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洗濯日和

 その晩眠って地獄へ落ちると、魔王がいなかった。 「申し訳ございません。魔王様は留守にしております。お戻りは遅くなるとのことです」  地獄で俺が目覚めるのはいつも魔王城のエントランスホールである。気がつくといつも俺の世話をしてくれる執事の鬼が俺の前に立っているのだが、今日の彼は俺をみるなり頭を下げて、かぼそい声でそんなことをいった。  かぼそい声といっても、執事鬼の見た目は筋骨隆々としたガタイのいいおっさんで、ひたいの真ん中に角がひとつ生えている。俺はあわてて頭を下げ返す。 「ええ、いやとんでもない。こっちはいつものように寝たらここにいたんだし、少しくらいあいつがいない方がむし」 「頭など下げないでください! 本当に申し訳ございません」 「いやいや俺ごときに鬼さんが頭を下げられては」 「まさか! あなた様は魔王様の――」 「いいからいいから!」  俺はあわてて口を挟む。いくらこの状況に慣れたといっても、魔王の嫁だなどとこんなところで叫ばないでほしい。 「えっと……じゃあどうしようかな。とりあえずいつもの部屋にでも……」  たいていの人は知らないと思うが、地獄の魔王城というのは高級ホテルのような外観をしていて、俺がいつも通される部屋には巨大な天蓋付きベッドがある。  このベッドはとても寝心地がいい。腰にやさしい適度な固さのマットレス、さらさらしたシーツ、いい感じに肩を支えてくれる枕、とろりとした肌触りの毛布、安心感を与えてくれる羽根布団、かすかにいい匂いもして、もう横になっただけで天にも昇る心地というやつを味わえる。地獄で天に昇っているのはおかしいかもしれないが、魔王がいなければそれも可能。そうだ。  正直いって、魔王がいないほうがむしろ都合がいい。鬼のいぬ間に命の洗濯というが、俺の場合は魔王のいぬ間に命の洗濯、そういえるんじゃないだろうか。何しろ魔王がいると、せっかくの素敵なベッドでろくに寝かせてもらえない。  ――なんてことを思った俺をよそに執事鬼はまたも申し訳なさそうな表情をした。 「それが、ただいまお部屋を清掃しているところなのです。すぐにご用意しますので、お待ちを」 「あー」  俺は正直いって面倒くさくなった。魔王の嫁云々はともかく、地獄落ちの楽しみのひとつは、あの楽しく弾むマットレスでぽんぽんすることなのだ。 「掃除してていいよ。広いだろ。俺は適当にすみっこにいる」 「そうはいきません! すぐにランドリーからきれいな寝具一式が参りますし、超特急で準備させますから、お待ちを!」  気弱な眼つきをしているくせに執事鬼は融通がきかない。すでに声はかぼそくもない。魔王はいったいこいつらをどんなふうに扱っているんだ。俺はため息をつきそうになったが、ふと思いついてたずねた。 「そういえば、洗濯ってどこでやってるんだ?」 「鬼印のランドリーサービスでございます。まもなく到着いたします――しました」  執事のうしろをユニフォームを着た鬼がのしのしと歩いていった。背中には笑う鬼のマークとともにキャッチコピーが書いてある。 『地獄で洗濯するなら鬼印! 地獄の業火で瞬時に乾燥!』  どこかでみたことのあるようなコピーだと思ったら、地獄落ち初期に俺が広告代理店でやっつけた仕事だった。執事鬼は首をめぐらして明後日の方向をみている。どこからか俺には聴き取れない連絡を受け取ったらしい。鬼の角は地獄Wi-Fiを受信できるのだ。 「あと二分でお部屋の準備ができます。魔王様のお帰りまで、ごゆっくりお休みください」  やれやれ、命の洗濯、命の洗濯。俺は心の中でつぶやきながら執事鬼のあとに続く。

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