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番外編 犬と雨傘

 台風が近づいている。  今年の台風は凶悪な輩ばかりだ。つい先日やってきた台風は西の方に大きな被害をもたらしたが、今回のそれも同じくらい危険な猛獣だという。とはいえまだ本番の風は吹いていない。しかし遠くでにらみをきかせるヤクザ一家に刺激を受けた前線が活発なチンピラ雨雲を送り出している様相で、窓の外は土砂降りである。  寺本紀州は濃い雨雲が流れるのをみつめてやきもきしていた。自分のマンションのことや、自分が社長を務める会社のことを気にしているわけではない。すこし離れた高台にある古い社宅について気に病んでいたのだ。  ざあっと雨が降る。  どうしたものか、と寺本は考えた。もちろん一本電話をいれて様子を聞くという手はある。だが答えは予想がついた。住人はいつもの控えめで、しかし芯の通った口調で「大丈夫です、紀州さん」というだけだろう。おまけにもしかしたら、あの社宅に住んでいるもうひとりの社員が電話を奪い取るかもしれない。そいつは美声をひけらかしつつ、やや生意気そうな口調でこう応答するに違いない。 「紀州、余計な心配は無用だ。俺は神だからな」  しかし自分が心配するのも無理はないのだ、と寺本は思う。なぜならその社宅は他の社宅とちがって古い日本家屋で、屋根は重い瓦ぶき、茶の間のとなりが濡れ縁と海を見下ろす庭に続いているような懐かしい作りなのである。リフォームや修理の痕跡もろくにないのだから、いくら頑丈だといわれても、今年のように暴風雨が続けば、雨漏りのひとつも起きるのではないか。  とはいえ、寺本紀州がそれほどくだんの社宅について気に病むのは、もちろん別の理由があった。単純な話である。ここに住んでいる甲斐史雪(会社では寺本の専属広報部員であり、同居するペット犬「小犬丸」を世話する「犬の右腕」である)と、この夏に立派な恋仲となったからである。寺本紀州にとっては人生観をゆるがすような一大出来事だった。そんな彼が恋人のことを心配せずにいられるだろうか? 答えはもちろん否である。  寺本は窓の外をみつめた。雨はますますひどくなっている。これは決断の時だ。社長とは、つねに決断を迫られる生き物だ。  というわけで、寺本紀州は傘を片手に部屋を出た。外は大変ひどい横殴りの雨だった。  高層マンションの内側から眺めていると、なかなか外部の雨風はつかみにくいものだ。これでひとつ賢くなった、などと寺本は思ったが、その時点でもうずぶぬれである。傘はあっても背中は濡れるのだ。  このあたりは海に近い地区だが、寺本紀州は自分を常識人だと思っているので、今日ばかりは荒れて波が高くなった海に近づいたりはしない。ふだんの海沿いのルートとは異なる車道を歩いたところ、甲斐の社宅までの距離はいつもの倍近くとなってしまった。しかも歩くにつれて風が強くなり、加えて自動車の跳ね飛ばす水滴が足元をバシャン、と濡らす。  しかしそんな苦難もなんとやらである。実際のところ、ここまで来た寺本の本音をひらたくいえば、台風のせいでせっかくの週末、恋人に会いに行けなくなるのが嫌だったということに他ならないのだが、雨風を乗り越えるという経験は人間を必要以上に英雄的な気分にさせるものだ。  そんなこんなでようやく社宅のある高台の下までたどりついた寺本は、ほっとして傘をかたむけ、海を眺めた。あとはこの石段を上るだけだ。  ――と、思った時だった。海から急にものすごい風が吹き寄せた。  あわてて傘を押さえる。ボキっとかベリっとか、不穏な音が鳴った。一瞬のことだった。  寺本は裏返しになった傘と骨の残骸を手に、四方八方からあびせられる天然シャワーの餌食となっていた。 「馬鹿か、おまえ」 「こいさん、そんなこといっちゃダメだよ! 紀州さん、大丈夫ですか。お風呂入れますから……」 「馬鹿といったら馬鹿だろうが。おまえたちの立派な気象庁も『不要不急の外出を避けろ』といっているのに」  偉そうに小犬丸がいいはなつが、寺本は気にもとめなかった。乾いたバスタオルで髪を拭きながら「この家は大丈夫なのか?」と甲斐にたずねる。 「こいさんによると大丈夫だそうです」  屋根を打つ雨音はどんどんひどくなっているが、室内は明るく乾いていた。眼の前に立つ人物がふん、と馬鹿にしたように鼻を鳴らす。 「俺は神だ。自分の住まいくらい自分で加護する」  そう、こいさん――と可愛く呼ばれている小犬丸は、犬のかたちをした神なのだ。ふだんは本当に立派な犬なのに、ときたま今のようにひとの形になりもする。ひとの形をした彼は大学生くらいの外見で、けものの耳と尻尾がモフッとしているのはたしかに異常だ。しかしこの奇妙な光景に寺本はすっかり慣れていた。この夏、彼の人生観は大いに変わったからである。 「おまけにその壊れた傘はなんだ」 「ああ。風でな。油断した」  寺本はあっさりと答えた。彼にとっては、恋人の甲斐が安全にこの家の中にいて、おまけに風呂までわかしてくれようというのだから、もう胸いっぱいなのだった。小犬丸がしらっと見ていようが、別に気にもならない。  とはいえひとの姿をした小犬丸は声優顔負けの美声を放つし、なんとなくおっさんくさい偉そうな口調で話すとはいえ、学生のような外見と組み合わせられると、およそ非現実的な魅力をかもしだしている。恋人の甲斐はそんな小犬丸を子犬のころから可愛い可愛いと猫かわいがりしているが、この犬の正体を知った寺本には小犬丸はそんなに「可愛い」ものではなかった。  第一、どうして犬を猫かわいがりできるというのだ。しかし暴風雨が訪れようとする今、これはとりあえず棚に上げておくべきことだし――と思いつつ、寺本はいう。 「社宅に問題がないことがわかってよかった。史雪も安全で、申し分ない。落ちついたら私は帰る」 「え?」  甲斐が焦ったような、素っ頓狂な声をあげる。外をごうっと風が吹き抜けた。 「馬鹿かおまえ」小犬丸が呆れた眼で寺本をみた。「落ちつくと思っているのか。不要不急の外出は控えろとおまえたちのごたいそうな気象庁がな……」 「私はこの家と史雪が無事ならそれでいいんだ」 「ダメですよ、紀州さん!」  思いがけず鋭い声をあげて甲斐がいった。 「こんな風の中を出ていくなんてとんでもない。今日はこのまま泊ってください」 「あ――いや、でも」  寺本は思わず返事に窮し、間抜けな声を発してしまった。実際のところ、本当に彼にはそのつもりがなかったからである。何しろ手土産どころか財布も持っていないのだ。おまけに自室のパソコンには読みかけの書類が待っている。しかし甲斐はそんな寺本の様子など意に介さなかった。 「心配しなくて大丈夫です! 着替えならこいさん用のを買ってあります。サイズも同じくらいですから」 「おい、史雪」  小犬丸が不満そうな声をあげた。寺本の胸にも複雑な気分が沸き起こったが、その時ごうっとまた風が鳴った。バラバラっとものすごい音が頭上に響き渡る。 「こいさん、何か飛んだ? いま」  甲斐がいった。口をあけたまま天井を見上げている。 「来たな」小犬丸は窓の外をじろりと眺め、鼻をうごめかせた。 「しばらく続くぞ、これは」  天井近くにある小さな窓の外で光が揺れている。他の窓はすべて雨戸を閉めてあった。ひとつだけ残った開口部から、庭のすぐ外を照らす街灯の光がぼんやりとさしこんでいるのだ。街灯は頑丈な支柱に支えられているはずなのに、それでもいまは揺れている。 「暑い」  布団の上にねそべった小犬丸がぼやいた。彼はまだ人の姿のままだ。雨戸を閉めているために、部屋は湿気がこもり、ムッとしている。 「犬の姿になるのは?」  寺本がたずねると「犬の方がもっと暑い」と小犬丸はぼやき、ねそべったまま手を顔の前でひらひらさせている。そういえば犬には汗腺がないのだったか、などと寺本は思った。 「こいさん、氷食べる?」寺本と小犬丸のあいだで甲斐がいう。  小犬丸は答えず、布団の上で寝返りをうった。どうやらシーツの冷たい場所を探しているらしい。  三人は布団を二枚くっつけて敷いたところに川の字で寝そべっているわけである。大学生にしか見えない小犬丸と、三十代の男二人が並んでいるといえば、兄弟のように見えなくもない。まったく似ても似つかない兄弟ではあるが。  そして寺本は隣にいる甲斐の呼吸を感じて、早くも微妙な気分になっている。外では雨風がごうごう鳴って、さっきからバリッとかボキッとか、カーンという金属音とか、尋常でない音も聞こえてくるのだが、この家には異常はない。それは甲斐のとなりにいる小犬丸が「俺が加護しているからな」と胸を貼って宣言したことでもある。  しかし、彼がこの家を守護しているとしても(ちなみに小犬丸は離れたところにある寺本と甲斐の会社、「株式会社イヌメリ」も守護しているらしい)電圧までは守れなかったようだ。というのも――  ぶらんぶらんと妙な感じに揺れていた街灯の光が、突然ふっと消えた。  室内は真っ暗になった。寺本のそばで甲斐が怯えたようにびくりと動く。 「停電……ですか?」 「そのようだな」  小犬丸が無言で立ち上がり、縁側に面した窓と外の雨戸を一枚開けた。びゅうっと風が入りこむ。いつもなら、高台にあるこの家からの夜景は街灯や信号機の光で彩られているはずだ。なのに外は暗かった。雨音と共に庭の木々の葉擦れの音が異常に大きく響き渡る。寺本はあわててスマートフォンを探した。画面の光が室内をかすかに照らし、窓のそばに突っ立っている小犬丸を照らし出す。 「こいさん、窓閉めて」  甲斐が布団の上に起き上がっていった。心細そうな声だった。寺本も起き上がって慰めるように甲斐の肩に手を回した。ほとんど無意識の、自動的な動作だった。 「こいさん?」  小犬丸は振り返った。その眸が獣の黄金に輝いたのを寺本はみたと思ったが、一瞬で消えて、いつもの小犬丸の眼に戻った。ガタッと大きな音を立てて雨戸が閉められる。 「安心しろ。朝には遠くへ行く」  と小犬丸はいった。彼はまだ窓のそばに立っている。番でもしているかのようだった。寺本は甲斐の肩を自分の方に引き寄せた。凹凸の多いパジャマの表面が手のひらをこする。 「寝よう、史雪」  薄いタオルケットを広げると、蒸し暑いにもかかわらず甲斐はその下に入りこむ。スマートフォンの電源を落とすと部屋はまた闇に戻る。タオルケットの端から手だけが出て、寺本の手首を握った。 「紀州さん」 「ん?」 「来てくれてありがとう」  とたんに寺本の中でムラムラと燃え上がるものがあった。  ――待て。待つんだ。理性があるだろう。  ――何を馬鹿な、犬じゃあるまいし。「待て」はいらない。  矛盾した感情が寺本のなかで戦った。しかし寺本が紳士的に甲斐の指を握り、静かに自分の唇へ導くことができたのは、もしかしたらその成果だったかもしれない。 「こちらこそ」  暗闇で小犬丸がケっと鼻だか喉だかを鳴らす音が聞こえたような気がしたが、寺本は無視した。そっと重ねた甲斐の唇は柔らかく、デザートに食べたアイスクリームを連想させた。そのままタオルケットの下で腕を絡ませ、ごそごそと互いの体を探りあえば、当然のことながらしだいに熱量があがってくる。  甲斐がかすかにうめくような声を上げ、寺本はそれを塞ぐようにさらに唇を重ねた。そのまま甲斐のひたいを触る。浮かんだ汗で指がひそやかに湿る。  と、甲斐のパジャマの腰にまわした手のひらの下から、突然布の感触が消え失せた。  一度は驚いたものの、寺本はキスをやめなかった。タオルケットの中にもうひとつの体が入ってくる。ふさふさした毛の感触が寺本の脛を一度はたくように触れ、離れた。びくっと甲斐の背中がふるえる。寺本は甲斐を横抱きにしながら彼のパジャマの前をあけ、小さく立ち上がった乳首を口に含んだ。耐えられないとでもいうように、甲斐が小さく、甘い声をあげた。  いつの間にかタオルケットはどこかへ追いやられていた。甲斐の背中のあたりで、小犬丸の金色の眸が一瞬だけきらめいた。外では雨と風の音が交互に響いている。甲斐の口から漏れるひそやかな声も、他の男たちの吐息も、嵐の音にかき消される。  翌日の午後になっても雨はまだしとしとと降りつづけていた。  台風は朝方から午前中にかけてこのあたりを通りすぎたが、前線の雨雲がまだ去らず、雨はあがりそうであがらないのだ。それをいいことに――というわけでもないが、だらだらと眠ってしまった寺本紀州は、まだこの古い社宅で布団に寝そべっている。頭のすぐ横に犬の前足があって、小犬丸がその上に顔をのせている。  こうして眺めるとたしかに可愛いといえなくもないな、と寺本は犬を眺めて思った。犬の反対側には甲斐がころんと寝そべっている。眼つきがとろんとして眠そうなのは、夜中の寺本と小犬丸のせいにちがいない。できればずっと彼をみていたいとも思うが、そろそろ帰るべきだ、という意識もあって、寺本は落ちつかなかった。 『紀州、用事でもあるのか?』犬の声が頭の中で響いた。『ソワソワするな』 「用事――いや、たいした用事じゃないが――」 『帰るのなら帰れ』 「冷たいな」  天井をみていた甲斐が寺本の方に顔を向ける。 「紀州さん、もし急ぐなら……傘なら貸しますが……」  ためらいがちな声だった。 「でも史雪の傘は一本しかないんじゃないか? 私のマンションには何本もあるんだ。別に濡れて帰っても――」 『あ~もうめんどうくさいやつらだな』  小犬丸がつくづく呆れたように頭の中で叫んだ。同時にクンクン、と可愛らしく鳴く犬の声が響く。これはずるい、と寺本は内心思った。可愛くクンクン鳴いてる犬の本心がこれだとは。先ほどうっかり可愛いなどと思ったのは間違いだ。  しかし小犬丸の次の言葉を聞いて、その考えはふたたび取り消された。 『行きは紀州を傘にいれてやって、帰りはふつうにさせばいいだろうが! 二人ともさっさと行け!』 「こいさんは来ないの?」甲斐が不思議そうな表情になる。 「散歩はいい? いつもは雨でも行きたがるのに――」  ふん、と犬は大げさに鼻を鳴らした。 『今日はいらん。おまえらの相合傘なんか見てられるか。ボンクラども』

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