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1 迷い猫①

  それは五月の休日。のどかな昼下がりだった。遅めの昼ごはんにとインスタント麺にお湯を注ぎ、のんびりと出来上がりを待っていた。    一瞬の出来事だった。一瞬目を離した隙に、台所の小窓から腕がにゅっと伸びてきて、俺のカップヌードルを掻っ攫っていった。昼飯ドロボー! と叫び、俺は急いで玄関のドアを開けた。    ドアの真ん前にうずくまり、少年が麺を啜っていた。夏の夜空みたいな色をした大きな目が印象的な少年だった。俺と目が合うと激しく咽せ、口の中のものを噴き出した。   「はっ!? な、てめ、何して……」    突然のことに混乱し、怒ればいいのか心配すればいいのかわからず狼狽える俺に構わず、少年は一目散に逃げ出そうとする。が、そうは問屋が卸さない。俺は少年の首根っこを押さえてとっ捕まえた。   「おいこら、何逃げようとしてんだ。お前は俺のせっかくの昼飯を台無しにしたんだぞ。どうすりゃいいかわかってるよな」    少年はじたばたと暴れる。少年といったが、どうやら中学生らしい。こんな子供がよそ様のカップヌードルをコソ泥するなんて世も末だ。   「ごっ、ごめんなさいっ、だっておじさん五分も放置してたから、もういらないのかなって思って」 「そんなわけあるかい。汁吸って柔こくなった麺が好きなの。ほっといたのはわざとだから!」 「ごめんなさい。ねぇ、何でもするからさ、警察だけはやめてよ、おじさぁん」 「誰がおじさんだ。俺はまだ二十代だ!」    だからまだお兄さんで通る……はず。たぶん。知らないけど。   「じゃ、じゃあお兄さん、何でもするから部屋入れてよ」    入れてよ、と言いつつむしろ自分から部屋に侵入してくる。さっきから思っていたが、なんだかノリが軽い。ごめんなさいという言葉も白々しいばかりで、あまり誠意を感じられない。しかしまぁ、本人が何でもすると言っているのだ。行動で誠意を示してもらおうじゃないか。   「おっさん、ずいぶん狭い部屋住んでんな」 「だからおっさんじゃ……って、そんな奥の方まで行かなくていいから」    少年は居室の方までずかずかと入って、俺の万年床にどっかと腰掛けている。   「何座ってんだよ。こっち来い」 「台所で? おっさん、わりと変態趣味なのか?」 「はぁー? お前こそ何言ってんの。何するつもりだよ」 「何って、ナニだろ。イイこと」    少年は布団から立ち上がると、俺の胸倉を掴んで引き寄せ、軽いキスをした。呆然とする俺を見、少年は揶揄うように笑う。すると今度は舌を入れてこようとするので、俺は反射的に突き飛ばした。胸をどつかれた少年は、どしんと尻餅をつく。   「……ってェなぁ、何しやがる」 「そっ……れはこっちの台詞だ。お前、まだガキのくせに色気づいてんじゃねぇ」 「ガキぃ? おっさん、おれはもう高校生だぜ。ガキじゃねぇ」    高校生だって? まさか。どう見ても中一か中二。ローティーンだ。俺の知ってる高校生はもっと背丈があるし、筋肉もある。こんなに細くて小さくない。  じろじろ見られて癪に障ったのか、少年はチッと舌打ちをした。   「あんた、おれのことチビだって思ったろう」 「いやそれは……まぁ、思ったけど」 「くそ、ムカつくぜ。あんた、もっとチョロいと思ったのに」 「おま、この期に及んで生意気言ってんなよ」    少年は不貞腐れたように、布団にごろりと横になってしまう。   「おい寝るな。お詫びに何でもするって言っただろ」 「言ったけど、だってあんた、ガキとはセックスできないタイプなんだろ? おれはガキじゃねぇが、あんたにとってガキなら仕方ねぇ。勃たないんじゃなぁ。つうかもしかして童貞? その歳で?」 「失礼なやつだな。俺なんか学生の頃から百戦錬磨で乾く間ないほどモテたかんね。童貞とかあり得ねぇっての。そんな俺でもガキはさすがに守備範囲外なの。それに男とする趣味もねぇ」 「じゃあしょうがな――」 「いやいやしょうがなくないよ!? どこがしょうがないんだよ言ってみろよ。お前、セックスしか能がないわけ? そもそも俺がしてほしかったのは、皿洗い!」    ビシッと台所を指さす。少年は目を丸くし、皿洗いぃ? と間延びした声で言った。   「そう、皿洗い。鍋とフライパンも昨日からそのままんなってっから、お前に洗ってもらおうと思って。セックスより全然楽だろうが」    しかし少年は面倒臭そうに、布団の上で丸くなってしまう。   「できねぇ」 「はぁー? できないじゃない、やるんだよ」    俺は少年を抱き上げて台所まで運び、シンクの前に立たせた。   「ほら、腕捲って。こんなもん、今時小学生でもできるぜ」 「で、できねぇよ。やったことない」 「見え透いた嘘を言うなよな。あんまりゴネるようなら通報しちまうぜ」    俺が言うと少年ははっとして、渋々トレーナーの袖を捲った。   「この後は?」 「スポンジに洗剤つけて泡立てて」 「洗剤? ってのはこれか?」 「そうそうそれを――」    ちょっと出すだけでよかったのに、少年は容器を思い切り握り潰した。味のないサラダにマヨネーズをかけるみたいに、それはそれは大量の洗剤をスポンジ上に落とした。   「ちょっ、お前ぇ、それは出しすぎだろ! 他人ン家のカップヌードル無駄にするだけじゃ飽き足らず、洗剤までも無駄使いしようってか? ったく……」 「だ、っから! できねぇっつったろうが!」    軽く揶揄っただけなのに、少年は顔を真っ赤にして怒る。洗剤まみれのスポンジを顔に押し当てられそうになる。   「やったことねぇって、言ってんだろ! くそ、どいつもこいつもおれを馬鹿にしやがって」 「ごめん、ごめんて、悪かったよ。ほんとにやったことねぇんだな。教えてくれる人いなかったの?」 「いねぇよ、そんなもん。逆にみんな誰から教わるんだ、こういうのって」    少年は案外簡単に大人しくなる。だからセックスの方がよかったんだ、と呟く。   「馬鹿だなお前。今からでも覚えりゃいいじゃん。おじさんが教えて進ぜよう」 「めんどくせぇ」 「面倒がるな。何だって、できないよりできた方がいいんだぜ。そりゃあ、得意を伸ばすのも大事だけど」    結局、二人で仲良く皿を洗った。俺も他人から教えてもらったことだが、汚れていないものから順に洗うとか、すすぎは最後にまとめてする方が節水になるとか、そんなことを喋ったように思う。    全部を洗い終え、綺麗になった皿を並べて少年は満足げに笑う。   「こういうのもまぁ……たまには悪くない……かも」 「男でもこんくらいできなきゃ、今時婿の貰い手もいねぇぜ」 「そう言うあんたは結婚の予定でもあんのかよ、おっさん」 「だからおっさんじゃねぇし」 「おっさんだろ。じゃあな、おっさん」    少年は、くくっと声を抑えて笑い、スニーカーを突っかけて出て行った。最後に、ありがとうと言い残して。一緒にいた時間は三十分にも満たなかったと思うが、一人の部屋は存外広くがらんとしていて、少し寂しく感じられた。    あの奇妙な少年、うまく言葉にはできないが何か惹かれるものがあった。しかしもう二度と会うことはないだろう。そう思っていたのに、俺達は実にあっさりと、しかも意外なところで再会を果たす。

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