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9.犬と信念

 その夜の寺本紀州は、例によって出先から戻る途中で会社へ立ち寄っただけだった。急ぎの用事はなかったが、週末を控えて確認しておきたい書類があったのだ。イヌメリの執務室には外部持ち出し不可のファイルがあり、これだけは今どき電子化もされておらず、背表紙には前社長の秋田の筆跡で「小犬丸」と書かれた手書きラベルが貼られている。綴じられているのは甲斐史雪が提出したレポートだ。  甲斐史雪は最近、寺本の悩みの種になっている。しかし甲斐自身に変化があったわけではなく、社内で何が起きたわけでもない。問題は寺本自身なのだ。どういうわけか、寺本は甲斐の顔をみるだけでむやみにどぎまぎしてしまうのである。たしかに以前から甲斐を見かけると、自分でも不思議に思うくらい注視はしていたが、ここ二週間は異常で、甲斐が報告に来たときもろくな返事が返せない始末だった。  寺本は本来生真面目な性質である。自分でも把握できない私的な事情で注意がそれるなど、自分で自分が許しがたい。せめて書類はもう一度確認したかった。  遅い時間だったが、守衛には例によって四十五分と断り、寺本は社内に入った。執務室の古めかしいキャビネットを開けて十五分でファイルの中身を読み、エレベーターに乗る。三十分、コンフォートルームに立ち寄る時間があるはずだった。いつもこっそりヨガをやっている奥のスペースへ足を向けたとき――声が聞こえたのだ。 「やっ……だめ……」  寺本は立ち止まった。なぜか急に、とてもがした。いわくいいがたい蠱惑的な匂いだ。そして暗いにもかかわらず、部屋の中がぼんやりと見渡せた。突然感覚が百倍に拡大されたかのようだ。オフィスの家具や敷物などのさまざまな匂いが寺本を直撃する。そのなかでひときわ強く、さっきのあの匂いが奥から漂ってくる。とてもそそられる匂いだ。  寺本は無意識にごくりと唾を飲みこんだ。 「うっ……あ……ん……」  カーペットの上で誰かが揉みあっている――いや、絡みあっているのだ。どういうわけかたったいま、暗闇が見えるようになった寺本の眼は、下になった男のシャツがしどけなくめくれ、上にいる男が長い指でむきだしの肌を愛撫するのをはっきり見た。チュ、チュっと口づけの音が鳴る。どちらも男だ。  寺本は動けなかった。衣擦れの音や、こらえきれずに漏れる喘ぎや囁きを聞きながら、その場に立ち尽くしている。下になった男の足が大きく開かれ、ぎゅっと眼を閉じた顔がもちあがり、手がのびて上の男の髪をまさぐる。  寺本はその顔を凝視した。 「あ、あ、あ―――」 「史雪……」  囁きは明瞭に聞き取れた。 「史雪……」  次に耳に入ってきた荒い息は寺本自身のものだった。自分で自分に驚いた寺本の硬直は急に解け、意味もなく動いた手に何かが当たって床に落ちる。はっとして息をのんだが、部屋の奥にいる者たちも同じだったようだ。だが、彼らが何なのかを確認したくはなかった。寺本は身をひるがえすようにして廊下へ飛び出した。大股で階下へ降り、守衛にあやふやな挨拶をする。カウンターに並べられた夜間来館者記録によく知った筆跡がちらりとみえた。甲斐史雪。  外はまだ激しい雨が降っている。  週末のあいだ寺本は悶々としてすごした。自宅に帰ったあとはしばらく興奮して眠れず、眠る前に自己処理をしたが、そのあいだも甲斐の顔がちらついてさらに心が乱れた。翌日も天気は悪かった。空と同様すっきりしない頭で寺本はコーヒーを入れると、昨夜の出来事を整理しにかかった。  まず、コンフォートルームにいた男たちは誰なのか、ということだ。あんなに暗かったのになぜ、ひとりが甲斐だとわかったのかは寺本にもわからなかった。とにかくあの部屋に入ったとたん、はっきり見えたのだ。モノクロ映画のような視界にくっきりと色をつけるようなあの匂い――寺本の鼻はぴくっと動いた。加えて、ビルを出るときの来館者記録もある。見間違いかどうかは週明けにわかるだろう。  そしてもうひとりの男は、あれは誰だ。イヌメリの社員だろうか?  寺本の本能はたしかに知っていると告げているのに、誰とも記憶が一致しない。しばらく考えこんで、やっとわかった。きっとそうだ。砂浜で見た男だ。  そう思い決めると腹が立ってきた。甲斐は部外者を会社に連れこんだのか? しかしどうやって?  いや、社員とは限らない。会社というのはさまざまな人間が出入りする場所なのだ。業者や外部委託の警備員、先日の取材のような訪問者、一時的に要請された派遣……しかし週末を控えてほとんどが退社した後に残っていたとすれば、控えめにいってもセキュリティ上の問題があるだろう。  目撃したシーンが自分にとって何を意味しているのであれ、それを会社の問題にすり替えられるかぎり、寺本自身にとっては問題ではなかった。そう、会社の問題なら処理できるのだ。自分にはその能力があり、だからこそ社長になれた。月曜に出社したら打つ手はいくつかある、と寺本は思った。甲斐本人の様子をうかがってみるのもいいが、その前に建物の入館記録や出入り業者について調べ、社内外の人間関係で注目すべきことは小犬丸ファイルの指摘を――  と、そこまで考えたところで思考が再び甲斐史雪のヴィジュアル――こともあろうに、前に夜の砂浜で目撃したキスシーンと、昨日目撃したシーン――に戻り、寺本はため息をついた。  会社の問題は現実的に解決できる。自分の実力を信じろ。  何はともあれ今日は法事である。用事があるのは幸いだった。  法事は大叔父の三回忌である。その後、親族がずらりとそろっての小料理屋での会食で、寺本は大伯母や係累もろくに覚えていない親族からの「まだ所帯を持たないのか」攻撃をひと通り聞き流した。毎度のことであり、妹の|柴《さい》も寺本と並んで同じ災難に遭うのだが、いつもなら虫がたかってくるような小言を鬱陶しいと感じるのに、今日は不思議と気にならなかった。そのせいか会食が終わった後の駐車場で、妹が不思議そうに話しかけてきたくらいである。 「兄さん、どうかした?」 「なにが」 「今日はおばさんたちに動じてなかったでしょう」 「そうだったか?」 「そうよ。私ひとりでぷりぷりしてバカみたい」 「それは悪かった」  柴は自分の車へ歩きながら寺本の横顔をしげしげと眺めた。 「本当に何もない?」 「ないよ。会社で気にかかることがあるだけだ」 「会社とプライベートをきっちり分けられるくせに、おかしいわよ」 「そんなこともないさ」 「さては――」妹は自分の車のそばに立ち、腰に手を当てて寺本をみつめた。 「会社でプライベートに関わる何かがあったと」  寺本は真顔で妹を見返した。 「まさか」 「ちがう? 好みの秘書が入った? 今どきの秘書課って男性もいる?」 「発想が飛躍しすぎだ。何もないよ。好みなんてない」 「またまた」  寺本は自分の車のドアを開けたのに、柴は話をやめようとしない。 「兄さんにそれなりの好みがあるのは知ってるわよ」 「どうして」 「だって見てるでしょ」柴は肩をすくめた。「男はみんなのよ。ガン見するの。好きなタイプをね」  というわけで、気をそらせると思ったのもつかの間、柴の言葉がひっかかって寺本はその晩もよく眠れなかった。無視しようとするとますますムラムラした気分が募ってきて、なのにヨガで落ち着くこともできず、今晩も自己処理に励むことになる。  実をいうと寺本にはこれも納得がいかないのだ。自分が同性にしか勃たないとわかってからも、寺本は欲望の処理に困ったことがなかったからである。相手がいなくてもネットで見るちょっとした刺激があれば落ちついたし、その最中に実在の人間を想像したことも一度もなかったのだ。  それがここ最近は、実在の人間どころか、社内にいれば一日一度はどこかで目撃してしまう存在を露骨に想像してしまうのである。しかも今はただの想像ですらなく、声とビジュアルが伴っているのだからたちが悪い。  たちが悪い――と思いつつ、今も寺本は卵型のプレジャーグッズのパッケージを剥くと、眼を閉じて右手をせっせと動かしている。自分自身はヌルっとしたローションとグッズの被膜にこすられているだけなのだが、空想の中ではあのときの声は寺本のすぐそばで聞こえ、ちらりと見えただけの顔も寺本の真下にあって、イってしまう瞬間まで喘いでいるのである。  こんなことで月曜、当人の顔をみてしまったら、いったいどうすればいいのか。  週明け、内心戦々恐々としながら寺本は出社したが、拍子抜けしたことに甲斐は休みだった。以前からの予定通り休暇をとっているという。守衛室にさりげなく確認すると、金曜の夜は忘れ物を取りに来た、ということがすぐにわかった。甲斐がきたとき、社内にいた社員は寺本だけだったという。  予定通りの休暇だと。寺本はなぜかムッとした。さては金曜のあの男と――と想像をたくましくしそうなところを、深呼吸して止める。  やはりどうにも納得がいかなかった。 『人はどんな時に転職を考えるのだろう? 現在の仕事に行き詰まった時。別の場所で自分の力を試したい時。労力に対する見返りもなく、将来もないと気づいた時。そして、とんでもない失態をしでかした時。今、僕は最後の理由で、また転職――というより、単純に職探しをすることになるのではないかと恐れているところだ。年単位でこのブログを読んでいる方は、またか、と笑うかもしれない。もちろん、その前にやるべきことはたくさんあるとは思う。やりようによっては挽回もできるのかもしれない。仕事の上での失態というより、現実がよく見えなくなっていたゆえの失態だから、たちが悪い。ここ数ヶ月の僕は、それ以前には考えられないような環境や、非現実的な状況にいて、そのまま流されすぎ』 「史雪」  甲斐はキーボードを叩く手を止め、カーソルを動かして文字を消した。  こんなの、ブログに書くようなことじゃない。後ろから呼ぶ声は無視した。この週末、ろくに口をきいていないのだ。せっかく連休にしたというのに外は今日も雨だった。土曜も日曜も雨で、月曜の今日も明日も天気はぐずつくという。  休暇の申請をしたときは、晴れればどこかへ小犬丸と出かけようと思っていたが、この天候ではそれはない。しばらくお留守になっていた個人ブログに記事をあげようかと思ったが、まともに文章も書けず、結局甲斐はぼんやり「メリーさん」公式ツイッターを眺め、ネットサーフィンをして、またブログの下書きに戻り、を繰り返している。 (史雪)  キーボードをむやみに打っては消していると、今度は頭の中に直接話しかけてくる声がする。毛の手触りが脇から腕に触れ、クンクンと鳴く声がする。  まったく、ずるい。  ため息をつきながら甲斐は小犬丸の眼と眼をあわせ、背中を撫でた。ため息がまた漏れる。いったいなんてことに巻き込まれてしまったのだろうと思う。ここにいる小犬丸はたしかに犬だが、彼が時々人の姿になるなんて、誰も信じるわけがないだろう。寺本紀州だってもちろんそうだ。そして彼はいったいどこまで見たのだろうか。自分のことがわかっただろうか――通報されなかったことを思うとやはり、わかっていたのではないだろうか。  もちろん、いくら小犬丸に流されたとはいっても会社の息抜き部屋(あんなところ)あんなこと(セックス)をしていた自分が悪いのである。だから見られたのが寺本でなくても、事態は同じくらい悪い。しかし――見られたのが寺本だったから、もっと悪い。いろいろな意味で。 「こいさん。出かけてくる」  パソコンを閉じると甲斐は立ち上がった。小犬丸は首を傾け、尻尾を立てて甲斐が三和土で靴を履くのを見ていた。傘を叩く雨の音が激しい。ひとりで外出するのは久しぶりのような気がした。  実際、甲斐が都心へ出かけたのは数カ月ぶりで、その間にターミナル駅はすっかり改装されていた。駅の通路は迷路のようで、見慣れた出口になかなかたどりつけない。しかも目的にしていた店にはシャッターが下り、移転の貼り紙が出ていた。ついてない。  だからといってこのまま帰る気にもならない。甲斐は見慣れない新しいショッピングモールやレジャースポットを歩き回り、雨にも関わらず楽しそうな人々やきらきらした内装を眺め、やがてくたびれはてた。何かが足りないような気がして仕方がなかった。コーヒーチェーン店の片隅でぼそぼそとサンドイッチを食べていると、隣のテーブルに若い女の子のふたり連れがやってきて、楽しそうにショッピングの成果を話し合っている。甲斐はぼんやりとそちらへ眼を向け、ふと見慣れた犬をテーブルの上に認めた。  小首をかしげてこちらを見ているのは、ポーチのストラップに下げられたメリーさんのチャームだった。つぶらな瞳にすこし垂れた耳。  やっぱり可愛い。偶然らしいが、小犬丸はメリーさんによく似ているのだ。  もし自分がイヌメリを辞めて『犬の右腕』でなくなったら、小犬丸は誰を選ぶのだろう? イヌメリの社員から誰かが選ばれるのか。それとも新しく採用するのだろうか? 小犬丸は新しい右腕にも自分と同じように話しかけるのだろうか。  そう考えるとなんだか嫌だった。その一方で、嫌だと思ってしまう自分もなんだか嫌だった。『犬の右腕』は甲斐の仕事なのだ。小犬丸は(犬のままなら)かなり犬離れしたところがあってもやはり可愛く、一年近く一緒に暮らしている今は家族も同様で、流されるままにあれやこれやとやらかしていても嫌いになんかなれない。今だってそうだ。そうなのだが――  これが仕事である以上、終わりがくるときがあるはずだ。  なにしろ甲斐史雪にとっての現実は終身雇用制といった働き方とはおよそ無縁なのだった。会社というのは、いつクビになってもおかしくないものである。  水曜の朝、寺本紀州は小犬丸を連れて出勤する甲斐を目撃した。  実は目撃したのではなく「待ち伏せした」という方が正確である。社外に用事のない日は早く出社する習慣のある寺本だったが、水曜はいつもよりさらに早く来て、コンフォートルーム近くの廊下をうろついていたのだった。なぜならこの廊下の窓からは、イヌメリ本社の駐車場とエントランスホールの入り口が見えるからである。  甲斐の出社を確かめて何をするか考えていたわけではなかった。しかし二日間、この男の不在に悶々とさせられていたので、とにかく会社にあらわれるのを確認するべきだと寺本は思い決めていた。  今日は数日降り続いた雨もやんだが、それでも空はあいかわらずどんよりと曇っている。上の階から眺めても、小犬丸の小さな影を連れた甲斐が歩いて来るのはすぐにわかった。やっと本人の姿を確認できた寺本は安堵し――どういうわけか、心臓のあたりがどきどきと脈打つのを感じた。  いったいなんだというんだ。  眼を閉じて深呼吸しようとしたとき「寺本君」と声をかけられた。会長の秋田が笑顔で片手をあげている。 「おはよう。珍しいね。君もこいさんとあいびきするつもりだったかな?」 「えっ」寺本は途惑った。「会長は……」 「昨日も一昨日も、甲斐君が休みだったから小犬丸も来なかっただろう。今日は一番に彼と話をしたくてな」  秋田はハハハ、と眼のまわりに皺を寄せて笑った。 「話……ですか」 「寺本君はこいさんと話をしないのかね」 「それはその……」寺本は会話の行方が見えずにさらに途惑った。「比喩――でおっしゃられているんですよね?」 「比喩?――まあ、ある意味そうかもしれんな。なにしろ現実(リアル)とは捉え方でずいぶん変わるものだから」  寺本は眉をよせ、秋田が何の話をしているのか、さらに突っ込もうとした――が、そのとき自分とは違う方向へ秋田が陽気な声をかけたので、話は急に中断した。 「おお、甲斐君! こいさん。おはよう、朝に会うのはひさしぶりだねえ」 「会長、おはようございます」  そのやわらかな声を聞いた瞬間、寺本紀州の体に異変が起きた。  心臓がさっきとはくらべものにならない勢いでバクバクと脈打つ。顔が熱くなる。  なんだこれは。いくら――いくら金曜の夜に彼をここで見た――見たとしても――  そう思い出したとたん、寺本の体はますますおかしくなった。たしかにこの声だった。あの夜、ここで聞いたのは…… 「寺本君?」  寺本の耳には秋田の声が聞こえてはいたが、これまで経験したことのない動悸と動揺に襲われていた彼にはすぐに反応できなかった。過去に経験したあらゆる試験や面接、重役会議、プレゼンでも起きなかった、身体と精神の反応だった。 「ああ、甲斐君。こいさんと話をしたいから、たまには私にも世話をさせてくれ。リード、外すよ、ね、こいさん?」  秋田は孫でもあやすような甘ったるい声を犬にかけ、クンクン鳴く声が応えている。しかしその会話は寺本の意識の片隅をかすっただけだった。寺本はさらに硬直していたのである。なぜなら小犬丸のリードを握っていた人物が、今度は寺本を見たからだ。 「寺本社長、あの……お話があるのですが。あとでお時間をいただけますか」  甲斐史雪はまっすぐに寺本の眼をみつめ、そういった。

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