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7 記憶①
毎年、この時期になると思い出す。母のことだ。
二月の、底が白む夜更け。冷気に肺が痛む。布団に潜って背中を丸め、手足を摩る。俺は母の帰りを待っている。
「ただいまぁ、ママが帰ったわよぅ」
玄関が開き、冷気が一気に這い上がってくる。膝を抱えて震えていると、いきなり布団を剥がされる。
「啓ちゃぁん、ママをあっためて」
母はコートを着たまま布団に潜り込んでくる。布団を被って、ごそごそと服を脱ぐ。触れる肌は湿っぽく、生温かい。
母がどこでどんな仕事をしていたのか当時の俺は知らなかったが、仕事から帰ってきた日は決まって知らない人のにおいがした。母の吸う煙草のにおいと、母の吸わない銘柄のにおい。母の使う香水のにおいと、母のではない香水のにおい。それからお酒のにおい。キスをするとよりわかる。
「寒い」
「じゃあ啓ちゃんは服着たままでいいわ。ねぇ、ママのあそこ、お指でいじって、ね、できるでしょ?」
「うん」
「えらいわねぇ、啓ちゃん、えらいえらい。ごほうびにお口でしてあげるわね。パパも大好きだったのよ」
「うん……」
本当は、口でされるのは好きじゃなかった。口でされるのも手でされるのも、裸の母と抱き合うというこの状況も、避けられるものなら避けたかった。だけど、俺の上で髪を振り乱して狂ったように腰を上下させる憐れな母を、見捨てることはできなかった。
「あぁ、あぁいく、いっちゃう、はじめさんっ……!」
母はこう宣言すると大概俺の口を塞ぐ。生温かい舌が無遠慮に押し入ってきて息ができない。口紅の薬品のような味と、ファンデーションの粉っぽいにおいにいつまでも慣れない。えずきそうになるのを我慢する。母が悲しむからだ。
いく、という感覚が俺にはまだわからなかった。それ以前に、そもそもセックスが何なのかをわかっていなかった。行為の最中はただただ股間の辺りがむず痒くて気持ち悪くて、母が動く度に変な声が出そうになるのを必死で噛み殺しているだけだった。
しかし母の様子を見ていればこの行為の意味はわかる。これはきっと母にとってとても大切で、幸福なことなのだろう。愛した男との幸せな時間を何度でも反復し、再現しているのだ。俺の指に、あそこに、唇に、母のにおいが染み付いていく。
母は俺の足の指を舐めるのが殊更に好きだった。パパもここが好きだったの、というのが口癖だった。気持ちいいかと訊かれるが、くすぐったいばかりで反応に困った。
「でも、ほくろがないわねぇ」
「ごめん。描き直すから待って」
「だめよ、今、舐めてるんだから」
そうやってべろべろ舐めるから、いくら油性ペンで描いたってすぐに消えてしまう。こんなことの何が楽しいのかまるでわからなかったが、母が喜ぶので飽きるまで付き合っていた。
普通ならひとしきり足を舐めた後セックスに移行するのだが、その日はたまたま母の調子が悪かった。二月の終わりの、とにかく寒い日のことだった。俺はつい最近誕生日を迎え、十一歳になったばかりだった。
「どうして、ほくろがないのかしら。だめじゃない、啓ちゃん、だめじゃないの。パパみたいになるんだから、パパみたいにならなくちゃいけないのに、どうして」
母の右手が振り下ろされる。尖った鉛筆が突き刺さる。芯が折れて皮下に残る。傷口が膿んで、腫れて、熱を持って、痛くて痛くて堪らなくなって、俺はとうとう病院に逃げた。それから俺は児童相談所というところに連れていかれ、母と引き離された。もうそれっきり、母とは会えなかった。
どうして私を愛してくれないの、と母は言った。俺は母を愛していた。確かに、愛していたんだ。でも母には物足りなかった。俺からの愛を、母は必要としていなかった。俺は母に求められたかった。存在を許される子供になりたかっただけだ。
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