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2 懐の猫①

 成瀬悠月は野良猫だ。週末か、休日が多かったが、ふらふらっと俺のアパートへやってきて、朝になればまたふらふらっとどこかへ消えてしまう。毎度鍵を開けっ放しで出て行くものだから、仕方なく合鍵を渡した。するとますますの頻度でうちへ入り浸るようになった。    親しくなるにつれ、成瀬は家族のことや身の上話を少しずつ聞かせてくれた。生まれも育ちも東京都内、物心つく前に実の父親とは生き別れ、ちょうど一年前に母親が再婚し、あの家に越してきたのだという。   「元々はワンルームのアパートにお袋と二人でずっと住んでたんだ。それが急に、あんなでかい家に住むことになったもんだから、ギャップで蕁麻疹が出た」    実は義理の兄が一人いるらしい。再婚相手の連れ子である。しかし一緒に暮らしたのは一か月程度で、すぐに海外留学に行ってしまったそうだ。長期休暇には帰国するが、それでもお互いのことはほとんど知らない。お世継ぎだから色々忙しいんだ、と他人事のように成瀬は言った。    義理の父親は礼儀作法に大変厳しいらしい。母親には甘いが、成瀬には口うるさく指導する。俺が家を訪れた時に終始丁寧な言葉遣いだったのは、大人にタメ口をきいているのが家政婦経由で父にバレると叱られるからだそうだ。とにかく実家は息が詰まる、居心地が悪くて仕方ない、と成瀬は言う。        成瀬悠月は野良猫だ。しかも質の悪い野良猫。一度懐に入ったが最後、次の居場所が見つかるまで居ついてしまう。    未成年を保護者の許可なく宿泊させたり連れ回したりするのは、本当はいけないことだとわかっている。法律か条例か知らないが、完全にアウトだと思う。だけど追い出すのも忍びない。一応親に許可は取っていると成瀬は言うが、嘘っぽい。一回俺から直接話しに行こうかと提案したら、生徒の言うことを信用しないのかと怒られてしまった。        さて。そんなこんなで夏休みになった。夏休みといっても休めるのは生徒だけで、我々教員は普通に学校へ行く。だけど生徒のいない学校は静かだし、授業もしなくていいから楽だし、他の仕事が捗るし、何より定時で帰れるので天国だ。帰宅してまで生徒と顔を合わせなくてはならないこと以外は。    夏休みに入って一週間。成瀬は連続でうちに泊まっている。昼間はどこで何をしているのか知らないが、夜になると必ず姿を現す。    これは夏休み以前からそうだが、おおよそ俺が夕飯を作っている最中に突然やってくる。当然のように食事をねだるので、俺ももう諦めて始めから二人分作るようになった。その代わり、洗い物は成瀬が全部やってくれる。最初に比べて大分上手になった。    いやしかし、一週間連続で泊まらせるなんて、これはさすがにまずいのではないか。一週間どころか、今晩で九日目に突入してしまう。今まで、いくら多くても週に三日が限度だったのに、いきなりどうしたことだろう。    ふと、俺が帰らなかったらあいつはどこへ行くのだろうかと気になった。合鍵を渡してはいるが、成瀬が俺より先に家に帰っていることはない。俺の方も、週末のスナック通いは控えてなるべく早く帰宅するようにしてはいるが、それにしても毎回ちょうどいいタイミングで成瀬はうちにやってくる。いちいち約束もしていないのに。    だけど俺があえて帰らなかったら。あいつはどうするのだろう。大人しく自分の家に帰るのか。他の誰かの家へ転がり込むのか。ネカフェかどこかに泊まるのか。それとも合鍵を使って先に部屋に入るのか。試してみたくなった。    *   「啓一、今日はずいぶん遅くまでいるんだね」    スナックのママが独特のしゃがれた声で俺に言う。ママといっても、リアルに俺の母親くらいの年齢だ。髪を結い上げて着物を着こなす姿はなかなか決まっているが、俺の母親くらいの年齢である。もしかするともっと行ってるかも。   「久しぶりに来たと思ったら何だい、だらしないねぇ」 「んー、いつも通りでしょ」 「いつも通りなもんかい。弱いくせにがばがば飲んで、閉店まで居座る気かい」 「えー、もうそんな時間?」    店内を見渡すと、俺以外の客はいなくなっていた。ついさっきまで、数人は飲んでいたはずだが。時計はもうそろそろ午前二時を指そうとしている。   「ったく、普段は日付変わる前には帰るくせに。何かあったのかい」 「何かぁ……? 何かって……」    酔いが回って視界が霞む。思い出されるのはあいつのこと。あいつ、成瀬。今頃どこでどうしているんだか。気になって仕方ない。   「ジントニックもう一杯」 「まだ飲むのかい。いい加減にしなさいよ」 「いいだろぉ、俺だって色々さ……それで最後にするからさぁ」    やれやれと呆れたように溜め息を吐き、ママ――喜代子はグラスを出してくれた。   「本当に、これで最後におしよ。いい加減帰るんだよ」 「うん、うーん……何かこれ薄くねぇ?」 「水割りにしたからね」 「水割りかぁ……じゃあしょうがねぇか」    成瀬、あいつ今頃どうしてるんだろう。実家に帰っていればいいけど。ネカフェなんて危ないし。もしかして行き場がなくて放浪してるのかな。ああ、誰か知らないやつの家に転がり込んでたら嫌だな。なんで嫌なのかわかんないけど。    うちには来たのだろうか。俺がいないとわかって帰った? 腹を空かせてたらかわいそうだ。お金は持ってるのかな。寒くて震えてるなんてことはないと思うけど、暑さに参っていたらかわいそうだ。    思考がぐるぐる巡って収拾がつかない。俺はどうしたいんだっけ。何がほしいんだろう。   「ジントニックもう一杯……」 「あんた、それで最後ってさっき言ったろう。もうないよ」 「いーじゃん、もう一杯。それでほんとの最後にすっから」 「ったく、九割水だってのに、どうして酔いが醒めないんだろうね」    ぶつぶつ言ったが、グラスを出してくれる。それで終わりだからねと念を押される。   「……なぁ、俺さぁ、最近猫にハマっちゃってさぁ」 「その話なら聞いたよ」 「あ、そーだっけ? 結構かわいい猫で……黒猫なんだけど。目がね、夏の夜空みたいでさ。天の川ってあるでしょ。あれみたいに綺麗でね」 「一回餌付けしたら懐かれちまって、それからよく会うようになったんだろう? 今晩もきっと来てるのにこんなとこで飲んでていいのかって、あんた何遍も話したじゃないか」    そうだっけ。思考だけでなく会話もぐるぐる廻っているのか。   「でも、なんで懐かれたのかわかんねぇんだ」 「犬猫なんてのは餌をやりゃあ誰にだって懐くもんだろう」 「でも、もっといい餌場をあいつは知ってるはずなんだよ。まぐろとかさんまを食わしてくれるようなさ。うちはせいぜい魚肉ソーセージだ」 「だけど餌が全てでもないからねぇ。抱っこしたり遊んでやったりすりゃあ、乏しい食事でも懐くんじゃないかい」 「あー、スキンシップってやつ?」    それらしいことといえば、同じ布団で眠るくらいか。後は、時々一緒にテレビゲームをする。マリカーとか、スマブラとか。成瀬はゲームにほとんど触れずに育ってきたらしく、コントローラーの持ち方から教えてやった。   「あんた、その猫がかわいいんだろう? きっと腹を空かして待ってるよ。早く帰ってやんな」 「……別に、かわいくなんか」 「かわいいんだろう? じゃなかったら何遍も同じ話しないよ。あたしゃもう耳タコだよ」 「別に、どうせ俺がいなくたって、よそで餌もらってんだろうからさ」 「素直じゃないねぇ。猫に懐かれて嬉しいのか疎ましいのか、あんたんとこへ来てほしいのかどこかへ消えてほしいのか、どっちなんだい。はっきりしない男だねぇ」    そんなこと言われたって、そんなの俺にもわからない。    始めは、確かにただ疎ましいだけだった。あいつ、何を考えてるのかわからないし、どういうつもりでうちに来るのか、俺のことを何だと思っているのかもわからない。あいつは何も言わない。だけど俺もさ、アラサーで独り身の寂しい男だからさ。一度知った温もりはなかなか手放せないんだよな。
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