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4.犬と仕事

 日進月歩で新素材が開発され、応用されるのは素晴らしいことだ――と、コンフォートルームの窓のそばで、ゆっくり、非常にゆっくり息を吐きながら、寺本紀州は思った。  履いているスラックスは、見た目はピシッとアイロンの効いたスーツのズボンにみえて、実はストレッチの効いた素材である。ワイシャツも同様。インナーは汗や体臭を半分に抑えるという触れこみで、発売されたばかりのもの。  寺本は自分に特段のファッションセンスがあると思っていない。なので仕事着の選択は行きつけの百貨店のベテラン店員と、コーディネーターのアドバイスに従っている。しかし素材に関しては別で、とくにここ数年はある種の「高機能素材オタク」になりつつあった。これはヨガにハマってからのことである。  大きなガラス窓からは海岸沿いの道を照らす灯りと、走る車のヘッドライト、それにテイルランプの赤がみえる。遠くの暗い水平線と青みがかった黒い空との境界線がぼやけてみえる。  社員のほとんどは退社しているはずだ。イヌメリは残業を推奨していない。寺本がこの時間にいるのも都内での会合のあと戻ってきたせいだった。自宅マンションがここから徒歩圏内なのもあり、直帰してよい日も一度は社に戻ってくるのが社長になる前からの癖なのだ。警備員には「四十五分だけ」といい、執務室に上がって十五分で必要なチェックを済ませる。それからコンフォートルームに下りて、この窓のそばに立つ。  そして呼吸する。  両足を腰より少し広げ、つま先を窓の方へまっすぐ向ける。間接照明で照らされた足元以外の部分がガラスにくっきり映っている。手のひらを前に出し、向かい合わせて、頭上へ上げる。  背筋をのばしながらゆるやかな呼吸を続ける。尻を締め、腹が背中に近づいていくような想像をする。呼吸するたびに体がのびていく。息を吸いながら腕を後ろに反らし、吐きながら戻す。  そのまま両手の指を組み合わせて、ゆっくり右、左と身体を交互に体を倒した。脊椎の関節が、これ以上は無理だという、そこまで体を曲げていく。もっともガラスに映る寺本を見た者は、それほど大袈裟なポーズをとっているとは思わないだろう(特にヨガをやったことのない者は)。ふたたびまっすぐ腕を上に上げ、息を吐きながら右へと体をひねり、うしろをふりかえる。  のばした腕や肩、腰の位置やつま先、体のパーツの隅まで意識を集中させろ。インストラクターの言葉を思い出しながら、意識の焦点左右に十回ほどひねりの動作をくりかえし、最後に長く停止する。太陽のシークエンスと呼ばれる柔軟の一種である。  寺本がヨガをはじめたのは、とあるフィットネスクラブで、お試しレッスンに参加したのがきっかけだった。  体を動かすのは嫌いではないが、寺本はスポーツに興味がなかった。クラブは気分転換と健康管理のために登録したものの、マシンを使った筋トレにもプールにも意欲がわかず、すぐに足が遠のいてしまった。その時再訪したのは連休に用事もなく、手持ち無沙汰だったからだ。  そしてふだんなら足を向けないダンススタジオで、男性向けのヨガレッスンを受講した。それも受講者が少ないからと、男性スタッフがほとんど手を引きかねない勢いで勧誘したためなのだが、ところがどっこい、以来ハマってしまったのである。  ハマった理由のひとつは、見た目はゆっくりした動きなのに、意外に運動量が多く、レッスン終了後の爽快感が想像以上だったからだ。といって、いかにもエクササイズしています、といった雰囲気がないのも寺本の好みだった。呼吸を繰り返すことによって、これまで知らなかった自分の体のパーツを見直していくような側面や、その時のインストラクターの、感覚ではなく理屈で説明するような教え方も気に入った。  もっとも、そのフィットネスクラブでのヨガのレッスンを長く継続したかというと、そうではない。ひとつはヨガのクラスはインストラクターも受講者も女性が多く、男性が寺本ひとりであったり、たまに男性がいてもカップルや夫婦での参加だったりで、居心地が悪かったからである。身長と性別でどうしても目立ってしまう上、レッスン後などに女性の一部が寺本に向ける視線も苦手だった。  DVDや教本で独学したり、他のヨガスタジオでレッスンを受けるなどの試行錯誤を重ねたあと、最終的に寺本が落ち着いたのはインターネットとカメラを使い、リアルタイムでアメリカのヨガインストラクターにレッスンを受ける事だった。便利な世の中になったものである。すべて英語で、目と耳を働かせてのレッスンだが、直接対面してやれば意外にいけるのだ。  こうして数年たち、いまではヨガがすっかり生活の一部となっている寺本だが、この趣味を知っているのは彼の妹ひとりである。ヨガは寺本のような男には、趣味だとオープンにするのがいささか困難なジャンルなのだった。  うっかりヨガに興味があると他人に話すと、男なのに? という奇異なまなざしでみられたり、あるいは宗教や、スピリチュアルなものに興味があるのかと誤解されたりなど、面倒が多いのだ。さらに近頃は官僚が公務中に「セクシー個室ヨガ」へ通っていた、という報道が大々的に流れたりもして、ますますヨガが趣味とは公言できなくなってしまった。  今では若手企業経営者の集まりなどでは、趣味はジョギングとマラソン大会に参加することだと嘘をついている。ジョギングなら多少の心得はあるし、大会準備のためにトレーニング中だからとか、適当なことをいって必要もないゴルフの誘いを断るのに使える。この程度は方便というものだろう。  というわけで、寺本にとってヨガは(インターネットでのレッスンはあるにしても)ひとりで、こっそり、閉じた空間で楽しむものだった。一日の終わりに立位のポーズやバランスをとるくらいならうっかり見られてもまだいいかもしれないが(戦士のポーズや木のポーズなどの例外はある)、猫とか弓とか魚とか、床に腹ばいになったり仰向けになって反ったりする姿勢をとっているところをうっかりみられると、おかしな誤解も生みかねない。  寺本も、他のヨガ趣味の人との交流や海辺での「ヨガ旅」ツアーの宣伝などに心を動かされないわけではない。キャラクター商品を扱うイヌメリの性格もあって、寺本には入社時から女性向けのメディアをチェックする習慣があり、この手の広告にもよく目を通していた。砂浜でインストラクターを前にポーズをとる写真をみると、気持ちよさそうだなあ、と思うのだ。 「誰か誘って一緒にいけばいいじゃない」  と、以前妹にいわれたことがある。お盆に実家に帰省してのんびりしていたときだ。テレビでたまたまヨガのツアーを紹介する番組が流れていた。妹の|柴《さい》は寺本のヨガ趣味を知っているので「兄さんはこういうの行かないの」と話を振ってきたのだった。 「いや……日本ならほとんど女の子ばかりだろう。男一人で参加するなんて肩身が狭すぎるよ」 「誘える友達、いないの?」  寺本はあいまいに笑った。ヨガに興味があるのはたいてい女性だ。そもそも女性は好奇心が強い人が多いから、誘えば乗ってきそうな心当たりもないわけではない。しかし知人はみな交際相手がいるし、こんな泊りのツアーに誘うと余計な誤解を生みかねない。一方男の友人はというと…… 「兄さん、あいかわらず付き合ってる人いないの? 男のコ」 「おい」 「大丈夫よ。お母さんたち、聞こえていないから」  柴はキッチンへの閉じた扉をあごでさした。 「自分の性癖を自覚したなら正直に生きた方がいいわよ。最近はほら、世間に理解も出てきたし。私は兄さんに彼氏を紹介されてもなんとも思わないし、いざばれてもお母さんだってそんなにびっくりしないかもよ」  ひとつちがいの妹はなんでもはっきりいう性格である。このごろは母とよく似た口調で話す上に、声も似ている。 「そんな人はいない」 「ええええええええええええまだそうなのぉ……」  寺本の答えに妹は無駄に語尾を伸ばした驚きの声を(一応抑えながら)あげ、落胆した表情になった。 「あのな、柴。テレビドラマで男同士が恋愛していたり、柴の好きなマンガでそんなことになってても、現実はちがう」 「だけどだけど! ハッテン場とか専用出会い系アプリとかあるんでしょ?」  寺本は肩をすくめた。 「詳しいな」 「彼氏探したりしないの?」 「何を期待しているんだ」 「もちろん兄さんが幸せになることよ。ほら、一度結婚するとかいってたくせにやめたのはこのせいでしょ? 最近は婚活マンガで『高年収で結婚できない男』は人格に難があるって書かれたりするけど、兄さんは私より全然まともだし、ハイスペックだし」 「それはどうも」  ハイスペックか。と寺本は思った。柴も客観的にみると相当なハイスペックではないかと思う。はっきりものをいう性格は人を選ぶようだが。そういえば以前付き合って、一応結婚を考えた女性は妹を敬遠していた。  結婚まで考えたといっても、寺本にはいわゆる「恋愛」の経験がなかった。三十代後半にもなるのにいまだにそうである。正直に告白すると、寺本は他人に対する「ときめき」という言葉の意味がよくわからないのだった。昔から他人に執着したことがない。  寺本が執着するのは別のこと――勉強だったり、興味を持った物事の調査や政治問題や、そしてまかせられた仕事――である。それでも育った環境のせいか何となく、いつかは誰かと結婚して家庭を持つのが人間として当たり前だと思っていたし、だから学生時代には好意を告白された相手と付き合いもしたし、結婚してもいいなとまで思ったのだ。  そんな兄を妹は一度容赦なく「メルヘン男」と呼んだが、寺本は気にしなかった。  しかしそんな寺本は、実は女性と関係を持ったことがこれまで一度しかない。そしてその一度が、自分の性癖を自覚させ、結婚や家庭に対する考え方を変えるきっかけとなったのである。  簡単にいえば、寺本はその、結婚までしようと思っていた女性相手に勃たなかったのだ。それでもホテルでなんとかことをなしとげられたのは、頭の中で別のイメージを想像したからだった。それは中学時代からずっと自分の部屋の壁に貼っていたNBLの選手の(ユニフォームの下の想像上の)裸体だった。  客観的には笑い話だが、いま思い出しても寺本自身は笑えないし、さらに思い起こしてみると、、つまり男の裸に興奮することは昔はよくあったのだ。つまり高校のころとか――しかしそれ以上何も考えずにこんな年まで生きているというのは、自分はすこし鈍いのかもしれないと、寺本はよく思うのだった。  自分にはひと並みの性欲がないのかもしれない。でも、だからどうしたというのだろう。ひと並みの性欲がどの程度のものだとしても、別に四六時中、勃起だの挿入だので頭をいっぱいにしているわけではないだろう。それに寺本はこれまで自分の鈍さのために不便をこうむったことはない。その――いざ女性とホテルに入って、まったく興奮しないという事態に焦るまでは。  問題はそれ以来、寺本は誰かとホテルに行くどころか、他人と手をつなぐこともなくなったことだ。他人の体に触れるのはせいぜい満員電車に乗った時くらいしかない。「セカンドバージン」という言葉があったように思うが、今の自分は十分「セカンド童貞」を名乗れる自信がある。  その一方、自分の性向を確かめる意図もあって、ゲイポルノを試しに見たりはした――で、それは十分ことがわかった。  ――という話を、何かの折に妹に説明したのだった。  その時は兄妹でこんな生ナマしい話を、と思ったが、柴は彼氏と別れたとかで荒れていた晩で、ふたりともかなり飲んでいたし、兄さん、前に結婚するとかいってたあの人はどうなったのよ? と詰め寄られたので、どうせ忘れるだろうと思って話したのだ。  ところが妹は覚えていて、たまに実家で会うたびに「彼氏を作れ」というようになった。おまけに兄よりずっとそういう文化に詳しいのである。どうも最近、男同士のセックスや恋愛に興味がある女性が増えているらしい。  しかし――と、暗いガラスをみつめつつ「英雄のポーズ」へ姿勢を変えて、寺本はぼんやり考えた。この年になると友人を新しく作るのだって簡単ではない。学生時代とちがって、知り合いになる人間は仕事の関係者ばかりだし、そうすると必ず利害がついてまわる。  まして同性と付き合うとかセックスする――?に至っては、およそ自分の人生にありうることとは思えなかった。  三十分ポーズをとっても、新素材のシャツも高機能スラックスもしなやかに体にフィットし、汗じみもできない。これだから寺本は「高機能素材オタク」になってしまったのである。背広を着てネクタイを締め直し、会社を出たのは最初に警備員に声をかけてからきっちり四十五分後のことだ。それから海岸沿いの道を歩いて、自宅のマンションへ向かう。  波は静かだった。県道を走る車がうるさいので、堤防の向こう側、海浜公園の遊歩道が寺本のいつものコースだ。海水浴のシーズンには早いが、この道は年中、犬をつれて散歩する人やジョギングをする人が通りすぎていく。土日の昼間はサーファーたちもたくさん来る。  ふいに快活な笑い声が耳に入った。  柵で仕切られた遊歩道の下側で、こんな夜に砂浜を駆けまわって遊んでいる者がいるのだ。ちらっとそちらを眺めて、若い男がふたり、と寺本は思った。高校生だろうか?  ひとりは背が高く、もうひとりはそうでもない。背の高い方がもうひとりを挑発するように走り、もうひとりが追いつき、追いつく寸前に避け、ターンする。それをもう一度くりかえして、タイミングを逃した背の低い方がつんのめるような格好になり、そこをもうひとりの手が伸びて支えた。  ふたりとも笑っている。  あの年頃はああいうものだと、何気なく足をとめて寺本は考えた。仲のいい友人同士で夜中に何の意味もなく走ったり怒鳴ったり笑ったりして、それだけで楽しいのだ。よく見ると学生らしいのは背の高い方だけだった。成長期のひょろっとした体つきをして、足が長い。もうひとりはもっと年上だ。  たがいにもつれあうようにして近づくシルエットに見覚えがある気がして、寺本は眼を細めた。あの少し猫背ぎみの姿勢は――  と、その時、背の高い方がもう片方の腕をひきよせ、腰に手をまわしてぴったりと抱きしめた。顔をすこしうつむけ、唇をよせる。しばらくそのままの姿勢でいたあと、唇が重なった。  寺本は遊歩道に足をとめたままうっすら口をあけてみつめていた。見たくて見ていたわけではない、ただ見てしまったのだ。浜は暗く視界は悪かった。よく見えないからこそ、体が反応したのかもしれない。それに彼は――まさか……  他人のキスシーンなどみつめるべきではない、寺本が自分にそういいきかせたのはたっぷり何十秒か、それを眺めたあとだった。それは何度かネットで見た動画のキスシーンに似てとても長くて濃厚で――  急にスラックスの股が窮屈になるのを感じた。寺本はあわてて眼をそらすと遊歩道を先に進んだ。だから背の高い方が顔をあげて寺本の進む方向を見ていたことなど、まったく気づかなかった。  小犬丸が夜の砂浜を走っていく。空に月がのぼっている。  甲斐は笑いながら追いかけ、息を切らして立ち止まる。膝を曲げてゼーゼーと息をつき、みあげたところで小犬丸の手が伸びてくる。脇をくすぐろうとするのにコラっと叫び、逃げる彼を追いかけ、転びそうになったところを小犬丸の手に支えられる。 「変な気分だな」  のばした片手で小犬丸の手を、片手でTシャツをつかみながら、前かがみの姿勢で甲斐はつぶやいた。 「何だ」 「一年前と変わりすぎて、自分がちがう星に居る気分だよ。ほら、最近はやりの異世界なんとかみたいな」 「安心しろ。同じ星だ」  小犬丸はそう答えて甲斐の背中に腕を回した。背の高いイケメンに助けられるように、甲斐は膝をまっすぐ立てる。Tシャツの袖から伸びている小犬丸の腕はなめらかで、温かい。そこに少し現実離れしたものを感じるのだ。 「自分は変わらないのに、現実の方がちょっと変になってるみたいだ」  またつぶやくと、小犬丸の腕が腰に降りて、甲斐を抱きしめた。 「どうしてそう思う」 「いろいろキツかったからさ」  恋人同士のように抱きしめられ、頭のすぐ上で小犬丸にささやかれても、暗いし、人の姿は見えないし、まぁいいか、と甲斐は思った。こうしてくっつかれるのが好きなのだ。手をのばして小犬丸の髪をさわる。すこし硬めの毛のあいだに耳がぴょんと出ている。およそ現実離れしているから、やっぱり時々夢なのかもしれないと思う。  イヌメリに入社してこの町に来るまで、甲斐は都内の古いアパートに住んでいた。路地裏で一日中日が当たらず、地震が起きるとすぐ火事で燃えるか倒壊しそうな建物で、夏は凍えるほどエアコンが効くが冬は地面から底冷えが伝わってくる、そんなアパートだ。家賃が安いのと立地がいいので長く暮らした。  甲斐は子どもの頃から肝心なところで要領が悪かった。そのせいか会社勤めがいつも長く続かない。  学生時代の就活はそれほど苦労しなかったが、就職して二年後、親会社の都合で大規模な体制変更があり、希望とかけ離れた部署へ配置転換となったのが転職人生のはじまりだった。犬を飼いたいと思ったのもあのころだったはずだ。新しい部署は甲斐が苦手な仕事ばかりで、半年後に甲斐は転職した。しかし転職先もなぜかうまくいかない。仕事自体は順調でも、経営陣の不始末でいきなり倒産したりするのである。  三度目の転職先が業績不振で人員整理を行った時、甲斐は三〇歳だった。失業保険が切れてもまだ次の就職先がみつからない。就活のあいまに甲斐はアルバイトをはじめた。ずっと趣味で書いていたブログをきっかけに、声をかけられたウェブメディアの記事を書く仕事をはじめたのだ。やがて甲斐は就職をあきらめ、フリーライターで何とか食べていくことにした。月に六十から八十本の記事を書き、経費も自腹で、やっと自分より年下のサラリーマンとおなじくらいの月収を得られるようになって、どうにかなるかと思った矢先に何が起きたかというと――体を壊した。  やっぱり会社員っていいよな。と、甲斐はつくづく思ったものである。  蓄えが尽きる寸前まで静養し、ふたたび就活をはじめたが、今度は予想通りというべきか、うまくいかなかった。もはや甲斐の経歴は企業に喜ばれるようなものではなかったのだ。すでに三十代で、PR会社やWEB企画会社、フリーライターといった経験を、甲斐が希望する企業は敬遠した。  自分は「使いにくい」人間と思われているんだなぁ、と数十社を落ちた後に甲斐はまたつくづく思ったものである。実際そういう側面はあるのかもしれない。  そんなとき、いつ登録したのかも覚えていない転職サイトから、株式会社Inu-Merryの広報部員を募集中、というメールが送られてきたのである。  応募したのはちょっとした冗談のつもりだった。PR企画やメディア経験が役に立つとは思ったが、それまでさんざんお断りされてきたので、書類で落ちるだろうと予想しつつ、それでも真面目にエントリーシートは書いた。だから書類審査に通ったことにまず驚いたし、一次二次と面接を続けて最終まで進んだときには、驚きを通りこしてほとんどあきれていた。  そのせいか最終面接の会議室に小犬丸がちんまりいても、ああ、可愛いなあ……と思っただけで、就活者が考えそうなこと(この場で求められている態度とか、この犬にどんな反応をするのがふさわしいかといった計算)はまったくしなかった。今思うとどうもあのときはおかしな精神状態だったのである。浮かれたような、トリップしたような、ふわふわした心持ちだった。  最終面接で印象に残っているやりとりがある。 「うちの社名をみて何を連想するかね?」と、当時の秋田社長(現会長)に問われたことだ。 「ちぎりおきし――ですね」と甲斐は答えた。 「させもが露をいのちにて、あはれことしの秋もいぬめり。百人一首ですね」  社長はニコっと笑ってさらに質問をかさねた。それに対して甲斐はおよそありえない答えを返して、しまったと思った。会議室を出た時はもう駄目だと思い、うなだれて足元をみると、クンクンと小さく鳴く声がして、まだ子犬だった小犬丸が甲斐をみつめていた。思わず膝をついてその背中を撫でると、小犬丸は鼻先を甲斐の顔に寄せ、ぷちゅっとキスをして、さらに甲斐の顔をぺろっと舐めた。  しかしあのときの小犬がいま自分をがっしり固定しているコレだというのは、やはりどうにも|現実感《リアリティ》には欠けている。欠けているのだが――  月夜の浜辺ならまあいいか、と甲斐はつい、思ってしまうのだった。この町に来てからずっと、甲斐の気分はなんだかメルヘンなのである。  小犬丸の髪をかきわけ、飛び出した耳を触る。なめらかな毛が生えて、先端がすこし折れている。 「史雪」と小犬丸が呼ぶ。「俺が好きか」 「こいさんは可愛いよ。最初っからね」  かぷ。  重なってきた唇は、キスという言葉から想像する色っぽいしろものというより、食われてしまうような勢いだった。小犬丸の薄い唇はかすかに湿ってなめらかで、熱い舌が甲斐の唇を舐めると、上下のすきまを強引にこじあけて中に入りこみ、絡んでくる。甘ったるい感覚が甲斐の背中を走って腰までさがり、小犬丸の耳を弄っていた指の力が抜けた。 (こいさん……ダメだってば、いくら暗いからって外でこういうの禁止……)  唇をふさがれたまま甲斐は頭の中で力なく文句をいったが、まだがっちり腰を抱きしめている腕の持ち主は意に介した様子もない。やっと解放されたとき、甲斐の頭はぼうっとしているし、腰から足はしびれたようになっている。  寺本紀州が社長に就任してから、この犬はたびたび甲斐にこんな狼藉を働くようになったのだ。それはだんだんエスカレートして、実に困ったものだ――困ったものだけど…… 「人間の口は犬には御馳走だ。すごく美味そうな匂いがする。特に史雪は」  甲斐の内心の葛藤を破るかのように小犬丸はそういって腕をはずし、今度は肘をしっかりつかんだ。リードをひっぱる犬のように家に帰ろうとしているのだった。  だから歩きながら甲斐は聞く。 「仕方ないなあ。帰ったらまたご飯食べる?」  小犬丸はニヤッと笑った。 「ちがう。俺は史雪を食べる」

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