8 / 19

8.犬と災難

「こちらへ来なさい」と寺本紀州がいった。  イヌメリの社長の執務室は意外に狭い。黒光りする古めかしい木製家具調度が並び、窓は小さい。イヌメリ社内の他のオフィスはモダンでさっぱりしたインテリアなのに、この部屋だけはちがう。大きめのデスクはシンプルなノートパソコンと小物が少し。表面がぴかぴかと光っている。甲斐の視界の隅もおかしな調子だった。ぴかぴか点滅して、カメラのレンズにゴミがくっついているかのような、膜でも通したような感覚の鈍さがある。 「はい?」と甲斐は聞き返す。「報告は――」 「それは聞いた。いいからここへ来なさい」  この部屋で寺本と話すとき、いつもそばにいるはずの小犬丸がそばにいない。わけがわからないまま、甲斐は絨毯を踏んでデスクの向こうへ行く。寺本は肘掛椅子に座っている。デスクや他の家具同様これも古めかしいデザインで背もたれは黒い革張りである。 「座りなさい」  寺本は真顔である。しかしどこに? 甲斐はとまどう。自分が座るところなどどこにもない。 「いいから座るんだ」  突然甲斐は座っている自分に気がつく。尻の下も背中も腰も、ほんわかと温かく、ふわふわしている。座る場所などなかったのに、いや座る場所がなかったからこそ、甲斐は寺本の膝の上にいるのだ。いやそんな、まさか。猛烈な焦りに襲われているにもかかわらず、甲斐はふわふわと夢心地だ。 「紀州さん――あの、」 「静かに」 「あの、こんな――」 「史雪」 「え、え、え――ひゃっくすぐったいですよ紀州さんっ」  ――寝起きにおかしな夢をみるのは、湿気の多い天候のせいか、それともこの犬のせいか。  眼をあけると小犬丸(人間ヴァージョン)が背中にぴったりくっついて甲斐の耳たぶを噛んでいた。古い木造家屋には雨の音がよく響く。天気が悪いと思ったら、いつのまにか梅雨入りしていた。  雨のおかげで散歩の時間が減っているせいか、近頃の小犬丸は機嫌が悪い。朝も甲斐を起こすどころか、ふてくされたようにごろごろしているし、出社するときはレインコートを着るかどうかで揉めるので、甲斐はすこし困っている。  こういうときは小犬丸と人間の言葉で会話ができることが逆にもどかしい。何しろ「だってこいさん、雨が降っていれば濡れるじゃないか」とでもいおうものなら、すぐさま次のような会話になるからである。 (人間はな。俺にはこの素晴らしい毛皮がある) 「それでも濡れるのは同じだろう?」 (濡れたらこうすればいい)  玄関の三和土の上で小犬丸はブルブルっと体を震わせる。水を飛ばすふりである。 (これで完了だ。簡単だろう。服なんて人間のものだ。犬には関係ない。それにその布で覆われると、得体のしれん奴らにのしかかられる感じがするのが気に入らん)  甲斐は小犬丸の素敵な赤いレインコート――もちろん犬用の――を片手に困惑する。 「これが小さいから? 窮屈だってこと?」 (サイズの問題じゃない。それにこの程度の雨で毛皮が濡れても俺は困らない)  たしかに、外はどしゃぶり、というほどではない。空からは細かいしずくがしとしと落ち、庭の紫陽花の青紫が鮮明に浮き上がる。いったいどうしたものだろう――と迷った甲斐は、奥の手を使うことにする。 「だけどさ……こいさん、あの……これ着たら可愛いよ?」 (可愛い?)  とたんに小犬丸の尻尾がぴんと立つ。 「うん。ほら、こいさんの毛の色って赤が似合うし」  そういいながら甲斐はしゃがみ、レインコートを広げて見せる。犬は首を曲げて甲斐の手とナイロンの匂いを嗅いだ。 (仕方ない。着てやろう)  といったやりとりが雨のたびに繰り返されるのである。  そして帰宅してからは、たとえば食事を終えて台所で食器を洗っている最中も、人の姿になった小犬丸がなにかとちょっかいをかけてくる。雨が降っていると帰宅途中の寄り道散歩もほとんどないので、退屈しているらしいのだ。  イヌメリ社内には小犬丸が動き回る場所はたくさんあるし、息抜き部屋の小犬丸デスク周辺では休憩中の社員も一緒に遊んでくれるはずなので、それほど運動不足になるとも思えない。だがここには「犬としての気分」が上がらない、という問題があるらしい。  小犬丸の気分があがらないのは甲斐にとっても本意ではない。正直にいえば、自分にとって小犬丸がどんな存在なのかは甲斐自身も把握しきれていないところがあるのだが、この生き物の形がどんなものだろうと(つまり犬だろうと人だろうと)小犬丸にはしょんぼりしたり、苛立ったり、退屈だったり寂しかったり――要はネガティブな雰囲気になってほしくないのである。  おまけに甲斐には近頃べつの気がかりも発生していて、そのため気分はともすると、梅雨空と同様にどんよりして雨がちだった。だから小犬丸まで「気分があがらない」のは、甲斐にとっても困ったことだ。  というわけで、小犬丸が遊ぼう遊ぼうと構ってくるならできるだけ相手をしたいところなのだが、食器を洗っている最中に構われるのはかなり邪魔だし、人の姿になった小犬丸が仕掛けるちょっかいは、ただの遊びというにはやや過激なのだ。 「史雪」 「こいさん?」 「腹が減った」 「食べたばかりじゃないか」 「犬専用のな」  人の姿になった小犬丸は食べ物をくれとは決していわない。いわないが、何も欲しがらないかというとそんなことはなく…… 「こいさん、そんなところにいると危ない――」  油断すると吐息を感じるくらいすぐ後ろに立ち、手のひらでするすると、甲斐の足だの腰だのを撫でてくる。犬は猛獣ではないはずだ。その通り、犬の姿の小犬丸はちっとも猛獣には見えない。なのに人の姿になったとたん、その表情が肉食獣を連想させるのは、おかしいんじゃないだろうか。 「史雪はいい匂いがする」 「ひゃっ……やめ」  甲斐の耳に息を吹きかけてくるのは、そのあたりが弱いと悟っているからだ。確信犯の手口だが、短期間に急激に小犬丸の愛撫に慣らされてしまった甲斐は、三十も半ばになろうとする男の威厳を保つのに失敗する。そんな威厳などもともと存在していたかどうか怪しい、ということは棚に上げて。 「こいさん、今は食器洗っているの!」 「だから?」 「だからって――いま何時?」  面白いことに、小犬丸は甲斐が直接ああしろこうしろという要求にはなかなか応えないのに、質問を投げるとすぐに答えようとする。犬の姿のときもそうだし、こうして人になっているときもそうだ。というわけで、小犬丸が首をひねって時計の方向を見ている隙に甲斐は彼の腕を逃れるが、そのときふと尻ポケットが寂しいことに気がついた。 「あ!」 「どうした?」 「スマホ、どこに置いた?」  甲斐はスラックスのポケットを叩く。いつも定位置にあるはずの機械の感触がない。 「その機械か」  小犬丸はすたすたと茶の間へ歩き、ついで玄関へ行った。 「匂いがないぞ」 「え? まさか落とした?」 「夕方俺を迎えにに来たときは持っていたぞ。音が鳴ったから喋っていただろう」 「――そうか」  そういえば小犬丸を連れて帰ろうとしたときにスマホが鳴ったのだ。もう甲斐が帰宅したと思っていた同僚からの電話だった。甲斐はスマホを顎に挟んで喋りながら小犬丸のリードをつけたが、その後いつものポケットにしまった記憶がない。 「てことは息抜き部屋にあるのかも――それはまずい」  明日から甲斐は四連休だった。今月は祝日がないので、社員はイヌメリ独自の休暇システムである「勝手に祝日休暇」をとるよう奨励されているのだ。  イヌメリに入社してからの甲斐の休日はたいてい、小犬丸とぐうたらすることに終始している。それでも四日間、社会人必須アイテムのスマホがない、というのはいただけない。それにもしも会社でスマホがみつからなかったら、もっとまずい。 「こいさん、ちょっと会社戻ってくる」  玄関へ向かう甲斐のうしろを小犬丸が大股についてくる。 「どうしてだ」 「スマホだよ。取ってこないと」 「俺も行く」 「え? だめだめ。こいさんを連れて行ったら守衛さんに呆れられる」 「大丈夫だ」 「大丈夫じゃないって」 「いいから行くぞ」  小犬丸は甲斐を無視して三和土へ軽い歩調で飛びおりた。もうサンダルを履いている。からりと引き戸を開けると、外はけっこうな雨降りだった。今日は朝から夜までずっと降っている。 「人間の知恵も悪くないな。雨が降ったら傘をさせばいい」  甲斐よりも先にビニール傘を開いて小犬丸は長い腕をぬっと伸ばし、別の傘をとろうとした甲斐の手を止めた。 「こいさん?」 「俺がさす」 「僕もさすよ」 「だめだ。史雪はここに入るの」  まったくこの犬は、と甲斐は小さくため息をつき、小犬丸がかざす傘の下におさまった。  近頃の小犬丸は以前より頻繁に姿を変えるようになった。これも退屈しているからだろうか。人の姿になった小犬丸は、いわれた通り素直に服を着るし傘もさすので、帰宅後一緒にスーパーやコンビニへ出かけることも多い。散歩の代わりというわけだ。  スーパーで買い物をする長身のイケメンは、レジの女性やメリーさんストラップを鞄からぶらさげた女子高生たちのあいだで明らかに目立っているのに、本人は気にした風もなく甲斐に不自然なくらいくっついてくる。  周囲の眼に自分たちはどんな風に映るのだろう。これまでの転職人生で、甲斐は年下に見られることの方が多かった。だから今の姿の小犬丸と並んでも、年の離れた兄弟か親戚、友達同士に見えるかもしれない。  しかし三十を過ぎた男が年下に見られて得をすることはあまりない。だから甲斐はずっと、年齢相応か、それ以上の落ち着きや迫力のある同僚が羨ましかった。なにしろ人は犬とちがい、見た目で中身を推し量る。  実際、もし人の中身が外見にあらわれるのだとすれば、自分の経歴や興味にはたしかに、確とした芯もないし……と思うのだった。好奇心が強いかわりに興味は移りかわりやすく、周囲の空気を読みすぎて流されるくせに、肝心なところで相手の望みがわからない。そんな自分の欠点を甲斐はよく知っていた。だから会社では紀州さんを見てしまうのかもしれないなぁ……と、ぼんやり考えたりもする。  雨の夜は外を歩くと、車が走る音もすこし荒れた海の波も、いつもとちがうようにきこえるのだった。そのせいか、週末だからか。今日の甲斐はひどく内向きな気分だった。  寺本の外見はたしかに好みだ。しかし甲斐とたいして年は離れていないのに、寺本は生え抜きのイヌメリ社員で最初から頭角を現し、確固とした立場を持っていて、揺らがない。その揺らぎなさに呼応するように、他人に対してもきちんとした敬意を払っていて、ふわふわした自分についても評価してくれるようだ。  でもなぁ……と考えたとたん、最近の気がかりが意識の表面に浮かんできて、甲斐の気分はまたもどんより曇った。 「史雪、どうした」  小犬丸の手が甲斐の肘をつかんで、傘の外に出ないように繋ぎとめる。 「あのさぁ……聞いていい?」 「なんだ」 「どう思う……最近の紀州さん……」 「史雪と眼を合わせなくなったな」  即答された。  やっぱり。甲斐は足元をみつめたままその先を催促する。 「それだけ?」 「史雪がいるのを勘づいたら、別の通路へ曲がっている」 「なにそれ?」 「史雪に会わないように、だろう」  再度、やっぱり、である。甲斐は小さくためいきをつく。 「避けられている――よね……」 「何いってる。あいつとは今日も話をしたくせに」 「いつもの報告だから。それに……」  話といっても、単なる業務上の報告会なのだった。『犬の右腕』が提出したレポートの内容について口頭で確認するもので、会長の秋田がいうには昔から続く習慣らしいのだが、甲斐には――おそらくは現社長の寺本にも――やや儀式めいて感じられるミーティングだ。とはいえ、寺本のファンである甲斐にこれは嬉しい機会で、猫背気味の背中も寺本の執務室のデスクの前ではのびる。  ところがここ二週は寺本の口数が激減したのである。ひと通り甲斐が話して「以上ですが」と話を締めたあと、これまではすぐに質問を投げたり、甲斐にさらにコメントを求めたりしていたのに、寺本はレポートの字面に視線を落としたまま「ああ」とだけ答えて、黙っているのだ。 「えっと……?」  困惑した甲斐も言葉に詰まり、デスクに座る寺本をじっとみつめてしまう。すると寺本は一瞬顔をあげ、甲斐をちらっとみてまた視線を下げる。  妙に居心地の悪い雰囲気が流れる。  ここで間を救ってくれたのは先週も今週も小犬丸だった。バフっとかなんとか、吠え声と唸りの中間のような声を発して人間たちの気をそらしたのだ。それにしても、先週はたまたま寺本の体調でも悪かったのかと思ったが、二週続くと甲斐の気分は穏やかではなかった。そこへきて、今の小犬丸の「眼を合わせなくなった」以下の指摘である。 「寺本さんの前で何かまずいことやった? それともこっそり見てたのバレたとか? 変だって思われた?」  小犬丸なら寺本の様子の変化もちゃんと把握しているはずで、甲斐が何かやらかしたのなら原因もわかるかもしれない。そう思ってたずねたのに隣のイケメンの返事はそっけなかった。 「見ていたのはあいつも同じだろう」 「意味がちがう。むこうは上司だし……」 「俺がいう『見る』はそういうことじゃない」 「どういうこと」  質問をしたのに小犬丸は答えなかった。すでにイヌメリ社屋の前に到着していたから、守衛室で甲斐はIDを取り出す。 「スマホを忘れてしまって。明日から連休なので取りに来たんです」 「おや、ご苦労さん」  白髪の守衛は目尻に皺を寄せて微笑んだ。 「もうほとんどいないよ」 「すぐ終わりますから。たぶん息抜き部屋のあたりに忘れているので」 「自分で探せるかい?」 「ええ。あの、それで連れが――」  小犬丸についてどう説明したものか。考えながら甲斐はふりむいたが、みると背後にも横にも、誰もいなかった。 「どうしたの?」 「あ――いや、なんでもないです。急いで探しますね」  IDをカードリーダーに通して中に入ると、通路には小さな間接照明がついているだけだった。廊下の夜間照明は人が動くと自動で点灯し、しばらくすると消える。  突然「史雪」と名前を呼ばれた。甲斐は文字通り飛び上がった。 「うわあああああっこいさん……びっくりするだろ――どこにいたんだよ」 「すぐそばだ。見えなかったか?」 「見えなかったよ」  小犬丸はさっきと同じハーフパンツにTシャツ姿だ。 「人間の眼は都合がいい。見るべきものしか見ない」 「消えられるなんて反則だよ。泥棒し放題だなぁ」  半分冗談のつもりだったのに、ぬっと腕がのびて甲斐の肩にまわされる。 「史雪」耳元で小犬丸がささやく。 「俺は人間の欲しがるものなど、興味ない」  それなら小犬丸が欲しいものは何だろう? どうして彼はここにいるのだろう?  甲斐は不思議に思ったが、小犬丸が腕をひっぱるようにして先を急がせるので、たずねる機会を逸した。  スマホは予想通り息抜き部屋の中、「小犬丸デスク」そばのグッズ収納ロッカーにあった。リードを取り出したときに間違えて入れてしまったらしい。開放された出入り口からさす廊下の明かりと、室内の間接照明だけでみつかるとは上出来だった。息抜き部屋は広いので、電灯のスイッチを探すのが面倒だったのである。  ふっと廊下の電気が消えた。足元を照らすランプが点々と連なり、見慣れた場所が急にちがう雰囲気をまとった。視線を感じて横を見ると小犬丸がじっと甲斐をみつめていた。 「こいさん?」 「人型になるとこの部屋は狭いな。それに暗い」 「夜だからね」 「犬の眼なら夜も明るい」  そんなことをいったきり、小犬丸はふらりと奥へ歩いていく。甲斐はあわてて「こいさん、帰るよ」と声をかけた。返事はなかった。  スマホをつかんでみまわすと、間接照明の影の中、ストレッチポールなどのエクササイズ道具が置かれたカーペットのエリアへ向かう背中がみえた。甲斐は薄闇のなかを同じ方向へ歩き、奥の窓のそばに立った。天井まで届く広いガラスは水滴で濡れている。ガラスの向こうは半分が夜の黒、半分がにじんだ輪郭をもつ光の側へと分割されたようにみえる。  足元の方が人間の世界で、オレンジ色の街灯と自動車のヘッドライトやテイルランプ、信号の光がまたたいている。上の方は別の空間で、濡れたガラス越しではほとんど何もみえず、ただ闇色に塗られている。 「史雪」  首のうしろで小犬丸のささやき声が聞こえた。ふりむいたとたん、そのまま顎をつかまれる。 「こいさん、びっくりする――」  反射的に飛び出した文句は小犬丸の唇に飲みこまれた。  スマホがすべってカーペットに落ち、ゴトっと重い音が鳴った。甲斐はガラスに押しつけられるようにして、前置きも手加減もないキスをされていた。口を半開きにさせられ、押し入ってきた舌が歯列を割って粘膜に触れ、その奥までたどっては舌に絡みつく。ふいに耳の裏側をこすられた。背筋から腰までさざなみのような震えが走る。 「やっ……だめだって――」  引き離そうともがくと、小犬丸は甲斐を拘束したまま唇だけを解放した。 「まだ史雪を食べてない」 「だからここ、会社……」 「何がちがう」  小犬丸は甲斐の唇のまわりをぺろっと舐めた。 「たしかに他の連中の匂いもするが、ここには俺の寝床と遊び場がある。それに他の連中は今はいない」  寝床っていってもそれは犬用――と甲斐はいいたかったが、また唇をふさがれてかなわなかった。小犬丸は容赦なく甲斐の舌と口内を蹂躙し、ワイシャツの背中からスラックスの中へ指をつっこんで、腰を撫でる。  甲斐の体がびくりと跳ねた。 「あっ……ふ……」  静まり返った空間で何度も濡れた音が立つ。いけない場所でいけないことをしている感覚に膝がふるえる。バカバカバカ、この犬をどうにかしろ――と理性らしき声が頭の片隅で叫ぶ。こんなところでロマンチックポルノみたいなことやってるんじゃない!  しかし理性がせっせと罵倒しても体はいうことをきかなかった。逆だ。いまや甲斐は自分から小犬丸の舌に舌をからませ、彼の背中に腕を回し、なかばしがみついている。こぼれた唾液が顎をつたってワイシャツの首筋に垂れ、濡れた場所に小犬丸の吐息があたる。  ああん、困ったな――といまや小人サイズに縮んだ理性がぶつぶついったが、甲斐の司令部はもう何も聞いていなかった。膝がくだけ、ガラスに押しつけた背中がずるずると下がる。 「うっ……あ……ん……」 「いい匂いだ」  カーペットの上に倒されて、小犬丸の体重が上にのしかかる。ワイシャツの裾がまくれ、へそから脇腹をかすめるように撫でられた。何度か離れては戻ってきた唇が甲斐の目尻や耳の裏側、顎を甘噛みする。噛まれるたびに、髪のあいだから突き出した小犬丸の耳が予想外の場所をくすぐる。  軽い音が鳴ってスラックスのジッパーが下がった。 「こいさん……どいて……あんっ――」 「人間の指は便利だな」 「あ、早く、早く出ないと……ダメだって……」 「早く出したいか?」 「ちが――っ」  濡れた感触が下腹部をかすめた。半分下げられたボクサーから飛び出した中心を咥えられる。温かな粘膜の感触が先端から根元まで覆う。喘ぎ声を必死にこらえようとしても息がどんどんあがった。甲斐はたまらず手を伸ばして指に触れた髪をさぐった。すこし垂れた獣の耳のなめらかな表面をつかむと、舌がさらに締まるように吸いついてくる。 「ん、ん――あ、」  もはや快楽のかすみで頭がいっぱいで他になにも考えられない。膝を抱えられ、曲げられる。スラックスが下着ごと足首まで下げられても抵抗どころではなかった。器用な指がうしろをさぐったと思うと、すでに深く侵入されている。 「あ、あ、あ―――」  前と後ろを同時に弄られ、限界がすぐそこまで来ている――と思った時、小犬丸の指が奥の一点をついた。反りかえった甲斐の体を小犬丸の腕が抑えこむ。放たれた白濁が飲みこまれていき、小犬丸の指を咥えこんだままのうしろがピクピクと締まる。  甲斐は射精後の漂うような解放感にぼうっとして激しく息をつく。なのに小犬丸の舌の動きは止まらない。さっきまで指で押し広げられた部分にぬるりとした感触があたる。敏感に震える襞を弄られ、甲斐の体は勝手に跳ねた。足を曲げ、さらに広げられて、もう一度真上にのしかかられる。下腹に小犬丸の怒張を感じる。ハーフパンツごしでもはっきりわかる。 「史雪……」  甘い声が耳の中に吹きこまれる。鼓動が落ちついたせいか、甲斐は急にあたりの静けさを感じた。小犬丸がまたささやく。 「史雪……」  そのとき異質な音が鳴った。  軽い、物が落ちるような音、さらに布がこすれるような音。  反射的に跳ね起きようとしたが、上に乗ったままの小犬丸に押さえつけられ、どうにか顔だけをもちあげた。暗いはずの廊下に照明がつき、この部屋にも光がさしこんでいる。誰かが大股に歩き去っていく。廊下の白い照明がその横顔を一瞬照らした。  え?  甲斐は眼を疑った。まばたきをする間に人影は壁に隠れ、見えなくなった。

ともだちにシェアしよう!