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6.犬と成長

 梅雨を間近に控えているものの、今日もさわやかな晴れの朝が到来した。  甲斐史雪のさわやかな朝は、脇腹に押しつけられる(暑いくらいの)温もりと、顔をつつく犬の濡れた鼻先ではじまる。 (朝だぞ、史雪) 「うん……」 (起きろ) 「ん――もうちょっとだけ……あと五分……」 (ダメだ) 「うん……起きるけど……ちょっと……」  横向きに丸くなっている甲斐からかすかな寝息がたつ。寝息によって生み出された空気の流れと甲斐の呼吸音は、人間には見えないし、ほとんど聞こえない。しかし犬の耳と鼻先は正確だった。 (史雪)  前足が半分めくれた掛布団をひっかき、甲斐の裸の腹から胸の方へ進められる。 (起きないなら――) 「――ん? ん、ん、ん、―――むむむ……」  ずっしり胸の上に乗っかられ、口のまわりが濡れた感触に侵されて、やっと甲斐は完全に目覚めた。両手で小犬丸を引きはがすべく奮闘しながら「やめっ――こいさんっ」と叫ぶ。 (おはよう)  犬は平然と甲斐と眼をあわせ、いつもの美声を頭の中へ響かせてきた。 (散歩行くぞ) 「そだね……おはよう」  あきらめて甲斐は布団から立ち上がる。犬の右腕は休日でも寝坊ができない。小犬丸は早起きなのだ。ガラス障子ごしにみえる空は薄青く、太陽は昇りはじめたばかりである。昨夜布団にたどりついた記憶もないが、人の姿をした小犬丸が運んでくれたのかもしれない。  体は軽かった。小犬丸は(昨夜のように)なかば強引なやり方で甲斐に対してさまざまな狼藉をはたらくが、どういうわけかそのたびに甲斐の体調はよくなるのである。加えて擦り傷や皮膚の荒れもすべて治るし、しつこく責め立てられた場所も違和感も残らない。  (カミ)、ね。  この点に関して甲斐は深く考えるのをあきらめている。人間も犬と同様に習慣の生き物なので、日常化した異常現象に抵抗力を持っていないのだ。そしてシャワーを浴びながら寝起きの頭で、だからって毎日はないよなあ……などとぼんやり思っているしまつである。  濡れた髪を拭き拭き玄関へ行くと、小犬丸はもうリードをくわえ、訳知り顔で待っている。甲斐はリードを引っ張られながら石段を下り、やや小走りに海岸へ向かう。もちろん小犬丸が用を足したときのためのお散歩セットも持参である。  浜へ降りて波打ちぎわを歩いていくと、濡れた砂に甲斐のサンダルの足跡と、小犬丸の足跡がつく。少し先の公園に犬を放せるスペースがあるので、そこまで行くのだ。  同じように犬を散歩させている人とすれちがう。甲斐は犬の飼い主に挨拶し、犬同士はというと、初対面ならまず互いに鼻と鼻を突きあわせ、お互いすばやく体を(尻まで)嗅ぐ。その後は十中八九、小犬丸の前に相手の犬が腹をみせるか、小犬丸がもう一匹の背後からマウントして、完了。  二度目は最初から、相手の犬が小犬丸におもねって(もはや甲斐にはそうとしか見えない、という意味だが)ころんと腹をみせ、小犬丸は投げやりな感じで首や尻尾を振ったり、時には相手を甘噛みしたりする。  甲斐は当初、この犬たちのふるまいに大変困惑したものだった。救いはこの挨拶(?)が、非常に短い時間で完了することで、多くの飼い主は犬たちの行動にほとんど気づいてもいないらしい。小犬丸は人間についてはいろいろと論評するが、他の犬については甲斐に何もいわない。漠然とわかるのは、小犬丸がすれ違う犬たちから畏敬の念を持たれていることだ。他の犬たちのボス、といった調子の扱いでもなく、敬われているのである。  なるほど(カミ)ね、と甲斐は思う。カミ。(カミ)から()むわけだ。いや、これではただの駄洒落だ。  海浜公園のドッグランにつくと、リードを外された小犬丸は好き勝手に走りまわる。カミカミとうるさいわりに、こうして遊ぶ彼はただの犬にみえる。そうこうするうちに甲斐の腹が鳴る。それを聞きつけたかのように小犬丸は戻ってくる。  与太話をしながら社宅に帰り、小犬丸と自分の食事を用意する。いつものドッグフードを食べ終えた小犬丸は甲斐の足元にやってきて、物欲しそうな眼でみつめる。 (人間の飯もいいな) 「人の姿になればあげるよ」  小犬丸はふん、と鼻を鳴らす。 (|人型《ヒトガタ》にこの食い物は不要だ。しかしそのウインナは美味そうだ) 「体に悪いからダメ!」  小犬丸はまたふん、と鼻を鳴らす。眼を伏せた様子が可愛くて、甲斐は箸をおきたい衝動をこらえる。  最初に小犬丸が甲斐に話しかけたのは、この家で過ごした最初の日、案内を終えた秋田社長が帰った直後だった。秋田は玄関で小犬丸のリードを外し、甲斐を連れて和室が中心の建物と庭、トイレや風呂などイヌ用とヒト用の設備をそれぞれ説明した。  小犬丸はそのあいだ、ふたりにつかず離れずといった距離で家じゅうを嗅ぎ歩いていたが、甲斐が石段の上から秋田社長を見送って玄関先へ戻ってきたときは、クンクン鳴きながら足元にまとわりついていた。  そこで甲斐がしゃがみこんで小犬丸を抱き上げ――この頃はまだ楽々と持ち上げられるサイズだった――濡れたまるい瞳をみつめながら何気なくつぶやいたときに、それは起きた。 「じゃあ、これからよろしく。小犬丸」 (こちらこそ)  甲斐は頭の中に響いたその声を「気のせい」だと思った。犬が人間にこうやって話しかけるとは微塵も思っていないのだから当たり前だろう。しかしあまりにもはっきり聴こえたので、思わず首をめぐらせてあたりを見てしまったのも、自然なことだった。  誰もいなかった。  甲斐は小犬丸を三和土におろして引き戸を閉め、今度は家の奥の方を眺めて「疲れているらしいな」とひとりごとをいった。  そのとたんにまた、それは聞こえた。 (ちがう、俺だって。史雪) 「うーん。幻聴でオレオレ詐欺が聞こえるっていうのも珍しい」 (あのな、俺だっていってるだろう)  その日いつまでオレオレ詐欺会話をしていたのか、いまとなっては甲斐は正確に思い出せない。疲れて途中で眠ってしまい、起きたときは変な夢を見たと思ったのだが、あいにく夢ではなかった。  そして今にいたるわけである。 (史雪は意外に頑固だからな。俺が桜姫だったときの右腕はすぐに納得したぞ) 「桜姫だった、っていうけどさ、こいさん、前世のことはどのくらい覚えてる?」  洗濯をしたり掃除をしたりといった雑用を片づけたあとの土曜日は暇だ。甲斐が茶の間の座卓でノートPCを弄っていると小犬丸は甲斐の我が物顔で乗りこんでくる。座椅子の肘掛けを尻尾がぱたぱた叩く。いまだに更新を続けている趣味のブログを広げているあいだも毛先が甲斐の手首をくすぐるから、邪魔だと押しのけようとしても、小犬丸にみつめられると逆らうのが苦しい。中身がなんであれこの可愛さは罪だ、と甲斐は思う。  しかもこの生き物は人間の言葉で話しかけてくるのだ。一年弱続いているこの生活に甲斐はすっかり慣れてしまった。おかげで前世や今生といった言葉を平気で使ってしまう。  と、生き物はするりと甲斐の膝を抜け出して畳に立ち、そのまますうっと長身の人間の姿になった。  甲斐は船酔いにあったようなめまいを一瞬感じて、つぎに別の意味でくらくらする。なぜかというと、まっすぐ立ったこのイケメンが素っ裸だからだ。尻尾と耳つきだが。 「こいさん、服着よう……」  小犬丸は長いまつ毛を流して甲斐をみる。 「覚えているといえば覚えているが、俺の記憶じゃない」  深い意味があったわけでもない甲斐の質問に律儀に答えながら、小犬丸は丸めてあった浴衣を羽織った。人の姿の小犬丸は、本人が家にいるつもりのときは浴衣、外へ行きたい時はTシャツにハーフパンツである。ちなみに季節感はない。 「人間の持ち物でたとえれば……そうだな、万華鏡を見ているような感じだ。起きたことは覚えているが、順番がバラバラだ。それに桜姫は桜姫だ。俺じゃない」  甲斐は眉をひそめた。 「こいさん、桜姫だったときの気持ち――感情や意識はない?」 「史雪の言葉でいえば『桜姫のデータはある』。でもそれはデータだからな。俺じゃない」  人知を超えた存在にしては、小犬丸はカジュアルに話しすぎじゃないだろうか。  ともあれ、現実(リアル)と呼ぶべきものが何であるにせよ、イヌメリに入社して様々な衝撃を乗り越えた現在の甲斐は、小犬丸という存在をめぐる機構(システム)を次のように理解していた。 ①この「小犬丸」という犬のなかには、これまで他のたくさんの犬の体を生きてきた魂が入っている。 ②この魂は長い間(数百年?)自分が気に入った人間をなんらかの形で守護してきた。 ③イヌメリの創業者、土佐のペットだった「明智小五郎」のときから、この犬(神)はお気に入りの人間(右腕)を介してイヌメリという会社を護るようになった。  ――と、ここから甲斐にとって恐ろしい推測が導き出される。つまりこれだ。 ④右腕とはある種の人身御供である。  しかし、である。 「それはちがう。なぜなら」  最初に小犬丸が変身したとき、混乱した甲斐が口走った言葉に対し、このイケメン(当時は美少年といえる外見だった)はおっさんめいた偉そうな口調でこの推測を言下に否定した。 「食いたいほど美味そうなのは史雪で三人目くらいだし、食いたいのは史雪だけだ」  いやそういう話じゃなく――それともそういう話なのか? いやどういう話だ?――と、甲斐が混乱しているあいだに、月日は既成事実だけを作ってどんどん進んでいったのである。人生とはそんなものだ。  既成事実の順序と内容は次のようなものだった。最初に小犬丸が美少年スタイルになったとき、甲斐は犬式の強引さで唇を奪われた(犬はヒトの口が好きだ。なぜなら美味そうな匂いがするから)。次に小犬丸が姿を変えた時(前回より成長していた)は、眠っている間に手淫で弄られた。その次は口淫(甲斐はクライマックスと同時に目が覚めた)――その次は尻。小犬丸の行動がエスカレートするたびに出現間隔は短くなり、変身した小犬丸の姿もますます成長して……  そしてやたらと背が高くて肩幅のひろいコレになっちゃったんだよなあ、と、甲斐はノートパソコンを閉じ、座椅子のすぐ後ろに立って自分の髪を弄っているイケメンを見上げる。  イケメンはやっと甲斐を独占できたとばかり、満面の笑みを浮かべ――ちなみにこの笑顔は甲斐の心臓にいささかけしからん影響を与えるのだが――髪の毛をさらにくしゃくしゃとかき混ぜにかかる。 「史雪……?」 「なに」 「おやつ。くれ」 「ダメ!」 「姿変えができるようになる前、俺は大変だったんだぜ?……史雪は俺を抱いて寝てそれでよかったかもしれんが」 「誤解を生む表現はやめろって。こいさんは犬だったんだから!」 「俺は今も犬だ」  イケメンはそういうが、その股間で存在を主張しはじめているものはあまり犬らしくない。なにしろ甲斐には犬の一物に興奮する趣味はないからだ。とはいえ小犬丸が人へ変身するようになって何度目だったか、最終的に甲斐が「美味しくいただかれてしまった」ときは、一方的にいただかれたというより、甲斐の前にもごちそうが差し出されていたのは否定できないのである……否定はできないのだが……  しかしあのとき甲斐はほんとうに困ったのだ。何しろいくら傲岸不遜な表情と体格で甲斐を押し倒してきたとはいえ、小犬丸はティーンエイジャーの姿だし(この年齢はまだ犯罪だ!)そのくせ、長らく後ろの自慰で済ませていた甲斐には危険なほど、やたらと立派なその……一物を持っていたのである。  その晩は、満月がこうこうと光っている夜中だった。  薄暗いのに小犬丸の全身は甲斐の眼にはっきりみえた。それにティーンエイジャーの外見といっても、締まった腹といい、適度な上腕筋といい、細いが力強い太腿といい……太腿……さらにその間にしっかりとそそり立っていている……  思わずごくりと唾を飲んだ甲斐にむかって小犬丸は前髪を揺らしてにや、と笑ったものだった。月明りのせいか、その表情を甲斐はいまだにはっきり覚えている。 「ほらみろ。な?」 「ほらみろじゃない!」 「そろそろ慣れただろ? だいたい毎日俺を撫でているのに」 「だってこいさんは――犬じゃないか!」  甲斐はこの時、すでに定番となっていたせりふを叫んだものである。 「それに――こっちは右腕なんだから、モフモフは世話係の特権だろ! でも人間は――人間はモフれないっ」 「史雪。そのもふもふについてだが」  小犬丸はさらに顔を近づけてくる。 「いったいいつそんな言葉ができたんだ。桜姫は聞かなかったぞ」 「桜姫だって? 待てよ――ちょちょちょちょちょっと待って! ももも、もももしかして桜姫も右腕のえっと――吉野さんと!?」  焦った甲斐の口からは声だけでなく唾も飛び出したが、小犬丸は意に介さなかった。甲斐のひたいを手のひらでそっと押さえて静かに答える。  手のひらはさらりと乾き、すこしひんやりしていた。 「それはない。前世で桜姫は吉野とよく話をしたが、たいていは夢の中だったし、桜姫は姿変えもしなかった。人型(ヒトガタ)に変われるほど相性があう人間はめったにいない。もちろんはじめてだ。男もはじめてだが――この方が史雪の都合にもあうんだろう?」 「僕の都合ってなんだよ!」 「いまさら照れるな。史雪はコッチが好きなんだ」 「どうせ僕はネコだよ!」 「何が猫だ。史雪は人だ」  のしかかってくる小犬丸(ちなみに変身した時から素っ裸だった)は甲斐の顎から首筋へ熱い息をふぅっと吐いた。こちらに向けられたまつ毛からあふれる壮絶な色気に甲斐は今度は別種の困惑に満たされた。ちょちょちょちょ――――っと待って、とまた甲斐は思った。まずい。これはまずい。流される。もうただでさえ眼の前のそそり立つアレに想像力をかきまわされているのに、そんな表情をされた日には、いったい何に義理立てしているのかも不明だが、甲斐のなかの倫理めいた観念が天国へとはばたいてしまう。  なのにイケメンはまた絶妙なタイミングで、ふっ……と微笑んでいったのだった。 「だから俺も姿変えをした」 「駄目だよ! ダメダメ!」 「なぜだ?」 「だって、み、未成年はダメ……! 犯罪だから……!」  すでに声に力はなかった。  甲斐はまたごくっと唾を飲みこんでいた。小犬丸のそそり立つものがパジャマ越しに当たっている上、その大きさとまだ大人になり切っていない顔のギャップがイケナイ魅力で追い詰めてくるのだ。パジャマのズボンの内側が堅くなると同時に、後ろも期待するかのように疼きはじめる。他人とのセックスは何年もお留守だったのに、甲斐の意識はもう圧倒的に桃色モードだった。さらにダメ押しする小犬丸の声(高校生の顔してこんな声だすの卑怯だろ!)がさらにそこへ拍車をかけた。 「史雪。俺は犬だぞ。治外法権だ」  えーっと獣姦はまずくなかったっけ……  などといった考えがかすめたのも一瞬で、甲斐の意識が小犬丸の唇と舌に押し流されたのが、もう一カ月以上前のことである。  しかしいくらなんでも今はまだ昼間だ。甲斐は耳を弄ってくる小犬丸の指を払いのける。 「こいさん、おやつは夜だけ。一日一回」 「つまらんな」  そうはいったものの小犬丸は指をはずし、甲斐の座椅子の横にごろりと寝そべった。甲斐は肘掛けのすぐ近くにあるひたいとその上から突き出た耳をそっと撫でる。小犬丸は気持ちよさそうに眼を閉じた。開け放した窓から気持ちのいい風が入ってくる。  かなり規格外ではあるが、平和な日常だった。あまりにも平和でおかしな気持ちになる、と甲斐は思う。 「小犬丸」甲斐はそっと呼ぶ。 「ん?」 「ずっとここにいてよ」  小犬丸はうす目をあけて甲斐をみた。 「心配するな。俺は人と共にいる」 「ずっとだ」 「犬の寿命までな」 「でもこいさんは(カミ)なんだろ?」 「そうだな」 「それならずっといられないの?」 「神は人を歩かせ、人は犬と歩く」 「今なんていった? こいさん」  答えはなかった。横をみると床に広がった浴衣の中から毛と肉球がのぞいている。犬は前足に頭をのせて、すやすや眠っているのだった。  日が暮れるころまた浜へ行った。  夏でなくてもこのあたりの海岸は観光客やサーファーたちに人気だ。甲斐は小犬丸にボールを投げて遊び、疲れると座ってコーラを飲む。小犬丸の背中を撫でさすって立ち上がったとき、砂浜に見覚えのあるシルエットを見かけた。見慣れたスーツではなくジャケットにパンツでこちらに横顔を向けている。背中から首にかけてのまっすぐな姿勢がきわだっていたから、甲斐にはすぐにわかった。  寺本紀州だ。  はじめてではなかった。彼の住居もこの近くだから、二、三度見かけたことはある。しかし先方は気づいていなかったし、推しは遠くで見守るものという自分の原則に従って、甲斐はみずから声をかけたことはない。今日もそのつもりはなかったのに、甲斐がみつめる先で寺本は気配でも察したかのように体をずらし、こちらをみた。  甲斐は少し迷った。離れているからといって大声で挨拶するのもためらわれるし、だからといってむやみに近づくのも気が引ける。社長は休日に社員と世間話をしたいものだろうか。などと一瞬で考えた結果、中途半端な感じになった。要するに会釈するだけにとどめたのだ。  寺本は一瞬、固まったようにみえた。そのまま海の方へ歩いていったので、結局、自分を見たような気がしたのはこっちの錯覚だったのかと甲斐は思った。それでも別に構わなかった。休日に推しを拝めるのはありがたいことである。 (史雪はあいつが気に入ってるな)  小犬丸の声が聞こえた。 「ファンだからね」 (見ているだけか) 「社長だよ? 僕とはちがう」 (そうとも限らないぞ) 「まさか」  否定したものの、想像するのはやはり悪くない、と甲斐は思った。現実には起きなくても、もし寺本紀州と何かあったら――と考えるのは楽しくて、これまでだって空想しなかったわけではない。週に一度の報告会の前に彼と一対一で話す時間がある。社長室のデスクの前、スーツ姿の紀州さんがつかつかと近づき、自分の顎をもちあげ――  小犬丸の尻尾がぱしっと足を叩いて、甲斐はみじかい夢想から覚めた。 (史雪、オフィスでやってみたいのか?) 「あのねえこいさん。誰だってこの程度の夢はみるよ」  犬はふんと鼻を鳴らした。 (そうか。覚えておこう)

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