透かした髪が薄い茶色に輝く。  僕よりかなり年上だ。きっと藍閃よりも。  僕はあわてて口をひらいた。 「あ、いえ……たまたまここに来て、びっくりして」  何をいおうとしたのか、自分でもわからなかった。彼は僕のまうしろに立っていたわけじゃない。それなのに、その気配と匂いとそれに――それに――なんだかよくわからないとても強いもの、力のようなものが、僕の体の中心までまっすぐに飛んできて、僕はまともな言葉を忘れてしまったのだ。  自分の心臓の音が耳の中を駆けまわっていた。すぐそばにいるわけでもない人の匂いを僕の鼻は勝手に嗅ぎ、味わおうとしていた。甘くていい匂いがした。もっと欲しくなる匂いだ。僕はごくりと唾を飲みこみ、そのはずみにカメラを持つ手がゆるんで外れた。首にかけたストラップが落下を防いでくれた。  目の前にいる人が慌てた声でいった。 「大丈夫?」  声を聴いたとたん、僕の足はまた勝手に動いた。自分で自分がコントロールできなかったのだ。一歩前に出て、僕はその人の匂いをさらにはっきり嗅いだ。腰の中心が熱でうずく。待ちのぞんだものがすぐそこにある、そんな考えが降ってきたように頭にうかぶ。とたんにうしろが濡れた。  まさか。  僕の頭の四分の一くらいが唐突に冷静になった。僕は本当におかしい。これは――これは発情期だ。  そんな馬鹿な。僕は抑制剤を飲んでいる。それにこの人のことなんか、何も知らないのに。 「ええ。大丈夫です、そこで集まりがあって……僕は……」  僕はなんとか言葉をひねりだした。ひょっとして、僕は今日抑制剤を飲み忘れていたのだろうか? 会ったばかりのアルファの前で発情するなんてありえないし、この人が誰かとつがいでなければ、大変な迷惑をかけてしまうかもしれない。  僕は早く行かなければならない。蓮の会もはじまるにちがいない。  それなのに僕の足は動かなかった。行きたくなかった。  道に薄雲の影がおちた。彼もそこに立ったまま僕をみつめていた。僕らは目をあわせた。 「蓮が……きれいだったので、驚いて」  僕の口は勝手に言葉を選び出し、話を続けようとしていた。 「こんなところがあるなんて、知らなかった」 「湖に咲く蓮で、白い花はここだけだ」  目の前の人は何でもないことのようにいったが、視線は僕から動かない。 「僕は知らなかった。毎年来てるのに」 「毎年?」 「花が咲く頃に一族の集まりがあるんだ」  そういったとたん、湧き水が流れる音が急に大きくなったような気がした。  なぜか僕らは黙りこんだ。蓮の泉のまえですこし離れて立ち、みつめあったまま水音を聴いていた。どのくらいの時間だったろう。ほんとうに、ただのひとことも口に出さなかったのだ。  しかし言葉はなくても彼の匂いと存在は僕の感覚を圧倒しつづけ、むこうも僕をみつめたままでいた。突然、僕は何かを理解した。何か――何を? まだ明確に言葉にできないまま、僕はまた一歩前に出た。彼の方も、一歩。  僕と彼の距離はもう、あと二歩程度しかない。  甘い匂いで頭が変になりそうだった。あと一歩前に出て手を伸ばせば、彼に触れる。彼に触って、そして……。 「葉月、どこ? 藤野谷家の準備ができたって!」  小道をやってくるナミさんの声が呪縛を破った。  僕は弾かれたように一歩下がった。ナミさんは僕の前にいる人に気づいたようだ。僕は彼女に向かって手をあげる。 「葉月? 誰かと一緒なの?」 「待って、すぐ行く」  僕はおなじ道を戻ればいいだけだ。ここへ来た時と同じように。  顔が熱く、体も熱く、首から下がるカメラが邪魔だった。僕はできるだけ大股で長身のアルファから離れ、柵の隙間から道へ戻った。ナミさんの方へ歩きながら、あそこに立ち止まっていたのはほんの一瞬じゃないか、と自分にいいきかせようとした。ほんの何秒か――何十秒か? 何分か?  とにかく、あの知らないアルファと目をあわせていたのはごくわずかな時間だ。どういうわけか急にヒートがはじまったから、おかしな感じがしただけだ。あれはまったく知らない人で、これからどこかでもう一度会う可能性もない。突然はじまった僕のヒートに反応した様子がなくて、よかったと思わなければ。  僕はもう一度小道を振り返った。あの人はまだ立って、僕をみていた。泉の中からは真っ白の蓮の花たちが、やはり僕をみていた。    * 〈運命のつがい〉について、世の中にはたくさんの物語がある。  たくさんの馬鹿げた物語だ。たった一度の出会いによって世界の在り方が変わってしまう。くすんだ世界はバラ色になり、何もかもが輝いてみえ、甘い気持ちで体じゅうがわきたつ。  そんな話を僕はずっとベータの夢物語だと思っていたし、今もそう思っている。  実際に運命に出会うのは、そんなに簡単な話じゃない。  僕は藤野谷家の離れに座っている。あの日から――最初に空良と出会ったあの日から、いったい何年経っただろう。  あれからいろいろなことがあった。空良と街で偶然――本当に偶然――再会し、彼の名前を知ったこと。色々な話をして、僕らは目を見かわして、すぐに愛しあうようになった。  たった一度抱きしめてもらって、キスをしただけで愛しあっているなんて考えるのは、おかしいだろうか?  あの時僕にわかっていたのは、このまま藍閃と結婚しても、それはただの嘘になるということだけだ。 僕は婚約を取り消したいと思った。父の銀星は僕の意思を尊重するといったが、佐井の当主は難しい顔をした。そして、僕が婚約を破棄したがっていると気づいた藤野谷家は、もっと露骨なやり方に出た。  人間は自分にとって都合の悪い記憶を――思い出したくない出来事を、自分自身からも隠してしまうものだと、以前何かで読んだことがある。僕はあの夜のことがよく思い出せない。藍閃が僕を最初に噛んだ夜だ。  僕は前触れなくやってきたヒートで朦朧としていた。空良に出会った時ともちがう、異様なヒートだった。記憶があやふやなのはきっとそのせいなのだ。  覚えているのは熱くて、体じゅうが疼いて、苦しかったことだけ。目が覚めると首のつけねが痛くて、シーツがよだれで濡れていた。僕はうつぶせになって、両足をだらしなくひらいていた。足にも股にもまったく力が入らず、後ろの穴がひくひく震えた。離れの寝室には誰もいなかった。  すぐに何もかも終わったのがわかった。僕は藍閃のものになってしまったのだ。それとも、婚約者なのだからこんなことは当たり前なのだろうか?  藍閃は結婚まで待つと思っていた。だからこそ抑制剤を渡してくれたのだと思っていたのに。  それともこれは、僕が空良に出会って、藍閃を裏切ったことに対する、当然のむくいなのだろうか。  もう僕は空良に、自分は誰のものでもないのだと、きれいな体なのだとはいえなくなってしまった。他のアルファに噛まれたオメガを空良が欲しがるわけはない。彼がまともな男ならなおさらだ。  僕はあきらめて藍閃と結婚する日を待った。彼に噛まれたあともヒートの苦痛は変わらなかった。つがいになればヒートが楽になるという話はなんだったのだろう?  それでも藍閃は優しかったし、僕は彼に何度も抱かれて、肉体の悦びを知った。そしてそのたびに自分がとても汚い生き物のような気がした。  結婚式の直前、最後の衣装合わせのために都心へ出かけたあの日、思いがけない偶然で――いつだってそうなのだ――空良に再会したときも、僕は彼のところへ逃げるつもりはなかった。なんといっても、僕は他のアルファが与えたものに囲まれて、他のアルファの匂いを纏わりつかせていたのだ。空良は失望したにちがいない。  だから、あの日空良に向き合った僕の頭に浮かんだのは、この機会にさよならをいおうということだった。  それなのに、僕らは離れられなかった。  小さなホテルの質素な部屋、シングルのベッドの上で僕と空良は抱きあった。藍閃に馴らされた僕の体は空良の手に触れられるとまったくちがう反応をした。彼の唾液に濡らされて、ヒートでもないのに僕はやすやすと空良を受け入れた。自分がアルファに抱かれたいだけのいやらしい生き物じゃないか、なんて、考える暇もなかった。  空良は僕の耳元でずっと僕を愛しているとささやいてくれた。僕がどこにいても、何をしていても、愛していると。そして藍閃が噛んだあとを塗り替えるように、僕を噛んだ。  たった二日間のことだった。僕はすぐに藤野谷家にみつかってしまったからだ。あっさり連れ戻されて、僕は藍閃と結婚した。  空良はいま遠くにいる。海外駐在を断れなかったのは藤野谷家の圧力だと僕は知っている。彼らは僕と彼を引き離すためなら何でもするのだ。  薄暗い離れで僕は写真を広げている。  現像して袋に入れたままの写真をときたま見返し、整理しようと思うのだが、いつも途中でやめてしまう。今はヒートを鎮静薬で散らしたあとだからなおさらだ。薬でヒートを散らすのは今にはじまったことではない。十七歳で最初のヒートが来てからというもの、抑制剤がうまく効かない場合、僕はときどき同じ処置を受けていた。つがいになればそんな必要もなくなると思っていたのに、僕のヒートは変わらない。  鎮静薬には副作用もある。吐いたり、何日もろくに起き上がれなかったりするが、それでも行き場のないヒートの苦痛よりましだ。  いまだに藍閃が僕をまっとうなつがいにできないのが悪いのだ、と僕はぼんやり思う。僕は藍閃を憎んでいるのだろうか? ときどき僕には自分の気持ちもよくわからなくなる。僕は空良を愛しているが、彼は遠くにいて、僕はこの離れで何度も藍閃に噛まれている。それでも僕のヒートは静まらず、一度はできた子供も流れてしまった。僕は藤野谷家の嫁としても不適格、完全にただのお荷物だ。  おまけに近頃の藍閃は僕を抱くのを――抱こうとするのをやめてしまった。それも僕のせいだと彼はいうにちがいない。彼に抱かれていても、いく瞬間の僕はいつも、空良の名前を呼んでしまうから。  藍閃はもう、僕に触れない。  このことを天青に知られると何が起きるかわからないし、藍閃は父親を恐れている。だから僕と彼は夜をおなじ部屋で過ごす。ふたりとも押し黙ったまま、眠りが訪れるのを待つ。僕はときどき空良と一緒にいる夢をみる。目覚めたあと、勝手に涙がこぼれるのを藍閃に知られないようにする。 藍閃は何を考えているのだろう。  天青とちがって藍閃は僕が空良と一緒にいたのを責めなかった。でも彼は僕を自由にする気はない。天青が僕に干渉するのは嫌なくせに。  自分の気持ちだけでなく、藍閃のことも僕は年々わからなくなる。僕にわかるのは、僕の意思がどこにも存在しないこと。僕は藤野谷家のオメガだから。  運命のつがい? そんなもの、藤野谷家の知ったことか。  僕は写真を広げ、トランプのようにかきまわした。白い蓮の花が僕に微笑みかけていた。今年も僕は蓮の会に連れ出されたが、白い蓮は見つけられなかった。これを見たのは、空良に出会ったあの日だけ。 次に空良に会ったとき、まっさきにしたいことがある。僕は空良の写真を撮るのだ。  そう、ひとつだけ確かなことがある。こんなありさまでも、僕は二度と空良に会えないとは思っていない。僕らが本当に運命の相手なら、こんなに簡単に終わるはずがない。そうじゃないか? 〈運命のつがい〉についてはたくさんの馬鹿げた物語があるけれど、僕が信じる物語はひとつだけだ。  僕はまた空良に会う。そして二度と離れない。

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