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1 迷い猫②

 俺は都内のとある高校で教師をしている。担当は一年の古典、担任も持たずに気楽な身分だ。順当に行けばとりあえずあと二年は平和に気楽に生きられる。三年になったら受験だ何だで忙しいからな。   「はい、じゃー出欠取りまぁす」    あ行から出席番号順に名前を呼ぶ。生徒が返事をする。俺は出席簿にチェックを付ける。   「――次、九条くん」    はい、と掠れた声が返事をする。その声を、つい最近あらぬ場所で耳にした気がして、俺は出席簿から顔を上げた。    九条悠月。女みたいな名前だと思った。これまで何度も目にしてきたのに、今初めて具体的な感想を持った。    先生? と九条の後ろの席の生徒が怪訝そうに俺を見る。九条もじろりと俺を睨む。そういえば出欠確認の途中だったと思い出し、俺は再度出席簿に目を落とした。    それからの一時間はいやに長く感じられた。九条は学校では大人しいらしかった。大人しいを通り越して影が薄い。消極的で目立たない。指名して問題に答えさせても、はきはきと喋らない。    先日はあんな、非行少年のような言動を繰り返して、俺のことをおっさん呼ばわりして笑っていたくせに、一体どうしたことだろう。コソ泥や援交とは縁遠い、真面目で堅苦しい雰囲気すらある。    授業後、職員室へ戻る俺を九条が追いかけてきた。ぶかぶかの学ランの第一ボタンまでしっかり留めて、九条は俺を呼び止める。おいとか、あんたとか、ましてやおっさんとかおじさんとかでもなく、先生と俺を呼んだ。   「先生、あの、こないだのこと……」    もじもじと言いにくそうに言う。先日と違ってしおらしい。   「学校には黙っとけって?」 「うん。内緒にして?」    大人に媚びるような嫌な目をする。手を合わせて頭を下げる。   「ね、お願い。ほんの出来心だったんだ。他の先生には言わないで」 「はぁー、まぁいいけどよ。面倒に巻き込まれるのは面倒だし」    すると九条はにやりと口角を上げる。下品に口を開けて笑った。   「はは、あんたやっぱチョロいな」 「おま、人がせっかく――」 「先生、あんた自分で約束したんだからな。絶対誰にも言うなよ。おれの家にも学校にもだ。わかったな?」    俺に口を挟む余地を与えず、九条は風のように走り去った。廊下は走るな、などと注意をする間もない。あと五分で次の授業が始まるし、俺も速足で職員室へ戻った。    教え子と事故的にキスしてしまったことが発覚したわけだが、何も焦ることはない。数日寝ればどうせ忘れる。知らない人を家に上げるのはもうやめにする。俺達はただの教師と生徒だ。担任ですらない、科目受け持ちの生徒というだけだ。これ以上関わり合いになるのはやめよう。    そう自分に言い聞かせたのだが、好奇心に勝てなかった。あいつのことが気になって仕方なく、担任の教師にそれとなく尋ねてみた。   「九条くんですか。何か問題でも起こしましたか?」 「いや、そういうわけじゃないんですよ。成績もいいですし何も問題なんて……。ただちょっと、気になることがあってですね」 「まぁ、難しい時期ですからね。お母さんが再婚したばかりで」    一年前に母親が再婚したのだそうだ。当時は酷く荒れたらしいが、最近は落ち着いてきているらしい。   「歳よりもうんと若くて朗らかなお母さんで……九条くんはあまり似なかったみたいですがね。担任としては、もう少し活発に行事等に参加してもらいたいものです。友達付き合いも悪いみたいですから」    その再婚相手というのを少し調べてみると、不動産経営で一代にして富を築いたお金持ちらしいということがわかった。フェイスブックのアカウントも見つかった。森林みたいな庭に囲まれた白亜の邸宅に住み、ゴールデンレトリバーを一頭飼っているらしい。    九条の写真は一枚もなかったが、夫婦揃って映っている写真は何枚か載っていた。担任教師が言っていた通り、若くて朗らかそうな母親だ。九条とはあまり似ていない。父親の方は、小太りで毛髪が後退してきてはいるものの、いかにも紳士という出で立ちだった。    あいつのことを知るほどに、次々疑問が湧いてくる。こんな立派なお屋敷に住んでいながら、なぜどこにも行き場がないと言いたげな表情をしているのだろう。再婚とはいえ両親が二人揃っているのに、家族で一緒に暮らしているというのに、なぜ孤独で寄る辺のないような雰囲気を纏っているのだろう。

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