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9 新しい日常②
五月の連休がやってきた。のどかな昼下がりだ。こいつと出会っておおよそ一年が過ぎたというわけだ。実際初めて会ったのは四月の入学式だろうけど、記憶にないので無視する。
あの時の悠月は生意気で小憎たらしい子供だったが、それは今も変わっていない。身長も伸び悩み、相変わらずチビのままである。でももう俺のことをおっさんとは呼ばない。皿洗いもお手の物だ。
そして一緒に暮らし始めて新たにわかったことも多い。今までは週末の三日ほどしか泊まりに来なかったが、毎日毎晩二十四時間一緒に過ごすことで、否が応にもわかることがある。悠月は基本的な生活力が皆無だ。
米を一人で満足に炊けるようになったのはほんの二週間ほど前のことだ。それまでは、大量の米粒を排水溝に流されてしまわないよう、俺が常にそばで見守っていた。一度、おれを信じて任せてみろと言われ、渋々やらせてみたらそこそこちゃんとできていたので、それ以来時々、俺の帰りが遅い時などは悠月に米を炊いてもらっている。
しかしいまだに料理はできない。この間たまたま俺が出かけていた時、昼ごはんにスパゲッティを茹でたらしいのだが、一食分の量がわからなかったのか大量の乾麺を一気に鍋に投入してしまったのだ。
結果お湯は吹き零れるわ、鍋に入り切らなかった麺が燃えるわ、湯切りに失敗してシンクに麺をぶち撒けるわで、俺が帰った時には台所は大惨事になっていた。しかも換気扇を回していなかったのか、部屋中が湯気でもくもくしていた。俺が玄関を開けた時の悠月の顔といったら、まるで救世主でも現れたのかって感じの表情をしていた。
もったいないので食べられそうな麺だけ拾い集めて皿に盛った。山盛りで三皿分にもなった。あえるだけのパスタソースを掛けて食べたが、茹で時間が足りなかったのか所々芯が残り、麺同士が張り付いたり焦げたりしていた。如何せん量が多いのでソースが足りなくなり、最終的にはベーコン入り塩胡椒パスタを作ってやった。
「麺が柔こければもっと美味かった」
「それはお前がさぁ」
「うん……ごめんな、先生。いっぱい無駄にしちまった」
「いいってことよ。挑戦する姿勢は悪くねぇ。でも次は一緒にやろうな」
「うん」
以来一人でスパゲッティを茹でたことはない。しかし悠月の無謀な挑戦は続く。
俺の帰りが遅かった日、悠月は自分一人で夕食を作ろうとした。メニューはオムレツだったらしい。卵混ぜて焼いてケチャップかければ食えるし簡単だろうと思ったのかもしれないが、出来上がったのは真っ黒焦げになったスクランブルエッグのような何かだった。しかも殻が結構入っちゃってて、噛む度に砂利の音がした。
「まぁ、食えなくはない」
「素直に不味いって言えよ」
「いや、うーん……焦げてるから苦いばっかで何とも」
「フライパンも焦げたし」
「いいって。今回犠牲になったのは卵二個だけだからな」
「今犠牲っつったな。それが本心か」
「いや、だって、ねぇ……お前こそ自分で作ったんだから責任持って全部食えよな」
まずくて食えたもんじゃない、と言って悠月はぷいと顔を背けた。
そんなに料理がしたいならと、一緒に野菜炒めを作ったこともある。ピーラーを持つ手付きも野菜を切る手付きも危なっかしくて、冷や冷やしっぱなしであった。炒める時も強火で行こうとするので中火に弱めさせ、焦げないように時々混ぜるよう指示をする。
「塩もちょっと入れるか」
容器にラベルが貼ってあるので、塩と砂糖を間違えることはない。
「どのくらい?」
「まぁ適当で」
そう言って即後悔する。容器の中に匙を置いているのだが、それに山盛り一杯掬ってフライパンに投入しようとするので、俺は慌てて止めた。
「なに」
悠月は不機嫌そうに俺を見る。
「いや、俺の言い方が悪かった。一気にそんないっぱい入れたら後で取返し付かなくなるからな、もっと少しずつ味付けしてこうな?」
「少しって?」
「せめて山盛りはやめよう。水平に一杯でいいよ」
「そんなんで味するのか?」
「どんだけ入れようとしてたんだよ。塩分過多で死ぬよ? 俺もうおっさんなんだから」
胡椒もめちゃくちゃに振りかけようとするので落ち着かせ、一緒に味見をしながら少しずつ加えていった。出来上がった野菜炒めはそこそこ旨い、言ってみれば普通の野菜炒めだった。でも俺はいたく感動したし、悠月も満足そうだった。
それから悠月は洗濯物を畳むのも下手だ。出先で雨が降ってきたので、家にいる悠月に洗濯物を取り込んでくれるよう電話をした。畳むところまではお願いしなかったが、帰ってみたら悠月が窓際で正座してせっせと洗濯物を畳んでいる。それ自体はいいのだが、問題は時間がかかり過ぎってことだ。
俺が帰るまで時間はたっぷりあったのに、まだ終わっていないなんて。丁寧なのはわかるんだけど、なんだかサイズがバラバラで、左右のバランスもおかしく、よれて皺ができていたり裾が捲れていたりして、正直困った。
「おかえり、先生」
しかも当の本人はやり遂げたような顔をしているので、ますます咎めづらい。結局その場では何も言わず、後日一緒に洗濯物を取り込んだ時にさりげなく指摘しただけである。以降も時々手伝ってもらうが、最初よりは大分綺麗に畳めるようになった。
さらに、これは生活力がどうのというよりは今までどんな生活を送ってきたのか心配になる話なのだが、悠月にはシャンプーやリンスを詰め替えるという概念がなかった。
「せんせー! シャンプーがもうねぇよ」
浴室からそんな声が聞こえたので詰め替え用パックを探して渡してやったら、これをどうすりゃいいのよって言いたげな目で見つめられた。
「だから、これをそれに入れるの」
「?」
「ちょっと、ボトル貸して」
目の前で実際にやってみせると、おお、と悠月は感心したような声を出す。
「すげぇ、こうやってやるんだ」
「やったことねぇの? 家ではお母さんに任せっぱなしだったんだろ」
「いや、うちは入れ物ごと買い替えてたから。たぶんお袋が、こういうちまちましたのが嫌いだったんだろ。前の家では家政婦がやってたから知らねぇ」
「お金持ちだねぇ……」
最後の一滴まで絞り出すんだぞ、と教えると、悠月はこくこくと頷いていた。
翌日また、洗剤がないと洗面所から声がした。仕事の最中で手が離せず、洗面台の下に詰め替え用のやつが置いてあるからやっといて、と頼んだ。悠月はいい返事をしたのだが、その後すぐにあっと大きな声が上がる。
「どうした」
駆け付けてみると、洗面所の床に液体洗剤が撒き散らされている。
「手が滑って……」
「んもー、ほんとドジ」
「ごめん」
「いいから、手洗ってきて」
床は雑巾で拭き、その日の洗濯は零れた洗剤をどうにか掻き集めて凌いだ。
*
「七海先生、二年の九条くんと今一緒に暮らしてるんですよね? 連休中、どこか出かけたんですか?」
同じ国語科の先生に尋ねられた。
俺と悠月が腹違いの兄弟だというのは、生徒達にはわざわざ知らせてはいないが、教職員の間では周知の事実だ。もちろん、一緒に住んでいることもだ。隠す必要なんてないし、むしろ知られていないと困る。教師と教え子が一つ屋根の下なんて、正当な理由がなかったら懲戒免職ものだ。兄弟なら一緒に住んでも問題はない。
「いえ、どこにも行ってません。ずっと家で……宿題してましたね」
「やっぱり真面目なんですね。家だとどんな感じなんです? 私、九条くんのクラスで現国教えてますけど、クラスでは大人しいっていうか、物静かで口数少なくて、あんまり目立つ方じゃないんですよ。成績は良いので心配はしてないんですけどね。家でリラックスしてると、性格変わります?」
「家で、ですか……」
俺は少し考えるふりをする。
「まぁ、学校とそんなに変わらないですよ」
やる気はあるのに壊滅的なほど不器用なことも、夜にはとんでもない甘ったれになることも、絶対誰にも本当のことは教えない。全部俺だけの秘密だ。
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