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11 帰省③
昼食の後、海を見たいと悠月が言うので、海沿いを散歩した。長い防潮林と黒い砂浜が続く。打ち寄せる波の音を背景に、セミとカモメが合唱する。海水浴場ではないけど、足だけ水に浸けてきゃあきゃあ騒いでいる若い子達がいる。
「先生、おれも海入りたい」
「ここ遊泳禁止だぞ」
「足だけだよ。あんな風にさ。だってすごく暑いだろ?」
悠月はシャツの袖で汗を拭う。キラキラ滴る水滴が空中で弾ける。
「……足だけな」
「いいの」
「ああ。これ被ってろ」
持参したキャップを被せてやる。悠月はツバの部分を指で摘まんで、汗でじめっとしてる、と文句を言った。
「しょうがねぇだろ、ずっと被ってたんだから」
「それに先生のにおいが……」
「うそ、臭い?」
悠月は黙って首を振り、裸足で波打ち際へと駆けていく。足首まで濡らし、粗い砂を踏みしめ、白い波を蹴る。悠月は楽しそうに叫ぶ。
「冷たい!」
「涼しい?」
「暑い!」
潮風に髪をなびかせて、悠月は渚を飛び跳ねる。夏の海は吸い込まれそうなほど美しい。悠月が爪先を蹴り上げる度、水滴が跳ねて放物線を描く。悠月の髪にも雫が飛び散り、太陽を浴びて白く煌めく。
「先生、お母さんともこの海に来た?」
「来ねぇよ」
「先生のお母さん、どんな人だったんだ? おれに似てる?」
似ているといえば似ているが、あくまで他人の空似だろう。藍色の目は珍しいがたまたま同じだったというだけで、濡れ羽色の髪については日本人なら大抵こういう色をしているだろうから。
「お前の方がずっと綺麗だよ」
悠月はしばらくして遊び疲れ、木陰で休んでいた俺の元へ戻ってくる。ふくらはぎまで濡れて、足は砂だらけだ。帽子を被っていたのに、顔が真っ赤に火照っている。ぬるくなってしまったペットボトルのお茶を手渡すと、悠月は喉を鳴らして飲んだ。
海辺にある公園の水道で足を洗った後、俺が育った施設へ行ってみたいと悠月は言い出した。
「なんで」
「だっておれ、先生のこと何にも知らねぇんだもん。お母さんが死ん……亡くなってたのも知らなかったし、先生に先生がいたことも知らなかっただろ。こんな綺麗な海がある町に住んでたくせに全然なんの話も聞いたことねぇし。子供時代のことも、どんな高校生だったのかも知らねぇ」
「……でもなぁ……」
俺は渋ったが結局押し切られ、とりあえず見るだけ見に行ってみた。
敷地を囲う塀があり正面の門も閉まっているので、外からでは中の様子はほぼわからない。ただ甲高い子供の声がちょくちょく聞こえる。
「うーん、中入ってみたいなぁ」
「だめだ、部外者なんだから」
「でも先生が昔住んでたとこなんだろ」
「そうだけど、今はもう違うから……」
早く立ち去りたくて、粘る悠月を後ろから羽交い締めにして持ち上げた。ちょうどその時である。
「啓ちゃん? あんた啓ちゃんじゃない! やだぁ、一年ぶり?」
ざらざらした耳障りな声が俺を呼んだ。またかよ、と内心溜め息を吐く。
「美香さん」
「いやねぇ、昔みたいに美香でいいわ……ん? 何この子、あんたの子?」
悠月を一目見、女は言った。悠月は警戒する猫のごとく俺の背後へ隠れる。
「かわいい~。何年生?」
「高校生」
「あんたの子なの?」
「いや……」
何とも説明しにくく言い淀んでいると、女は煙草を咥えて火をつけた。
「まー、あんたの子なわけないか。十歳くらいで仕込まなきゃなんないし」
「……親戚の子だよ。預かってる」
悠月がシャツの裾を引っ張って適当なことを言うなと訴えてくるが一応嘘ではないし、何より事実を長々と説明するのは骨が折れる。この人相手にそんな手間は掛けられない。
「ふーん、親戚の子ねぇ。道理で」
女は煙草を咥えたまま、悠月の顔を凝視する。身長は同じくらいだろうが、ヒールを履いている分女の方が目線が高い。
「昔の啓ちゃんそっくりだわ」
「……別に、言うほど似てねぇよ」
「似てるわよ。ここに来たばっかりの啓ちゃん、こんな感じだったわ。かわいい目してたけど、ちょっと捻くれてるような感じで」
そう言って、吐いた煙を悠月に吹きかける。悠月は煙たそうに顔をしかめて咳をした。
「あは、かわいー。やっぱ若い子はいいわ。反応がいいもん」
ケラケラと笑う女から、俺はそれとなく悠月を引き離す。
「美香さん、こんなとこへ何の用があって来たんだ? 里帰り?」
「まさかぁ、そんなことするわけないじゃない」
言葉を切り、うっとりとした顔付きで煙を吸い込む。
「あたしはねぇ、自分の子供に会いに来たのよ」
そういえば子供が二人いると言っていた。
「最近また赤ちゃん産んだんだけど、育てらんなくなっちゃってさぁ。まとめてここに預けてんのよね。旦那は当てになんないし、あたしも仕事見つけなきゃやばいんだけど、まー面倒よね。しばらく今のままでもいいかなーって」
指の際一センチまで煙草を吸い、吸殻を地面に捨てて靴の裏で踏み付ける。
「この中禁煙だからさ。禁煙禁煙ってもーうるさくって。だから入る前に吸うわけ。よかったらあたしの赤ちゃん見てく? あんたとあたしの仲だもん、抱っこさせてやってもいいわよ。あ、もしかするとあんたの子って可能性も――」
「悪い冗談はやめろ。行くならさっさと行けよ」
「あっそ、残念。じゃーね」
追い払うような口調で俺は言ったが、女は平気な面でさっさと門をくぐった。まるで一時の嵐にでも襲われたような気分だ。
「……何だったんだ、今の人」
悠月は俺の背後から出てきて呟く。
「さぁ……」
「嫌な感じの女だった。おしゃべりだし」
「女ってのは大方そういうもんだろ」
「先生とはどういう関係なわけ」
「どういうって……」
ただの古い知り合いだと伝えた。実際その程度だ。ふぅん、とだけ悠月は興味のなさそうな声で答えた。
夕暮れてヒグラシが鳴いている。最寄りの停留所へ行くとちょうどバスが来るところで、急いで駆けていって乗り込んだ。一番後ろの四人席に並んで座る。俺達以外に乗客は一組しかいなかった。
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