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15.ふたたび犬について

 白と赤に塗り分けられた三角の小さな旗が、ふたりと一匹の頭上にずらりと並んで、風にぱたぱたとはためいている。桟橋の通路は木製のパネルで覆われて、帆船のデッキに似ている。本物の帆船もこの桟橋のずっと先に停泊しているのだが。さざなみがひたひたとコンクリートを打った。このあたりの海は四角く区切られて大人しく、飼いならされた生き物のようだ。 (ここが遊園地なのか?)  甲斐の横をトコトコ歩きながら、小犬丸が不服そうに鼻を鳴らす。 「部分的に遊園地だ」と寺本がいった。「規模は小さいが。不満が?」 (遊園地にはネズミがいるんじゃないのか。でかいやつだ) 「ネズミがいる遊園地――」  寺本が生真面目な顔を小犬丸に向ける。犬は首をかしげて寺本を見返している。 「申し訳ない、それは特殊な遊園地だ。だがそこには観覧車はない」 (そうか。それならいい)  甲斐が驚いたことに小犬丸はこの一言で納得したようだった。  巨大なショッピングセンターと巨大なオフィスビルが幅広い道路と公園と広場でつながり、そのあいだにタワーマンションがそびえている。桟橋の向かい側も、海をはさんでコンクリートに囲まれた公園が広がっている。昔から港で栄えた地域だから、かつての港湾倉庫が今では趣きのあるイベントスペースになっていて、道端にはカフェのパラソルがひるがえる。  毎週なにがしかのフェスティバルが行われているので、ブラスバンドの陽気な音がどこからか聞こえてくるし、いかにも遊園地らしいアトラクションは柵で区切られたスペースに点在していた。ときおり轟音とともに歓声と悲鳴が響きわたる。  甲斐は小犬丸と目線をあわせている寺本をこっそり横目でみた。梅雨明けの晴れた空のもと、サマージャケットを涼し気に羽織り、帽子をかぶっている。毎日顔を合わせるか電話で話すか、最低でもメッセージをやりとりしている人なのに、つまりこそこそする必要はまったくないのに、「こっそり」見てしまうとはどういうわけだろう。この人とデートしている状況がまだ信じられないのかもしれない。  もっとも客観的にみれば、彼らは犬を連れて散歩に来た友人同士にしかみえないはずだ。三十代の男同士で人目もあるから、甲斐は寺本と肩が触れあう距離にもいない。距離を縮められないのは他の理由もある。小犬丸が間にいるからだ。そして飼い主と散歩中の他の犬とすれ違うたび、小犬丸は犬たちから畏敬の念のこもった挨拶をされ、鷹揚に返しているが、飼い主はまったく気づいていない。  最初に誘ったのは寺本だが、もろもろの都合もあって実現にいくらか日数を要したデートだった。しかしその割にはのんびりしたスケジュールである。すでに真夏も同様の天気なので、ここに着いたのは午後遅めの時間だ。暑いので人も犬も日陰を選んで歩いた。ときおり足を止め、公園のステージで歌うアイドルや大道芸人のショーをみて、犬連れOKのカフェで休憩し、ソフトクリームを食べる。  話しながらぶらぶら歩いているだけで時間がたつ。  うわあ、すごい。と甲斐は内心思う。デートしているみたいだ、僕ら。  いや、実際にデートしているのである。  しかし甲斐がこれまで経験した健全な昼間のデートイベントは学生時代で打ち止めだったし、それに甲斐は全くあずかり知らないこととはいえ、恋愛音痴の寺本にとってはこれが「初恋デート」のようなものなのだった。  おかげでそれぞれ、表に出さないよう努力はしていても、内心ではかなり舞い上がっている。ふたりともいい年をした大人のくせに、それぞれすこし緊張してすこしぎこちないが、心の背景はふわふわファンシーなパステルカラーの色合いなのである。  ふわふわファンシーといえば、株式会社Inu-Merryのキャラクターたちにはふさわしいコンセプトである。だからちょうどいいのかもしれない。そのマスコット犬にそっくりの犬も、彼らの間を歩いていることだし。  夜が近づいてくると、まだ日は残っているのにアトラクションのライトアップがはじまり、あちこちでカラフルな光がキラキラピカピカと点滅しはじめる。ジェットコースターの轟音が近づいて去ると、小犬丸は耳をぺたんと伏せた。 「乗りたい? こいさんも人に変身したら乗れるよ」  小犬丸がしばらくジェットコースターを見上げているので甲斐は試しに聞いたが、彼は即答した。 (嫌だ) 「なんで?」 (怖い)  ストレートな応答である。 (おまえたちは悲鳴をあげるのが楽しいのか、上下逆さになってくるくる回るのが楽しいのか?)  小犬丸の口調はしごく真面目だった。 「くるくる回って悲鳴をあげるのが楽しいんだよ」 (遠吠えするようなものか)  寺本が興味深げに眉をあげて「犬は楽しいから遠吠えをするのか」とたずねた。 (それもあるが)と小犬丸は律儀に答える。 (人間が昔よく、遠くに知らせるために使っていた……のろしといったか。そんな場合もある) 「のろしを知っているのか」 (あれはひどい匂いだ。知らせを送るならもっと美しいものを使えばいいのに) 「美しいもの?」 (ああいうものだ)  小犬丸は甲斐のもつリードを引っぱって道の反対側へ歩き、桟橋の対岸にそびえたつ巨大な輪を注視した。観覧車だった。カラフルな電飾が一定のパターンで変わっていく。 「たしかにモールス信号のように使えるかもしれないな」  寺本が感心したようにいった。「だが見える範囲が…」 (のろしとたいして変わらんだろう)  甲斐は小犬丸をさえぎるように口をはさんだ。 「紀州さん、あれ、動いていますか?」 「ああ。ゆっくりだが動いているな」 「ちょっと遠いですね」 (そうでもないぞ)と小犬丸がいう。 「小犬丸はあれに乗りたいんだろう」  寺本がつとしゃがみ、小犬丸の頭を撫でた。しかし小犬丸はその手を払うように頭を振る。 (それは俺じゃない。桜姫だ)  寺本はふっと笑って立ち上がった。ふいに手の甲にぬくもりを感じて甲斐はびくっとした。寺本が甲斐の手から小犬丸のリードを取りあげたのだ。 「小犬丸、やせ我慢はよくない。行こう」  歩き出した寺本の足を小犬丸の尻尾がぱしっと叩いた。  大観覧車の横には広い駐車場があり、一行はそこまで車で移動した。夕暮れはさらに濃くなっていた。観覧車は間近に迫りすぎ、光の模様が何を描いているのかもよくみえない。 「乗ったことはある?」  運転席の寺本にたずねられ、シートベルトを外しながら甲斐は首を振った。 「いいえ。子供の頃家族で乗ったきりだと思います」  大きな観覧車だ。パンフレットには一周二十分と書いてある。 「どうしてこいさんはあれに乗りたいの?」 「俺じゃない。桜姫だ」  いきなりの美声に甲斐が後部座席をふりむくと、犬ではなくTシャツにハーフパンツ姿の小犬丸がどっかりと座りこんでいた。いつの間に姿を変えたのだろう。ちなみに服は車に積んでいたのである。あいかわらずハンサムで長身で、耳を髪のあいだからのぞかせている。しかし小犬丸の外見からは、ここ数日のあいだに以前残っていた少年らしさがすっかり消えていた。  いつまで、と甲斐はふと思う。いつまで小犬丸はこの姿なのだろう。ずっと?  いつまで彼はここにいてくれるのだろう。 「心配するな」突然小犬丸がいった。甲斐の心を読んだように。 「俺はしばらくこのままだ。人間は成長が遅すぎるから、他の生き物の速度がわからないらしいな」 「速度?」 「俺はおまえたちよりすこし速い。だからおまえたちより少し先を行くが、また戻ってくる。姿を変えて」  甲斐が聞き返そうとする前に小犬丸はさっさと車を降りてしまった。乗りたいのかと聞かれるたびに否定する割には、いそいそとした様子である。  観覧車の吊り座席は「ゴンドラ」と呼ぶらしい。こんなに透明なのかと甲斐は一歩足を踏み入れて驚いた。周囲の壁だけでなく座席も透明、足元も半分くらい素通しだ。客はあまりおらず、ちらほら見えたのは家族連れとカップルで、男だけのグループは皆無だった。ゴンドラは係員が扉を閉めたときも動いていて、すぐに地面を離れた。  揺らさないでください、ゴンドラの中にはそんな注意書きが貼ってあった。 「揺らすとどうなる?」立ったまま小犬丸がいった。 「揺れる」座席にさっと腰かけた寺本が答えた。 「今も揺れているぞ」 「もっと揺れる」 「こうか?」 「――こいさん、座ってよ!」  寺本の向かい側に座った甲斐に向かって、小犬丸はふうん、それで? とでもいいたそうな、不思議そうな顔をすると、椅子ではなく透きとおった床に座りこんでしまった。子供っぽい仕草で手をつき、眼下の風景を眺めているのだ。地上も海の上も灯りがないところは薄暗く、遊園地のアトラクションが宝石箱のようにきらきら光る。 「史雪、私の横に座らないか」静かに寺本がいった。 「あ……はい」  甲斐が移動すると寺本はすこし体をずらした。ジャケットの裾が触れ、肘が触れ、肩が触れ、太腿が触れた。熱を感じて、甲斐は落ちつかない手をずらした。すると右手の指が寺本の手首に触れ、一瞬の間のあと、向こうから指を握られた。  甲斐は握りかえした。一度ほどいて、今度は手のひらを合わせて、また握った。右の肩も肘も太腿も、いつの間にかぴったりと隣の男にくっついてしまっている。肩に重みがかかり、耳の裏に寺本の吐息が当たる。空の上の方はまだ明るいのに、地上の方が先に夜になり、電気の星が点滅した。耳たぶに寺本の唇が触れる。 「……史雪」寺本がささやいた。  いきなりぐらっとゴンドラが揺れた。どさっと小犬丸が甲斐の横に、寺本の反対側に腰をねじこんできたのだ。 「こいさん! もう――」  甲斐の抗議は完全に無視された。小犬丸は甲斐の空いている左手を引っ張り、腕の中に抱えこんだ。にやりと笑っていいはなつ。 「紀州。史雪をひとりじめするな。俺の右腕だからな」

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