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第2話 沈黙の旋律―渡来
「家とは人が暮らし、生きて、死ぬ場所だ。実際に生まれて死ぬのは別の場所だとしても「家」は人間にとって、象徴としての生死を含む場所である」
広い玄関で靴を脱いだとき、誰かがそんなことをいったのを思い出した。誰の言葉だったろう。
二十歳やそこらの人間の記憶力などあてにならないことこの上ない。こんなふうに抽象的な話を聞くのは大学の講義にきまっているが、私は題目も教師の名前も思い出せなかった。たぶん一年か二年の頃の、専攻と関係のない教養の授業のひとこまだ。卒業を間近にしたいまこの言葉を思い出したのは、この家のせいだろうか。
「かしこまらくてもいい。靴だの使用人だの、気にするな」
藤野谷藍閃がいった。私はうなずいたが、玄関から通じるひろい廊下に藍閃のいう「使用人」が神妙な顔つきで控えているのをみたとたん、それまでまったく気にしていなかった靴の脱ぎ方を逆に意識してしまった。
今日は就職面接のようなものだからと考えて、服装は手持ちの中でも一番まともなスーツにネクタイ、革靴と気をつかってきたものの、藍閃がたった今脱いだ靴の横では安物なのがありありとわかる。とはいえ私も今後は「使用人」になるわけだから、雇用する側と同レベルのものを身に着ける必要はどこにもない。
藍閃は静かに私を待っていた。アルファの男は多かれ少なかれ威圧感のようなものを備えているが、彼にはあまりそんなところがなかった。無造作に長くのびる板張りの廊下を指していった。
「渡来君に私の秘書として来てもらう、というのは父も了承済みだ。父は会合で忙しいから、あとで簡単に挨拶をしてもらうが、ひとまず中を案内しよう。使用人も教えてくれるだろうが、この家はかなりややこしい」
藍閃は先に立って歩き、私は藤野谷本家の広い邸宅の主だった場所に案内された。来客を迎える座敷と食堂、藍閃の父である藤野谷家当主天青の執務室である書斎。会合で忙しいと藍閃が言った通り天青は不在だったから、私は閉じた扉の前を通りすぎただけだ。
家政室と名付けられた部屋は小規模のオフィスそっくりで、灰色の事務机が向かい合わせに置かれていた。ここには顧問弁護士も出入りするという。家政室の隣に書庫があり、書庫の手前の書斎めいたスペースは私が使うことになるという。さらにふだん使いの食堂と厨房、使用人の休憩室。使用人は運転手から厨房の料理人、給仕やその他の家事雑用をする者と、あわせてそれなりの人数がいるらしい。
藤野谷一族のプライベートな居室と居間は階上にあるということだった。つまり階下は業者も出入りするパブリックな空間で、核家族育ちのベータ庶民にはいささか困惑させられる構成だったが、藍閃にとっては自然なことらしく、説明する声も平然としたものだ。名族とはこういうものかと私はあらためて納得していた。
住みこみの使用人の居室は厨房の裏手に建てられた別棟だ。最後に案内された私の部屋(私が住みこむ部屋だ、もちろん)は、離れにつながる短い廊下の手前にあった。
「実は去年、長く執事を務めていた人が病気で亡くなったんだ」
部屋の扉をあけながら藍閃は唐突にそんなことをいった。
「家政はいま私がみているが、卒業したら父の仕事の一部も受け持つことになっている。渡来君には当分、私がいま任されている部分を手伝ってほしい。慣れてきたらもっと色々頼みたいが。給料については以前話した通りだが、書類を作っておいた」
部屋はこれまで住んでいた学生寮によく似た家具の配置だった。手前に小さな流しとコンロ、一番奥の窓の前にデスクと小さな書棚、その隣にベッド、クロゼットにタンス。しかし家具は黒っぽい年代物で、学生寮の安っぽい合板製ではなかったし、壁紙の模様や窓枠、垂木の彫り物は立派なもので、壁から突き出た電灯の笠は洒落たステンドグラスである。ベッドはきちんと整えられていた。
藍閃はデスクに置かれた封筒を私に差し出した。
「問題なければあとでサインをしてほしい。もしやめたくなることがあれば遠慮なく話してくれ。就職活動を逃したのは院進を迷ったからだって? ここで働きながら進学してもかまわない。その場合は協力しよう」
何かのついでに話した個人的事情を藍閃がしっかり覚えていたのは意外だった。私はざっと書類をあらためた。
たしかに私の就職活動が遅れをとったのは大学院のことも関係あるが、それ以外の事情もあった。なぜなのか自分でもわからないが、私はときおりひどく厭世的になってしまうことがあった。自分の生きる目的がわからず、何をするのもバカバカしいと考えて、無気力の穴に落ちこんでしまうのだ。
周囲が就職活動にはしゃいでいたとき、私はちょうどそんな状態だった。やっと重い腰をあげたころ、折悪しく世界的な金融危機がおとずれた。就職が内定していた者すら取り消されるような事態に私が対応できるわけもなく、徒労ばかり溜まっていたある日、藍閃がいったのだ。
「もしきみがよかったら、藤野谷家で働かないか?」
私と藍閃は親友という間柄ではなかったが、名前だけの友人――名族のアルファである藍閃にはそんな「自称友人」がたくさんいた――でもなかった。面倒な課題をもちかける教授の愚痴をいいあったり、就職についての悩みを話す程度には親しかったが、それ以上でもなかった。ちょうどいい距離感だったとはいえる。そんな私にとって、藤野谷家という特殊なエリートの世界で働かないか、という誘いは魅力的だった。
「ありがとう。問題はないと思う。ひとつ――」
私は書類を封筒に戻しながらいった。
「小さなことだが、質問がひとつあるんだ」
「何だい?」
あっさり問い返されたが、この質問はいささか照れくさかったし、恥ずかしくもあった。私は今後アルファの名族のあいだで働くのに、彼らについて無知なのをさらけ出すことになるからだ。
「本当に些細なことなんだ。その――今後、きみをどう呼べばいい?」
藍閃は怪訝な表情になった。
「私のことを?」
「つまりきみは雇用主になるわけで――私は藤野谷家に仕える立場になるんだろう。申し訳ないが、私はただのベータの庶民で名族の慣習をまったく知らないんだ。大学では友人だし、クラブの同期だといっても、今後きみをどう呼べばいいんだ?」
思いがけず藍閃はにやっと笑った。
「私はきみのそんなところがいいと思っているのさ。名族や藤野谷についておかしな先入観がない方がありがたいんだ。私のことはこれまで通り、藍閃でいい。雇用主とはいっても、友人に変わりはないだろう? 父のことは当主と呼んでくれ。ずっと昔は『様』をつけて呼ばせていたらしいが、今はそんなのうっとうしい。他の家族……弟や婚約者も、常識的にさんづけで呼んでもらえばいいだけだ。藍晶には会ったことがあるな? 試合を見に来たときに」
私が藍閃と知り合ったきっかけは大学のフェンシング部だった。私はたいした腕前でもなかったが、藍閃は大会で準優勝したこともある。弟の藍晶は公式試合には必ず顔をみせたから、二度ほど話をしたこともあった。
「ああ、わかる。ただ婚約者は初耳だ。試合に来たことは?」
「一度もないな」
藍閃は表情を変えずにいった。
「あとで葉月にも紹介しよう。彼は離れに住んでいてね。私が卒業したらよい日を決めて籍を入れ、式をあげることになっている」
「そうなのか? そんなの初耳だぞ」
私はいささか驚いていった。友人になって二年はたつが、婚約者がいるなどこれまで一度も聞いたことがない。藍閃はかすかにはにかんだような笑みをみせた。
「子供のころからの許嫁なんだ。父の意向で、家政に慣れるために少し前から離れで暮らしている。きみと同じで藤野谷家のやり方には詳しくないから、彼には質問しないでくれ」
藍閃はふだんあまり表情を変えない男だったが、この時はいつになく嬉しそうにみえた。長年の許嫁というなら自分で選んだ相手ではないのかもしれないが、その表情を見る限りさしたる問題ではないらしく、私もすこし嬉しくなった。
「もちろん、早く紹介してくれよ。未来の奥方というわけだな」
「まあね」
私たちは部屋を出て、離れの方へ足をむけた。短い廊下の横に扉がならび、庭に面した反対側はガラス張りのサンルームになっている。藍閃は廊下の奥をさして、あっちがキッチンとサニタリーだといった。手前の居間らしき部屋の扉は大きく開いている。父が当主のあいだは自分もここで暮らすのだ、と藍閃はつけくわえ、私は納得した。要するに、若夫婦のために用意された建物なのだ。藍閃は開いた扉から中をのぞいたが、ひとけはなかった。
「いないな。庭かもしれない」
藍閃がいった。
「庭?」
「写真を撮るのが趣味なんだ」
サンルームのガラスから藍閃は庭を見下ろした。一方で私の方は、なんという広さだろうかと平凡な感想を抱いていた。建物の敷地だけでも相当なものなのに庭はまだ十分広かった。一方の端に岩と苔が特徴的な和の庭があり、小路と木立を挟んだ反対側には洋風の花壇がある。ここにもアパートの一軒や二軒建てられそうだ。まったく、名族の資産家とはおそるべきものだ。
「あそこにいる。邪魔はしないでおこう」
藍閃がそういったが、私は彼の視線の先を探した。木立のあいだのベンチに座っている若い男がみえた。
男? 私は一瞬考え、そうかオメガだった、と思い直した。ベータの悪い癖だ。
私のいるところからもその繊細な美貌がはっきり見え、オメガ特有の柔和でぱっと花開くような雰囲気も感じられた。何気なく藍閃の方へ顔をむけると、彼は食い入るように婚約者をみつめている。
なるほど、と私は今日何度目かの納得をした。藍閃は大学で恋愛などの浮いた噂がまったくなかった――名族のアルファとしては異例である――が、ずっとここに想い人がいたのなら、道理かもしれない。アルファ特有のギラギラした雰囲気を感じさせないのも、婚約者といい関係があるからか。
しかしこれはまったくの勘違いだったと私はやがて悟ることになる。
結局その日葉月に紹介されることはなかった。天青に挨拶をし、弟の藍晶に引き合わされただけだ。私は藤野谷家で働くことを正式に決めて、卒業後まもなく藤野谷の本家へ引っ越した。
名族と名族の関係は複雑である。姻戚関係はもとより、各家の事業をめぐる繋がりや対立、遠い昔の因縁にはじまる漠然とした反目まで、さまざまな事情がからみあっている。
大学を卒業したあとの藍閃は、天青の仕事のいくつかを引き継いだ。藤野谷家の配下にあるグループ会社や名族が共同で設立した団体の役員をつとめ、社交の場へ出かけ、天青の指示のもと他の家も訪問する。私は彼のスケジュールを調整し、訪問先の資料を集めるといった業務をこなしながら、藤野谷家内部のこまごました事柄を教わり、さらに藍閃の私的な用事にもつきあった。
仕事は自分でも意外なほど面白かった。自分が何のために生きているのかわからないまま無為にすごした学生時代とはうってかわって、藤野谷家にいる私には藍閃のサポートという明確な目的ができたのだ。
藍閃は給与を惜しまなかったし、私はまもなく藤野谷家の格式にあわせた作法や教養を身につけ、名族の集まりで気おくれを感じることもなくなった。 藍閃と葉月のあいだの問題がなければ、それなりに快適な職場といえただろう。
「家」は人間にとって特別な場所だ。長い時間を経過し、たくさんの人が暮らした家は独特の雰囲気をまとっている。それぞれの家には固有の旋律や和音のようなものがある。その家の歴史とそこで暮らしている人々が無意識に奏でる音楽がある。
藤野谷家で働きはじめてからというもの、私は時々そんな夢想をもてあそぶようになった。藍閃の秘書として他家を訪問したり、私と同じように名族の内部で働くベータと関わる機会が増えていくと、この夢想はますます強固になっていった。
私の夢想のなかでは、藤野谷家の旋律は他の家――たとえば鷲尾崎家のように勇壮なものでも、加賀美家のように優美なものでもなかった。この家の骨組みにはいつもかすかな軋みや不協和のこだまがしみついて、この家で暮らす人々にはどこか噛み合っていないところがあった。天青と藍閃、藍閃と葉月、藍閃と藍晶、もっと後になれば、藍晶と|水津紫《すいづゆかり》、それに紫と葉月。
彼らの音楽は、まれに和声を奏でたとしても、必ず不協和音に終わる。とくに葉月と藍閃のあいだの不協和は時間の経過とともに大きくなり、しまいには取り返しのつかないことになった。
この不協和のおおもとが天青だったのは間違いない。彼は高圧的で気分屋で、それでも人を支配的に操るすべにきわめて長けた、無慈悲な君主だった。私が天青に慣れることができたのは、内心で自分の雇い主は藍閃だといいきかせていたからだろう。
他の使用人と同様に、私はやがて天青に慣れ、彼の言葉を聞き流すようになった。私はしょせん雇われているだけの人間だった。本当に我慢ならなくなれば、みずからここを離れればいいのだ。
使用人のあいだでは藍閃は評判がよかった。誰も口に出さなかったが、早く天青の時代が終わって藍閃が跡をつぐのを望んでいた者もいただろう。使用人のそんな思いもまた、沈黙の旋律となって藤野谷家を流れていた。
しかし佐井葉月は私や他の使用人とは立場がちがった。彼は天青の言葉を聞き逃すことができなかったのだ。
藍閃と婚約者は相思相愛だと私が無邪気に信じていたのはごく短いあいだにすぎなかった。それでも私が藤野谷家で働きはじめたころの彼らは、悪い関係ではなかった。
葉月がいた離れの手前に自室をもらったおかげで、私はあれから何年も、葉月と藍閃の関係をつぶさにみることになる。葉月が藤野谷家に来たのが一種の妥協の成果だとわかるのに、それほど時間はかからなかった。藍閃は何年も前から葉月が自分の伴侶になるのを待っていたが、葉月は藍閃が望むように彼を愛してはいなかった。
今とは時代がちがうから、公認の婚約者であってもふたりは清らかな関係で、藍閃は葉月と正式に結婚する日を待っていたのだ。天青の重苦しい音楽に支配された家は葉月にとって完全に幸福な場所とはいえなかっただろうが、少なくともあのころの彼らは不幸ではなかった。
〈運命のつがい〉柳空良に出会うまでは。
私は葉月と柳空良が出会った日のことを覚えているが、柳に会ったわけではない。あの日、柳に会ったのは葉月だけだ。会合の準備が遅れたあいだ湖のほとりで写真を撮っていた葉月は、急なヒートに襲われて藤野谷家に戻った。たまたま運転手の都合がつかず、私は彼を送る役目を引き受けた。
ヒートのはじまったオメガをうかつにアルファと接触させるわけにはいかないから、葉月は藍閃ともろくに話していない。彼の様子はおかしかった。彼のヒートが楽でないのを私はもう知っていたが、それでも何かがおかしいと思った。
しかし誰に想像がつくだろう? あんなところで〈運命のつがい〉に出会うなど、当の葉月も予想できたはずはない。
こうして藤野谷家には別の旋律が流れるようになった。葉月が引き起こした様々な出来事の影で、柳空良の存在が沈黙の旋律として響くようになった。
実際に柳に会った人間はほとんどいなかったのに、私のような立場の人間も含めて、藤野谷家はこの旋律に何年も左右された。あとから弟の藍晶に嫁いだ水津紫ですらそうだった。柳空良の旋律は、藍閃が葉月に与えた報われない愛を覆い隠した。
アルファはこれと見定めたオメガに、求愛の儀式としてさまざまな物を与えるのが常だ。住む家に、身に着けるもの。熱愛中のカップルは食事も手ずから分け与える。藍閃も長年想っていた相手とそんな風に接することを望んでいただろう。
あいにく藍閃の願いはかなわなかった。
もっともその理由を葉月ひとりに負わせるのは公平ではない。葉月に対する藍閃の行動も時々ひどく思いやりに欠けていたからだ。とはいえ、私はすでに藤野谷家の内部の人間だったから、それを藍閃本人に面と向かって指摘することはできなかった。
きっと藍閃は葉月を失うその瞬間まで、彼が自分の所有物だとかたくなに信じていて、葉月自身とまっすぐ向き合おうとしなかったのだ。そんなことになる前に、私は友人として、藍閃に忠告すべきだったのだろうか。
それでも、つがいであるはずのオメガに受け入れてもらえない藍閃はやはり、気の毒だった。葉月が藤野谷家で過ごした最後の日々、すっかり食が細くなった彼のために、藍閃は離れの小さなキッチンでときおり手料理を作った。葉月は一度も食べなかった。
葉月が眠ると私は自室の扉をあけ、藍閃とふたりでひっそり酒を飲んだ。私たちは意味のある話をほとんどしなかった。藍閃の手料理を肴に、世界経済のゆくえだの異常気象だの、自分たちと直接関係のない、どうでもいい会話をした。きっと私と藍閃のあの時間も、あのころの藤野谷家を形づくる旋律のひとつだったにちがいない。
藍閃が失踪した日、私は友人と仕える相手を同時に失った。藤野谷家には次期当主の不在という暗い旋律が響くようになる。
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