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番外編 犬と大吉

 三足の靴が並んで石段を上る。ずれたリズムで叩かれた石の表面から深みのあるいい音が響く。すこし籠ったような、それでいて軽やかな、気持ちのいい音だ。 「この石段、いい音がしますね」  甲斐史雪がそういったとたん、右隣を歩いていた寺本紀州は不意をうたれたように長い足をよろめかせたが、即座に元の体勢に戻った。 「そうかな」 「ええ。うちの石段よりいい音ですよ」 「馬鹿をいうな。うちの石段の音もすごくいい」  甲斐の左隣を歩いていた小犬丸――今は若い男の姿だが――がムッとしたような声でいった。 「ヒトの耳しか持たないからそんなことをいうんだ。烏天狗の石段がうちの石段よりいい音が出るなんて、そんなことはない」 「ごめんごめん、こいさん」  甲斐は焦って小犬丸を見上げた。ニットの帽子と厚いコートのために犬耳も尻尾も隠れているから、長身でイケメンの大学生にしか見えないが、彼は甲斐とおなじ社宅に住む犬であり、神を自称する存在なのである。 「怒らないでよ。それに初詣はうちから離れたところがいいっていったの、こいさんなんだし」 「まったくだ。どうしていつもの神社じゃだめなんだ? わざわざ電車に乗って来たんだぞ」  寺本も不思議そうな顔をした。なにしろ株式会社イヌメリの本社近くには比較的有名な神社があって年中観光客が訪れるのだ。初詣ともなれば近隣住民はもとより遠方からも参拝客がやってきて大変な人出だが、それはそれでいいものである。小犬丸の公式の身分(犬の姿をしているときである、もちろん)は株式会社イヌメリの「ペット犬」なのだが、歴代のペット犬は毎年その神社へ歴代の「右腕」と初詣に行っていた。  小犬丸は鼻の頭をこすった。 「最近あそこに近づくとうるさい」 「うるさい?」 「人間に飼われた犬は人間のすることを覚えるからな。あそこの神社は犬を参拝させないだろう」 「そういえばペットは連れてこないようにってなってるね」 「だから鳥居の外で俺を拝む真似をするのが出てくるんだ。まったくけしからん」 「こいさんが神社のかみさまと喧嘩してるとかじゃなく?」 「あのなあ史雪。神社だの寺だのは人間とあれこれやってるものだ。別に俺とどうこうするわけじゃない」 「なるほど」寺本がうなずいた。「でも他の犬は小犬丸とどうこうする――したいと……」 「紀州、誤解を招きそうなことをいうな。とにかく面倒だし恥ずかしいだろうが」 「うわ、こいさん、他のワンコにそんな扱いをされるのが恥ずかしいんだ?」  とたんに小犬丸はげほんげほんと咳きこみ、甲斐から顔をそむけた。甲斐はついニヤニヤしてしまった。最近知ったのだが、小犬丸は照れるとこんな反応をするのである。精悍な大学生の見てくれに反して中身はおっさんじみているから、照れることなどめったにないのだが。 「ふん。犬はヒトと共に歩むものだからな。ヒトの習慣に興味をもつ」  そういって小犬丸は先に石段を登った。参拝客は前にも後ろにも続いていて、彼らの靴音で石段がさらに鳴る。やっぱりうちの石段よりいい音に聞こえる、と甲斐は思った。  甲斐が誰かと初詣に来るのは数年ぶりのことである。イヌメリに入社してから甲斐の人生は思いがけない方向へ変わった。新年をこんな風に過ごすのもはじめての経験だ。できればもうひとつ変わってほしいことがあるのだが、それはどうだろう。  甲斐の心を読み取ったように小犬丸がふりむく。 「史雪、何を怖がってる」 「え? 何も」 「嘘だな。どうした」 「たいしたことじゃないよ」  石段を登った先には参拝道がひろがっていた。ケーブルカーで登った山の中腹なのだが、左右に屋台や土産物屋がならび、切れ目から下界の風景がみえる。穏やかに晴れた元日の空だ。本殿までまだしばらく道が続く。甲斐も寺本も体を動かすのが好きなのでこの程度はどうということもないが、本殿の背後には山頂へ通じる数キロの道が続き、そこは舗装もされていない自然の山道だ。というわけで、冬でもうっかりするとサンダル履きで歩き回る小犬丸も、今日はスニーカーを履いている。 「怖い?」  隣で寺本が心配そうな顔をするので、甲斐はあわてて「紀州さんが気にするような話じゃないですよ」と笑った。 「気になるな」 「ほんとにたいしたことじゃないんです」 「史雪。怖いものは口に出せ」小犬丸がまたふりむく。 「たいしたことじゃないなら紀州に教えてやれ」 「こいさん、もしかしてわかってる?」 「史雪のことだ、人間の作った運勢を気にしているんだろう。あの紙に書いてあるやつだ」  小犬丸の言葉を聞いた寺本が眉をあげた。 「もしかしておみくじ?」 「あー……いや、その」  甲斐は照れ隠しの笑いをうかべる。 「怖いっていうんじゃないんです。ただ連続で凶を引いたので」  そう、甲斐史雪はくじ運の悪い男だった。悪いくじに限って当たる人間というのが時々いるものだが、イヌメリ入社以前の甲斐にはそんなところがあった。おみくじも例外ではなく、悪い運勢ばかりをここ数年引いている有様であり、ことに初詣に関しては三年連続「凶」を引くという快挙(?)をなしとげたのである。  悪い運勢が嫌ならくじなど引かなければいい。そんなことは甲斐だって百も承知である。しかし一度凶を引くと「次こそは」と思うのが人間というものではないだろうか。  寺本が唸った。 「三度続けて凶をひくというのは逆にくじ運がいいんじゃないだろうか?」 「俺もそう思う。悪かろうが良かろうがアタリはアタリだ」  小犬丸もしれっという。 「だいたい史雪は俺に当たった時点で最高の大当たりなんだから、紙切れ程度を気にする必要はない」 「でもがっかりするんだって。待ち人:来ず 失せ物:現れず 病気:治らずって出るとさ……」 「いや、今年は大丈夫だ」寺本の手が甲斐の手首を握った。「絶対にいいことがある」  確信のある口調で寺本がそんなことをいうと、本当にそんな気分になるから不思議なものである。本殿が近づくと警官が交通整理をしていて、三人はいわれるままに列に並んだ。実をいうと甲斐は大きな寺社の初詣が子供のころから好きなのだった。厳粛だから、というわけではない。大勢がずらりと並んで賽銭を投げ、手をあわせているのをみると、みえない願い事がひらひらと空中に漂っているような想像が浮かび、面白い気持ちになるのだ。  参拝をすませると人の波はばらばらに分かれていく。山頂へ向かう道へ続く人、おみくじやお守りを求める人、さっさと境内から出て屋台に群がる人。 「おみくじを買おうか」寺本がいった。「気になるんだろう?」  しかし甲斐はこう答えた。「いえ、山頂に行きましょう」そしてさっさと歩きはじめる。  凶や悪い運勢を引くのが嫌だから、というわけではなかった。寺本の手前、おみくじにこだわるなんて子供っぽい気がしたのだ。それに今年はおみくじを引こうが引くまいが何も変わらないのだという考えが心に浮かんだせいでもある。つまり昨年が(甲斐の人生ではとても珍しいことに)ずっと順調だったように、今後も良い方に向かうだけでそれ以外の方向はないのだと、突然そんな気がしてきたのだ。  山頂までの道は考えていたより険しく、とくに最後の岩場はそうだった。もっとも小犬丸だけは軽々と先に登っていく。頂上にも人はたくさんいて、小さな売店でお団子と飲み物を売っていた。周囲には山がつらなり、遠く平地が霞んでみえる。風景を楽しみながら甲斐は寺本と甘酒を分けあった。小犬丸は隣で羨ましそうな眼つきをしていたが、人の姿の彼は飲み食いをしない。 「それにこいさん、甘酒は飲めないよね?」 「俺はいらん」  山頂でゆっくりして、三人はもう一度本殿の方へ下りた。お土産もかねてお守りを買うという寺本に甲斐はついていき、小犬丸と一緒に人の列から離れて待った。おみくじの前にも人が並んでいる。なんとなく眺めているうち列が途切れて、甲斐のまえに空き地ができた。 「史雪。今だ」唐突に小犬丸がいった。 「え?」 「あの紙切れ。もらってこい」 「こいさんは?」 「俺はいい。あっちに用がある」  折りたたまれた白い紙をひろげる瞬間はいつもどきどきするものである。今年のゆくえはどうなるだろう? 吉? 凶? いや―― 「待たせてすまない――と、おみくじか」  気がつくと甲斐の前に寺本が立っていた。 「紀州さん、こいさんは?」 「小犬丸ならあっちの狛犬の横にいるが。おみくじはどうだった?」  寺本がたずねた。甲斐はたまらずくすくす笑いを漏らした。 「大吉です。たぶん」 「たぶん?」 「吉かもしれないです。紀州さん」 「ん?」 「今年も良い年にしましょう」 「そうだな」  手の中の白い紙には大の文字に点がひとつ。伸ばすと吹き流しのように風になびき、ひらひらとはためいた。

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