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番外編 犬と妄想(前編)
「社長、今日の報告は以上です」と甲斐史雪がいった。
以前はわずかに猫背気味だった甲斐の肩と背中はこのごろすっと伸びるようになった。顎を引いてまっすぐ寺本に視線を合わせる甲斐の眼は、白目の部分がかすかに青く、黒目は中央が淡い茶色で、全体に透明な印象がある。
まつ毛がすっと寺本に向けて揺れると、甲斐との関係はとっくの昔に一線を越えているにもかかわらず、寺本の胸はまだ付き合っていない時のようにどきどきと高鳴った。
「ありがとう。ふたつほど質問があるが」
話しながら寺本はさりげなく甲斐を観察する――毎日会っているのに、舐めまわすようにみつめないでいるのが一苦労である。清潔感のある襟元からのびる首筋。耳は細く、でも耳たぶはふっくらとして、あの裏を指や、舌でなぞると――
――寺本は脳内にわきあがるひそかな妄想を押さえつけようとした。ああ、けしからん! もちろんけしからんのは史雪じゃない、私だ!
甲斐からの報告は定例のものである。寺本の執務室でふたりだけで行われる。社長の部屋だからといって、それほど広くはない。黒光りする古めかしい木製家具調度のあいだに小さな窓があり、他のオフィスとは異なるテイストのインテリアである。この部屋は初代社長の時代の雰囲気をそのまま残したデザインとなっているのだ。もっともデスクは広いが、寺本は物を置かないようにしているから、薄いラップトップと文房具が数点あるだけだ。
このデスクの前に甲斐が立つと、いつも寺本の頭の片隅でとある映像が動きはじめる。甲斐がデスク越しに身を傾ける。寺本はその肩を押さえ、こちらへきなさい、と耳にささやく。甲斐がもう一度顔をあげると、その頬は赤く染まっている。ためらいながら甲斐がデスクのこちら側にくれば、寺本はもう一度いうのだ――「座りなさい」
はっとして寺本は甲斐の声に注意をもどした。まったく、どういうわけなんだ。史雪と私はとっくにその――関係ができているのに、どうして職務中にこんなけしからんことを考えてしまうのだ。
寺本はもう一度甲斐へ注意を集中する。客観的に、そう、できるだけ客観的に甲斐史雪を観察する。彼は入社時よりずっと健康的になっていた。イヌメリに入社すると、それまでアレルギーや生活習慣病に悩まされていた者も、少なくとも社内では体調を気にせず快適にすごせるという現象がある。これはイヌメリのペット犬であり秘密の守護神でもある小犬丸の加護によるものだが、『犬の右腕』である甲斐はこの犬 と一緒に暮らしているので、運動不足や不規則な生活とおよそ無縁な毎日だった。おまけに最近は週末に寺本をインストラクターとしてヨガを試したりもしているのだ。
だからだ。寺本はあらためて思った。そう、だからちかごろの甲斐史雪は、以前よりずっと魅力的にみえるのだ。特にスーツ姿があぶない。いや、これは私のひいき目ではない――何しろ最近の寺本は、社長の専属広報である甲斐と共に外出するとき、彼に向けられる見知らぬ男女の視線に気づくようになったのである。そう、|男《・》|女《・》なのだ。
ありがたいことに今の寺本は甲斐が女性に興味がないのを知っている。だが、男からの視線まで甲斐に注がれるのはどうも気に入らない。
しかし甲斐はそんな寺本の気分にも、自分に注がれる視線にまるで気づいていない。当然だ。甲斐は仕事熱心で、広報や『右腕』の仕事を愛している。社内では小犬丸を連れて巡回などしているから、事情を知らない人間には遊んでいるようにみえるかもしれないが、甲斐が小犬丸を通じて集める情報はイヌメリの財産であり、また広報として他社につけこまれるような隙もみせなかった。
しかしそんな隙のない様子が、最近どうも――どうも寺本を煽ってならないのである。いや、仕事を離れれば甲斐は寺本の恋人なのだが、この、仕事――仕事中の彼が……なんだかとてもその……
そのときだった。「ワンッ」犬が吠え、同時に声が聞こえた。頭の中に。
『オフィスでぼうっとするな、紀州。史雪もだ』
寺本と甲斐は同時にびくっとし、その場に漂っていた緊張感はあっというまに消えうせた。
脳内に響いたのは美声ではあるが十分に成熟した男の声だ。
「こいさん、びっくりさせないでよ」
甲斐が焦った声を出す。社内での寺本への話し方とはかなりちがうが、甲斐に限ったことではない。この犬に面と向かえば、誰も自分をとりつくろうことなんてできないのである。
「経理に用があるんじゃなかったの?」
『終わったから来たんだ。まったくもう……』
犬は(犬のくせに)舌打ちでもしそうな勢いだった。
『仕事中にやらしいことを考えるな』
「考えてない!」
寺本と甲斐は同時に叫び、はっとして同時に口をつぐんだ。
甲斐はわずかに頬を上気させ、足早に執務室を出て行った。いつもなら小犬丸は甲斐のあとに続くのだが、今日は立ち去らなかった。代わりに執務室のドアを器用に閉め(この犬にはこんな芸ができるのだ)ハアッと舌を出して人間なのか犬なのかわからないため息をつき、デスクの横を回って寺本の足元へ座りこむ。
「なんだ」
寺本はいささか不機嫌だった。もちろん退社後は甲斐に連絡するつもりだし、なんなら甲斐の住まい――それはすなわちこの犬の住まいでもあるのだが――へ行こうかとも思っていたが、そうするとまたこの犬に会うわけである。いや、それが嫌だといいたいわけではない。この犬と甲斐と寺本と会社は一蓮托生なのであり、寺本もそれは受け入れている。しかし、しかしだ。
そこまで考えた時、小犬丸が美声を寺本の頭に響かせた。
『人間の発情期が秋に来るとは知らなかったぞ』
「人間に発情期はない。少なくとも季節のようなものはない」
寺本はムッとして即答した。
小犬丸は座ったまま後ろ足をあげ、耳の裏をかきはじめた。呆れたような眼つきだったので、寺本は小犬丸から視線をずらした。
『ふん。ふたりとも発情していただろう』
「まさか」
『嘘つけ。史雪もおまえも、相手に匂いをかけまくってたくせに』
「匂い?」
『自覚がないのか』犬はつぶらなひとみを寺本に向ける。
『ほんとうにおまえたちは厄介だな』
寺本はため息をついた。まあ、史雪はともかく、自分については認めてもいい。どうせここにいるのは犬なのだから、聞かれても困ることではない。
「私にだって妄想くらいある」
『オフィスでやるのが?』
「露骨にいうな」
『史雪は前に、誰だってこの程度の夢は見るといったぞ』
「史雪が?」
犬は妙にコソコソした口調になった。
『おまえひとりが発情しているのなら気にならんが、史雪がここで発情してるとな…』
「は?」
『俺までぐっとくるんだ。なのに史雪は俺に発情していない』
寺本は眼をぱちくりさせた。ふたつの点で。ひとつは、いつも偉そうな小犬丸の語尾が気弱に下がったこと、もうひとつは、自分だけがさいなまれていると思っていたこのオフィスAV妄想が、ひょっとしたら自分だけのものではないのかもしれない、ということだった。
「小犬丸。それはつまり……」
寺本は正確な言質をとろうと口をあけたが、犬は彼の言葉をさえぎった。
『まったく俺には不思議でたまらん。どうして社長室 がいいんだ』
どうして? さあ。
たしかにAVで自分を慰めていた頃の寺本の好みは一貫してオフィスでのシチュエーションだった。なぜかと問われても困るのである。それにAVが現実離れした空想だということもよく知っている。このデスクに甲斐を押し倒すとか、この椅子に座ったまま甲斐を抱きしめてシャツを脱がせるとか、靴下と腕時計だけにして喘がせるとか、一度やってみたいと思ったことは――ほんとうに思ったことはない。職場でそんな行為におよぶなど頭がおかしいし、甲斐だってそう考えるはずである。いくら自分が社長だからってそんな所業はありえない……ありえないはず……
小犬丸が鼻を鳴らし、寺本はわれにかえった。
『おまえもお花畑なやつだ』
「犬だって妄想のひとつくらいあるだろう」
小犬丸は馬鹿にしたように首をふった。
『妄想など存在しない。すべて実現できるからな。なんといっても俺は|神《カミ》だ』
寺本はイラっとした。おかげで考える間もなく次の言葉が口から飛び出した。
「私だって実現はできる」
『なぜ』
「なぜなら、私は社長だからだ!」
感情的になりすぎたと思ったが、犬は急に顔を上げて寺本をしげしげとみつめ、鼻面をくんくんいわせた。妙に感心したような眼つきだった。唐突に立ち上がり、体をブルブルと震わせ、ついで尻尾で寺本のスラックスを何度か叩く。寺本は小犬丸の予想外の行動にあっけにとられた。犬の尻尾の感触はまるで、肩を手でぽんぽんと――親しい友人のように――叩かれたような印象だったのだ。ぽかんとして見送る中、小犬丸は優雅な動きで執務室から出て行った。
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