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3 帰省①

 東京から新幹線を使って二時間半。俺の育った町がある。盆に合わせて帰省した。しみったれた田舎町だ。海しか取り柄のない、どこへ行っても魚の生臭さが漂っているような町だ。それでもなぜ俺がこんなところへ来たのかというと、母の墓があるためだ。息子の俺がお参りしてあげなくちゃ、母もかわいそうだろう。    母が死んでもう十年は経つだろうか。その頃俺はまだ高校生で、母と離れて施設で暮らしていた。大学進学の奨学金をもらうために毎日死に物狂いで勉強をしていた、そんな折。所長の吉永先生が――正確には先生ではないのだが、教員免許を持っていてよく勉強を教えてくれた――顔面蒼白になって俺に母の訃報を伝えた。    母が死んだのは遥か遠い東の地であった。当時付き合っていた彼氏にフラれたショックでビルから飛び降りた、要は自殺ですねと警察は明け透けに語った。吉永先生は、もっと他に言い方があるでしょう、と帰ってきてから怒っていた。    母が死んだからといって俺に深い感慨もなく――吉永先生は泣いてくれたし、施設の友達も学校の友達も慰めてくれたが、俺は本当に、これといって特に感じるところがなかった。もしも生きていたところで母にもう一度会えるという保証もなかったし、何なら俺のことなんて忘れている可能性まであった。    だから死んでよかったとさえ思った。これでもう、二度と会えない母の姿を追いかける必要もない。別れた旦那の面影を俺に見出して泣き縋る母を振り払う、そんな夢ももう見なくて済むのだ。    葬式はせずに火葬だけで済まし、わざわざ新しい墓を造るなんて面倒なことはせずに永大供養の合祀墓に埋葬してもらった。俺はもう高校生だったが、諸々の煩雑な手続きは吉永先生が全部やってくれた。    母が死んで何も感じなかったとはいえ、俺が母を憎んでいたなどということはない。それなりに愛していた。だからこうしてわざわざ時間と金をかけて地元に戻り、駅から少し離れた山側の僻地にある墓地まで足を運んでいるわけだ。    バス停からも離れている上に坂道を上らなくてはならないので、墓地に着く前に汗だくになった。一般の墓もある墓地だが、盆の中日なのでそれほど人はいない。人目のないのをいいことに、飲用でない水道水で喉を潤し、顔を洗った。    合祀墓の献花台の前に見知った後ろ姿を見つける。鬼灯の枝を一本供え、線香をあげて手を合わせる。白髪交じりの髪、長身だが細身の体、しゃんと伸びた背筋。   「吉永先生」 「おや、啓一くん」    吉永先生は俺の恩師であり、ほとんど親代わりと言っていい存在である。   「奇遇ですね。こんなところで会うなんて。いつ帰ってたんです?」 「たった今着いたところです。俺の方こそびっくりですよ。まさか、先生がお袋の墓参りに来てくれてるなんて」    俺が花束を持っているのを見て、吉永先生は献花台の前から退いた。   「啓一くんもお墓参りですね」 「まぁ、年一くらいはと思って。そうでもしないと忘れそうなんで」 「そのお花は?」 「駅のコンビニで買いました。何でも売ってて便利ですよね」 「お線香は?」 「ないですよ、そんなもん。うち仏壇とかないし、買っても余らせちゃうので」 「じゃあ、私の持ってきたお線香、使います?」 「いいんですか? じゃあ遠慮なく……」    線香をあげて手を合わせた。一人だったら絶対にこんなことしない。花だけぽんと供えて帰る。しかし吉永先生の前では少し良い恰好をしておきたかった。    吉永先生は駅前の商店街に用事があって、そのついでに墓地に立ち寄ったそうだ。どうせならうちに寄っていきますかと言ってくれ、俺も元々そのつもりだったので、先生の車に乗せてもらって家へ伺うことになった。   「ハイブリットでしたっけ。この車、ずっと乗ってますよね」 「そうですか? 十年くらいですかね」 「いやいや、十五年は乗ってますよ」    車で四十分。ここが俺の本当の故郷。潮の香りはますます濃く、潮風で髪がざらつく。吉永先生は数年前に施設の所長を引退し、今はこの純和風の一軒家で一人暮らしをしている。俺がまだこの町に住んでいた頃、この家には何度も遊びに来た。その頃は先生のご両親と奥さんも一緒に暮らしていた。    奥の間に盆の段飾りが作ってあった。やたらと大きい雪洞だの仏の描かれた掛け軸だの、詳しいことはよくわからないけど、おそらく宗教的に正式な飾り付けをしてあると思う。仏具も一式揃っていて綺麗に手入れされている。手土産にと買ってきた品を仏前に供え、手を合わせた。その後お茶の間に通される。   「今お茶を淹れてきますから、ゆっくりしていてください」 「ありがとうございます」 「お茶菓子は羊羹でいいですか」    しかし大人になってからはほとんど来ていない。いや、来てはいるのだが、それこそ年に一回とか二回とかなので、どうにも尻の座りが悪いというか、こそばゆい感じがする。    小皿に載せた羊羹と、急須で淹れた熱い緑茶を出してくれた。羊羹は黒文字で切って頂く。苦味のあるお茶と合う。こういうところに俺は先生の育ちの良さを見る。   「どうですか、お仕事の方は。今年で五年目ですね」 「最近は結構自由にやらせてもらってますよ」 「楽しいですか」 「まあまあです。でも校内暴力とかはないんで、その点は楽かも」    その後も他愛のない会話が続いた。吉永先生は結婚していたが子供はおらず、奥さんも二年前に亡くなった。奥さんの葬式には俺も参列した。今は一人暮らしだが、公民館の集まりに参加したり、趣味で始めた畑や庭の手入れをしたり、それなりに充実した生活を送っているらしい。   「啓一くんは、結婚はまだ考えていないのですか?」 「結婚ですか、俺には無理ですよ」 「またそんな寂しいことを言って。東京は色んな女の子がいるでしょう? 誰か好い人はいないんですか」    好い人と言われて真っ先に頭に浮かんだのは成瀬の顔だ。今日帰省する旨は伝えてあるが、あいつ今頃どうしてるだろう。俺のアパートでゲームをしてるか、久しぶりに実家に帰ったかな。   「いたとして、結婚はまだ早いですよ。先生、最近は晩婚化って言って、初婚年齢が年々上がってるんですよ。女性だって三十過ぎてから結婚する人、結構いるんですから」 「そうなんですか? でも啓一くんと同世代の子達で、もう結婚して小学生のお子さんがいる子もいますよ。ほら、君の一つ上に史郎くんっていたでしょう? 彼ももう結婚して、上の女の子は今年入学するって聞きましたよ」    それはたぶん、田舎だからだ。別に早婚が悪いとは言わないが……俺には結婚は難しい。一人の人を一生愛し続け、一生一緒に暮らす自信がない。子供なんてもってのほかだ。考えただけでぞっとする。自分の遺伝子を残したいという心理がいまいち理解できない。    帰り際、吉永先生は俺にこう言った。   「いつだって帰ってきていいんですからね。ここはあなたの故郷で、私はあなたの親なんですから」    だからこうして帰ってきている。毎年お歳暮も送っているし、年賀状だって書いている。だけど吉永先生は俺だけの親ではない。   「また来年来ますよ」 「啓一くん、私は君のことが心配なんです。君は孤独に慣れ過ぎているから」    心配しなくても大丈夫ですよ。俺はもう大人だし、独りでも立派にやっていけてる。仕事だって順調だ。   「先生こそ、お体に気を付けてお元気で」    そう言って別れた。

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