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番外編 犬と妄想(後編)

「こんな時間まですまなかった」  タクシーが走り去ったとたん、寺本紀州がそういった。甲斐は鞄をさげて寺本のあとに続きながら「いいえ、仕事ですから」と答える。  株式会社イヌメリの社屋にはもうほとんど人の気配がなかった。金曜日で定時を二時間過ぎているとあればこの会社では当然の話だ。エントランスの照明はすでに半分落とされている。寺本は守衛に会釈して執務室へ続くエレベーターに向かう。甲斐は寺本のすぐあとに続いた。 「動物と企業社会」と題したシンポジウムの帰りである。イヌメリは福利厚生としてペット犬を導入していることで有名であり、広報の一環としてこういった企画に協賛することも稀ではない。今日は社長の寺本が特別講演を依頼されていた。講演自体は珍しいことではなかったが、今回は複数の業界と官公庁がまじる大がかりなイベントで、専属広報の甲斐も同行したのである。  シンポジウムの終わりには短い時間ではあったが軽いレセプションがひらかれ、甲斐も出席者から「右腕」という役職について質問を受けた。ビデオと写真で紹介された小犬丸に会ってみたいと話す人々をやりすごし、タクシーに乗ってやっと帰社となった。直帰してもよい時間なのになぜ会社へ戻ってきたのか。何となく――ただ何となく、そうなるべきだという雰囲気が二人のあいだに漂っていたのだ。  小犬丸は会長の秋田が社宅へ連れ帰ったはずだ。前のイヌメリ社長でにある秋田は小犬丸の秘密を共有する数少ない人間のひとりで、右腕が不在のときはサポートを買って出るのだった。甲斐も早く帰るべきだ。しかしエレベーターの扉が閉まったとき、急に動悸がはやくなるのを意識して、甲斐の頭から小犬丸は(一時的に)消え去った。  密室がいけないのである。寺本はすぐ隣に立っている――肩がつくほどの距離に。鈍い光沢をはなつスーツの背はいつものようにすらりと伸びている。甲斐は淡いブルーのシャツの襟をみつめないよう眼をそらす。すると締まった腰が眼に入る。  もちろん、上質な布地の下になにがあるのかいまの甲斐はよく知っているし、最近は休日の寺本がどんなスタイルで過ごすかも知っている。  寺本と甲斐がどんな関係かは公にされていないし、甲斐も専属広報の職務を万全に果たすため、公私の区別はきちんとつけていた。とはいえ、スーツ姿の寺本紀州はいまだに甲斐にとって格別なアイコンであり、最高に萌えるスタイルなのだ。もちろん社内に人がたくさんいてざわついているときは、特段意識することもない。しかしあたりがこんなに静まって、ふたりきりで狭い箱にいるとなると――  ポン、と柔らかい音が響き、エレベーターが停止した。甲斐は我にかえり、寺本のあとに続いて執務室に入った。明かりは自動的に点灯した。古風なインテリアでも設備は最新である。寺本は無造作にレザーのひじかけ椅子に腰をおろし、そのときには甲斐はいつもの報告書を鞄から取り出していた。イヌメリ社内で唯一、電子化されていない文書である。小犬丸を連れて巡回した時に得られる情報をまとめるのは「右腕」のひそかな役割であり、小犬丸の正体とあわせてこの会社のトップシークレットでもある。  寺本は「手短にすませよう」と穏やかにいった。甲斐は何気なく寺本のネクタイに眼をやった。ごく普通の濃紺の生地のようにみえるが、よくみると犬が何匹も飛び跳ねる様子が地紋に織りこまれている。犬は看板キャラクターの「メリーさん」で、ネクタイは最近開発されたシリーズだ。  いま、寺本の手がその結び目をわずかにゆるめた。手は大きく、指は長く、爪はきちんと整えられている。関節が動くさまに甲斐の視線はなぜか釘づけになる。あの指が自分の顎をもちあげる光景が頭に浮かぶ。 「史雪?」  寺本が甲斐のを呼んだ。はっとして甲斐は注意を戻し、無性に恥ずかしくなってうつむいた。まだ勤務中なのにどういうわけだろう。たとえ一線を超えた関係だとしても、社内でになるなんて――  しかし最近、どうもおかしいのである。定例の報告のとき、社長の一挙手一投足に視線を奪われ、あらぬ妄想にふけりそうになるのだ。スーツがいけないのだ、と甲斐は思う。成熟した男の色気がダダ洩れなのがよくない。しかも今の自分はあの上質なスーツの下にどんな肉体が隠されているのかよく知っている。しなやかな筋肉と割れた腹筋と――上下する腰がしめつける力と……。  表向きは冷静に報告をしながらも、ろくでもない想像へ思考がそれる自分がいる。だからつい数日前、小犬丸が『オフィスでぼうっとするな、紀州。史雪もだ』と一喝したときは本気で恥じ入ったのだが、その記憶も薄れないうちにこのていたらくである。甲斐は焦って報告書に眼をおとした。 「すみません、では」 「史雪」  もう一度寺本が名前を呼んだ。「顔をあげて」  はっとして顔をあげた。デスクの向こうに座る男は甲斐を凝視している。視線が自分の顔から首、報告書を持つ手へ舐めるように動く。  体じゅうがかっと熱くなり、なんの脈絡もなく、ずっと前にみた夢の光景が頭に浮かんだ。あの夢でも、この執務室の中でふたりきりで、そして―― 「こちらへ来なさい」寺本がいった。「それを置いて」  甲斐はびくっとして報告書をデスクに置いた。こちらへ? デスクの向こう側へ? 足を一歩踏み出すと同時に寺本も立ち上がる。また眼が合った。眼をあわせたまま、ほんの数歩で甲斐は寺本の前に立っていた。寺本の手が伸び、甲斐のネクタイの結び目に触れる。 「今日はもう遅い」  寺本はため息のような長い息を吐いた。 「紀州さん……どう――」  その言葉は問いになるはずだった。代わりに、噛みつくような口づけに覆われ、飲みこまれた。  後頭部を支えられながら、唇をきつく、長く吸われる。たまらず開いた隙間から舌が内側に侵入する。逃れようとするかのようにほんの一瞬そらされた甲斐の背中を、がっしりと腕が囲いこんだ。動きを封じられ、息をするのが苦しいほど口の中を犯される。甲斐の頭からは「ここは会社だ」という意識が去らない。いくら社内に人がいないといっても、廊下には守衛の巡回もあって――  聞かれるかもしれない。そう思ったとたん、背筋を妖しい興奮が走り抜けた。  頭は警告を発しているのに、手から力が抜ける。寺本のスラックスをつかんでいるので精一杯だ。混ざりあうふたりぶんの吐息を飲みこみ、やっと唇が解放されると、唾液がひとすじ顎をつたいおちる。甲斐は寺本とふたたび視線をあわせ、恋人であり上司である男の眸に欲望が暗く陰をおとすのを目撃した。  どちらも一言も発しなかった。  ふいに世界がまわり、冷たいデスクの表面に背中が当たる。甲斐は寺本の顔のむこうにオフィスの天井をみた。この部屋には数えきれないくらい入っているのに、黒い木の格子で覆われた天井をこんな風にみあげたことは一度もない。空調の風が直接肌に触れる。いつのまにかネクタイが解け、ワイシャツの第一ボタンが外れている。  寺本は甲斐の背広の袖を抜き、上半身をデスクの上に押しつけた。何度もキスを落とされ、唇から顎、首筋まで甘噛みされる。急ぎすぎて乱暴にも感じられる手が甲斐のベルトを外したかと思うと、スラックスの前をあけた。 「き――きしゅうさ―――」  甲斐は声を飲みこんだ。寺本の手は驚くほどすばやく動き、下着ごと甲斐のスラックスを足首まで床に落とした。下半身が執務室の空調にさらされる。寒くて震えたのも一瞬で、次の一瞬、別の感覚で甲斐の背筋は震えた。すでになかば立ち上がっていた中心が、寺本の手のひらにそっと包まれたのだ。 (あっ……)  声を殺して吐息をつきながら、甲斐はついに眼をとじていた。服が擦れる音が響き、ファスナーが鳴る。自分のものとは違う堅い熱が甲斐自身に重なり、擦れあう。 (――あ……だめ……)  寺本の手がふたつの茎をつかんで、しごいた。すでに尖端はひくひくと雫をこぼしているし、勝手に腰が揺れてしまう。背徳の意識で快感が増強されているようで、たまらず足が浮きそうになる。固いものが絨毯に落ち、鈍い音が響いた。革靴やまとわりつく布の重さが消え、足が自由になる。いや、逆だ。裸に剥かれて逃げ出せなくなったのだ。  甲斐は眼を見ひらく。自分は下半身をむきだしにしてデスクの上に横たわり、オフィスの照明の下、デスクの前に立つ男――上司であり恋人である男の手で両足をひらかれている。 「史雪、しずかに」  男がささやいた。周到に濡らされた指が甲斐の奥へ入りこみ、内側をすべった。馴染んだ場所でとまり、中の一ヵ所をこりっと押す。  真っ白な快感が脳を直撃し、喉の奥から飛び出しそうな声を甲斐は必死にのみこんだ。執拗に中をかきまわされて、冷たいデスクに投げ出された手が震える。中をすべる指の感触が去ったと思うと、甘く麻痺した腰をぐいっと引き寄せられる。 「あっ―――」  男の荒い息とともに、熱くかたいものに内側を押し開けられる。そのまま奥まで挿入され、ついさっき指で弄られた場所を深いところまで突かれた。 「史雪――ああ……」  揺さぶられながら、甲斐の体はしっかりと恋人を咥えこみ、快楽をむさぼっている。かすんだような視界うつる寺本の端正な顔には汗が浮いている。締めつけられる快感に眉をひそめ、さらに奥へ打ちつけてくる。尖端は甲斐の秘密をこじ開けるように深い部分まで達して、暴かれる悦びに唇が勝手に開いた。もう止められない。 「あんっあんっああ、ああ、だめ、だめ――」  懇願しても律動は終わらなかった。甲斐はあっけなく昇りつめ、くらべようのない真っ白な快感に意識を一瞬はぎとられた。 「遅かったですね」と守衛がいった。 「お疲れ様です」 「ありがとう。ご苦労様です」  寺本は挨拶したが、横に並んだ甲斐は小さく会釈を返しただけだ。社屋の敷地を出た瞬間、寺本は隣を歩く恋人の腕をつかむ。寺本に向けられた眼にはいまだ情事の名残がある。 「大丈夫?」  寺本はそっとたずねる。つぶやくような答えがあった。 「はい。大丈夫です……」  黙ったままならんで道を歩いた。海沿いの歩道をゆく人間は少なく、追い越す者もすれちがう者もほとんどいない。規則正しくならぶ街灯のオレンジ色を車のヘッドライトが横切っていく。ふいに走行音が途切れ、夜の静かな波の歌が響いた。潮がさわさわと引き、また戻る。  なぜか同時に沈黙が破れた。 「その……私はつまり……」 「ええ……僕も……」  同時に言葉を発しかけて、寺本と甲斐は顔を見合わせた。お互いの眼のなかに答えをみたような気がしたのである。 「――一度その、やってみたかった」 「――わかります。いつもは――こいさんがいますから」  寺本はうなずいた。 「小犬丸がいれば――」  ところがなんと続けるつもりだったのか、すぐにわからなくなった。すぐ先の街灯のしたに長身の影が立っていたからだ。ハンサムな若い男だ。スウェットにパーカー、この季節には不似合いな下駄ばきで、不遜な面持ちで腕を組んでいる。 「俺がいたら何だ?」  腹立たしくなるほどの美声が響いた。甲斐の声がぱっと明るくなる。 「こいさん!」 「遅い。史雪」  人型(ヒトガタ)に変身した小犬丸は寺本と甲斐が近づくとわざとらしく眼を細めた。パーカーのフードが落ち、髪のあいだに埋もれた垂れ耳が動く。スウェットから突き出た尻尾がぴょこんと揺れる。 「ふん。いい匂いがするぞ、まったく」 「こいさん――これはその……」 「言い訳するな。俺は犬だ」  ――つまり小犬丸の鼻にはすべてお見通しということだろう。寺本は苦笑し、甲斐の肩に腕をまわした。 「行こう。家まで送る」 「紀州はもういいぞ。史雪は俺が連れて帰る」 「犬の出迎えだけですませろと?」 「俺をただの犬だと思うなら、大きな間違い――」 「二人とも吠えないで!」甲斐が割りこんだ。「みんなで帰ろう」  小犬丸が不満そうに鼻を鳴らし、寺本は笑った。三人でならぶと道はせまくなる。下駄の歯が歩道を蹴り、波の歌のあいまに拍子をとる。

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