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5.犬と社長

 甲斐は自分が惚れっぽい性格だと自覚している。  とはいえ、二股かけたり修羅場になったりといった騒動にはおよそ縁がない。そもそも、過去の失恋と同時期に訪れた転職人生と安定しない収入のおかげで、ここ十年はいつも目先の仕事で頭がいっぱいで、リアルの恋愛などろくに考えたこともなかった。  惚れっぽいというのは、最近の表現でいえば、すぐ「推し」を作るとでもいうのか。身近にいる誰かのファンになり、遠目に眺めてドキドキし、眠れない夜にひそかにオカズにしていればいい、と思う性格なのだ。とはいえその誰かは甲斐の予想では九割五分くらいの確率でゲイではないから、甲斐の行動が「遠くから見ているファン」以上に発展するケースは極めて少なかった。  イヌメリ入社後の甲斐の「推し」はずっと寺本紀州である。  最初の出会い(正確にいえば目撃)は入社一週間後のことで、オープンスペースでたまたま寺本を目撃した甲斐はまずその外見に惚れこんだのだった。身長・顔・姿勢・服装等々、甲斐の理想が服を着て歩いていたのだ。  服の中身を嗅げるわけでもないのに、と小犬丸ならあきれるだろうが「人は外見が九割」という言葉がベストセラー本のタイトルにもなるように、人間は視覚に頼った動物なのである。仕方がない。  それから二週間後、当時経営企画部長だった寺本から甲斐へ問い合わせが来た。内容は甲斐が担当した企業ブログの内容についてで、メールのやりとりに終始したが、その翌日だっただろうか、息抜きスペースで甲斐が小犬丸をモフっているときにたまたま寺本がやってきて、軽い世間話をしたのだった。  甲斐は寺本とのメールのやりとりでも「この人はデキる」と感じて推しへの忠誠を高めていたのだが、息抜きスペースで話したときも、社内でぶっちぎりのスピードで昇進している寺本がじつに丁寧で紳士的な雰囲気なのに感銘を受けた。イヌメリに至るまでの経験から、生え抜きでかつ出世頭の社員には、仕事ができて切れ者でも傲慢で高圧的な態度を取る者が多いと甲斐は思っていたので、そんな気配を微塵も感じさせなかった寺本に、さらに好意を持ったのだった。  ちなみにその時は甲斐の足元にいた小犬丸が、途中で話に割り込むかのように吠えはじめたので、甲斐は寺本との会話を切り上げざるを得なかった。このころ甲斐はまだ、小犬丸がただの犬ではないことを知らなかった。  さて、推しは遠くでみつめるものというのが甲斐の主義だったので、このまま何もなければ寺本と甲斐にはほとんど接点が生まれなかったかもしれない。しかし甲斐が『右腕』に任命された後、この会社の伝統行事「犬による社長人事」で寺本は社長に任命されることになる。  それはまだ春というには少し早い季節で、甲斐は『右腕』として会議室の隅に立っていた。小犬丸はこの日、会合に来る直前まではいつものように甲斐の頭の中で話していたのに、ここに来たとたん黙りこんで、ふつうの犬のようにふるまっていた。  がらんとした会議室には、床に籠がひとつと、箱が三つ置かれている。後部に並べられた椅子に座るのは社長以下の役員。籠はからっぽで、箱にはそれぞれ、赤と白と黒の玉が入れられている。それぞれ違う匂いがついたおもちゃだ。 「こいさん、開始して」と秋田社長がいった。  これから儀式が行われるのである。役員が最終的に絞り込んだ社長候補が三人いて、それぞれが、赤、白、黒の玉を五つずつ割り当てられている。ここから小犬丸がいちばんたくさん籠に入れた色の候補が、次期イヌメリの社長に選ばれるのだ。  甲斐は部屋の隅に突っ立ったまま、この会社に就職して驚くことはたくさんあったが、さすがにこれ以上驚くことはないだろうな、とぼんやり考えていた(少し後でそれが甘かったとわかるのだが)。  トコトコと小犬丸が部屋の真ん中へ出て行って、籠と箱の匂いを順番に嗅ぎはじめる。  この「次期トップを犬が選抜する制度」を考えたのはイヌメリの創業社長だという。秋田社長が甲斐に説明したところによると、その理由は次のようなものだ。――イヌメリの重役となった者には共通する認識がひとつある。それは、人間が判断の根拠にする情報の多くは偏りがちで、人間が戦略と呼びたがるものはたいてい好き嫌いと偏見による当てずっぽうの判断にすぎず、正しそうな三つの選択肢からどれを選ぶのかは結局、その場の成り行きと運に多くを負っている、ということである。  つまり、いくら根拠をあげようとも成り行きと運にすぎないのなら、最終的な選択を人間よりもっと感覚の優れた(嗅覚や聴覚などで)動物にゆだねたところで同じではないか。あるいは、人間よりもっと良い判断をする可能性だってあるはずだ。  というわけで小犬丸がこうして、トコトコ歩いて玉を拾っては籠に入れているのだった。  寺本の玉は赤だった。小犬丸は赤、黒、白とまずひとつずつ玉を入れ、次に赤を入れた。次に黒。また黒。そして赤。赤。黒。考え込むようなためらいをみせて、白。  甲斐は内心ドキドキしながら推移を見守っていた。寺本のファンである以上、勝ってほしいと願うのが人情というものだ。赤と黒の玉はあとひとつずつしか残っていない。どれかの箱が空になった時点で、その色の候補者に決定することになる。見守っている人間たちの間にも緊張が走る。  小犬丸は動きをとめ、少し首を傾けた。黒の方をみていた。尻尾が振られ、鼻先がそちらを向いて、思わず甲斐は祈った。いや、赤を選んでくれ……! 寺本さんに……!  フン、と小犬丸が鼻を鳴らした。まっすぐ赤の箱へ向かい、玉を咥えて籠までもっていく。ポトッと音を立てて玉が中に落ちた。  会議室の緊張が一気に解け、顔を見合わせてうなずく役員の中で、甲斐は安堵のため息をついた。こうして寺本紀州は次期社長となることに決定したのだが、それは社長専属広報である甲斐と接触する機会が増えることでもあった――もっとも甲斐自身は、この人事が行われた会議室の場で、そのことをすっかり失念していたのではあるが。  街灯の明かりをたどって静かな夜の住宅街の坂をのぼる。途中で左手にあらわれる石段をあがると、小犬丸と住んでいる一軒家にたどりつく。 「甲斐君は犬を飼ったことがないんだってね」 「ええ。あの……この子を預かるなんて、僕で大丈夫なんでしょうか」 「リラックスしなさい。大丈夫。やりかたは小犬丸が自分で教えてくれるからね」  この石段を最初に登った時、甲斐は当時の秋田社長(現会長)とこんな会話を交わしたのだった。小犬丸は今よりずっと小さかった。しかし元気の良さは変わりなく、リードを握る甲斐の腕を前へ前へとひっぱろうとした。 「こいさん、甲斐君が大変だから少しペースを落としなさい。まだ慣れないからね」  甲斐の横で秋田が声をかけると、小犬丸はさっと後ろを振り向き、クゥン、と鳴いた。すぐに足並みがゆっくりになる。甲斐は賛嘆の声をあげる。 「賢いですね。人間の言葉がわかっているようです」 「こいさんはちゃんと聞いてるし、話もできるよ。すぐにわかるから」  この時の秋田社長の言葉「話もできる」をもちろん甲斐は、賢い犬の比喩だと受け取っていた。いま思えば間違いなく、あのとき彼と小犬丸はずっと話をしていたのだろう。  犬の右腕に任命されて、社長直々に専用社宅まで案内されるというのは甲斐をひどく困惑させたが(なおこの前日まで甲斐は別の社員寮にいて、小犬丸は秋田社長の家で育てられていた)後になって考えれば納得のいく話だった。 「ひとつ重要なことだが、この右腕という仕事をきみはまだ、ある種の冗談だと受け取っているかもしれないがね」  あの日、玄関の引き戸を開けながら秋田社長は穏やかに、だがきっぱりといった。 「これは本当に重要な職務だ。きみは小犬丸と一緒に会議や採用の場所へ出ることになるし、もちろん広報の仕事もある。大変なこともあるかもしれないが、私たちは甲斐君の実力を信じている。それに面接であの歌を出してくれただろう。あれはよかった」 「歌?」 「社名から連想するものをたずねただろう」  甲斐は動揺して赤くなり、はずみでリードを持つ手が緩んだ。 「契りおきしさせもが露をいのちにてあはれ今年の秋もいぬめり。あなたの言葉を信じてよき知らせを待っているのに、今年の秋もむなしく過ぎていきます――現代的にいえば、あなたのコネを信じていたのに今年も不採用お祈りメールしか届かないことへの恨み言だ――というね、あの答えがするっと出てくるのは素晴らしい」 「あ、あの……その、すみません」 「なぜだね?」秋田社長は甲斐の困惑を意に介さなかった。 「それはそうと、わが社はあの歌のようなことはない。甲斐君、私たちの言葉を信じなさい」  どうして秋田社長は「私たち」というのだろう、と甲斐はあのとき思ったものだった。もちろん今は、その意味はよくわかっている。  今、人の姿をした小犬丸は石段を飛ばしながら先に上までたどりつき、甲斐を待っている。玄関灯が引き戸と足元の敷石を照らしている。戸はがらりと乾いた音をたてて開き、中に入ってうしろ向きに錠をかけていると、小犬丸の腕が甲斐の腹にまわされて、背中に重みがかかってくる。 「史雪、何をにやにやしているんだ」  ぴったり背中にくっつかれたまま、耳元でイケメンの声がささやく。 「こいさんが小さかったときのことを思い出してた」  甲斐はうまく締まらない錠前をがたがた鳴らしながら答える。昔ながらの一軒家の引き戸も、古めかしい錠も甲斐はいまだに慣れなかった。だから毎日戸締りで格闘することになる。すると必然的に他の注意はおろそかになる。 「こいさん可愛かったなあ。紀州さんが社長に決まった日もまだ小さかったしさ……」 「史雪」  すっと、甲斐の首のうしろで大きな生き物がぶるりと震えるような気配がたつ。 「舐めるぞ」小犬丸がささやいた。 「え、いやその……やめよう?」 「やめてほしいか?」  小犬丸の声が甲斐の耳から首筋をつたって足のつけねまですっと降りる。  たちまち砂浜でのキスの名残が甲斐の内側で煽られた。全身の注意が背中に惹きつけられてしまう。ぞくぞくする背筋をこらえてやっと鍵を閉めおわる。背中に抱きついている小犬丸は甲斐の耳たぶをはむはむと甘噛みしている。おまけに人になった小犬丸の器用な指はじっとしていない。ポロシャツの内側にすべりこんで弄りまわし、さらに尻には堅いものが当てられて、そのまま前後に揺さぶられる。  うわあ――だめだまた、流される。甲斐は背中にぴったりくっついた重みを動かそうと腰をくねらせたが、それはどうやら逆効果だった。なので今度は人間らしく言葉を使ってみようとする。 「あのさ……こいさん――昨日もしたよね?」 「食事っていうのは毎日するものだろう」 「あ、あの、……胸やめ――」 「史雪を食べるっていっただろ?」 「あのね、小犬丸……ご飯はちゃんと食べてるんだから……」 「この体は成長期なんだ。史雪はおやつ」 「こっちはとっくに衰退期なんだって――っ、痛いってばこいさん、つままないで――」  小犬丸の腕の力がゆるんだ。だがそれは一瞬だけで、次に甲斐は上がり框に腰かけた小犬丸の膝の上にいて、正面を向いてキスをされている。さっきよりもっと長いキスで、甲斐の頭の芯はぼうっとしてくる。  最初に小犬丸が人の姿に変わった時はまだこんなキスはしてこなかった。単に唇を押しつけてくるだけだったのに、今は息が苦しくなるほど口を吸われる。一度解放されて呼吸したとたん、また強く引き寄せられて、ざらりとした舌が甲斐の敏感な舌先をつつき、絡め、吸い上げる。小犬丸の指はそれと同時にするすると動いて―― 「あ、そこ――」 「人間の指はかなり便利だな」  いったいどんな手品を使われたのか、甲斐はもう袖を抜かれ、首までシャツをあげられて、チノパンの前も開けられている。トランクスの上からゆるりと中心を握られる。 「こいさん――あ、」 「史雪はほんとうに美味そうな匂いがする」  ペロっと胸の先端を舌で舐められた。甲斐の体はびくっと跳ねた。 「そしていつも美味い」 「あ……あ…んっ、あ……」  首から腋、胸、臍と舐められ、時折さわさわと小犬丸の耳や尻尾の毛皮であちこちをくすぐられ、愛撫でわきあがる快感の行き場を押さえられる。はっと気がつくと床にうつぶせにさせられていた。待ってよ、いつこいつ自分の服脱いだんだよ、どうして布団じゃなくてこんなところでするんだよ……と(今日だけでなくかなり頻繁に)甲斐の頭に浮かんだ疑問も、尻の奥に小犬丸の舌がのびたとたん雲散霧消する。 「あっ―――や、こいさん……」 「美味いぞ、ここも」 「や、……洗ってなくてきたな――」 「史雪はいつまでも覚えないんだな」  ふうっと息が吹きかけられて、その後まるで誇張されているかのようにぴちゃぴちゃと小犬丸が舌を使う音がひびいた。甲斐の頭の中で美声がささやく。 (俺は|神《カミ》なんだ。生き物から沁みだすもの、あまねく俺の糧で、俺が浄化する) 「わかった、わかったから――あ」  舌の次は指だった。ぐいっと後ろに押しこまれる。もっときつくてもおかしくないのにあっという間になじんで、内側を押し広げた。 「あ、そこや――あ、ああああ!」  甲斐が思わず大きく声をあげた場所を小犬丸の指はさらに追及し、深くえぐった。  眼の前を星が飛ぶような快感に襲われる。またキスが降ってくる。もう何も考えられず、応えるように唇を合わせると、小犬丸の舌が甲斐の唾液を吸いこむようにまとわりつく。唇が離れると同時に指が抜かれ、それにつれて収縮した内部がびくびく震え、期待とも余韻ともつかない甘い感覚がつま先まで走る。  抱き寄せられて眼をあける。小犬丸の股間から猛々しくそそりたつものが甲斐のそれと触れあった。どちらの先端もこの先の期待に濡れている。 「う……ん」  甲斐は思わず喘ぎをもらし、渇望にかられて物欲しげに小犬丸の眼をみつめた。小犬丸はまっすぐ甲斐をみつめている。不遜なのにどこか寂しげな影が浮かんで、すぐに消え去った。 「……史雪」  両足を持ち上げられ、押し入ってきたものは指よりもずっと太くて熱いのに、甲斐の奥にスムーズに入りこんでいく。小犬丸が満足げな吐息をつく。 「ああ……いい……すごく……史雪……」  根元近くまで甲斐のなかに猛りを埋めこんで、小犬丸が静かになったのはほんのわずかの間だった。いきなりぐっと奥を突かれ、快感のあまり脳裏を飛んだ星に甲斐は高い声をあげた。あっけなく自分が達したのがわかったのに、小犬丸はさっき指で刺激した場所を押し広げながら、なぞるようにさらに突く。そのたびにまた電撃のようなしびれが走って、真っ白になるほどの快感が止まらずにやってくる。 「こいさん、ん―――」  伸ばした手を握りしめられ、甲斐はそのまま甘い振動に身をまかせる。ゆっくりそれがおさまって、体の中から小犬丸がいなくなっても、まだ終わりはこなかった。今度は力が抜けた自分の皮膚を舐める舌を感じる。小犬丸が甲斐の漏らした体液をすべて舐めとり、きれいにしていくのだ。まるで母犬のように。それからもう一度、甲斐をぎゅっと抱きしめる。  そしてささやく。 「史雪、俺が好きか?」 「好きだよ」  甲斐はぼんやり答える。小犬丸の髪のあいだからつきでた犬の耳が甲斐の肌を柔らかく撫で、快楽のあとのけだるさがきて、いまは眠くてたまらない。布団にたどりついて眠らなくては。 「あいつより?」 「誰?」  たずねかえしても小犬丸は何もいわなかった。甲斐のまぶたは自動的に下がってくる。だから半分夢うつつでつぶやく。 「こいさんは可愛くてカッコいいけどさ……僕はもう若くないから、布団の上がいいんだって……」  そのままぼんやり意識が途切れて、ふと気がつくと甲斐は茶の間の畳に座っていた。  春は暦の上だけで、ガラス越しの風景はまだ肌寒い色のままだ。ふやけたような意識のどこかで甲斐は夢をみているな、と思う。そう思っているのに夢から覚めないまま、気配を感じて眼を上げる。  その少年はそこに、この社宅の縁側に立っていた。  まだ子供で、小学生か、せいぜい中学一年生くらいにみえる。  甲斐は焦った。なぜなら少年は素っ裸で、小犬丸の首輪をはめ、リードを垂らしていたからだ。  そして甲斐の困惑を知らぬげに、小犬丸の声でいった。 「史雪、人の姿がいいなら、これでどうだ?」  垂れた耳と尻尾が揺れた。  あれからほんの数か月。そのあいだに子犬は若犬になり、少年は若者になったのだ。

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